映画『国宝』を見て思ったこと。
Amazonプライムビデオのほうで、無料で見れたので、見てみた。
歌舞伎については、全然興味はなく、10代後半まで見ていたテレビにより、知りもしない文化ではあるものの、血筋が受け継がれるという点では少しの認識をしていた。
それを踏まえて、『国宝』を見た。
一言で感想を言うと「歌舞伎が嫌いになった」が1番大きなものとなった。
なぜなら、私の思想「人の尊厳を尊重すること」に反すると感じたからだ。
これは、『国宝』や作者を馬鹿にするものではなく。私自身の思想とどのようにぶつかり、どのような視点で映画を見たかの表出に過ぎない。
よって、ただ批判したり、反論したりしたいわけではない。
私は喜久雄の人生観についてとても、憤りを感じている。血筋や世間体。彼は、いろんなしがらみがあって、結局1人になる。
この孤独・孤立は如何にして生まれたのか。なぜ、これほどまでに芸にのめり込む、人間が生まれたのか。
個人的には、おそらく、「ありのままを愛される・認められる」経験をしてこなかったが故の、自己価値の表現方法の一つとして成り立っていたのだと思っている。
芸がなければ彼は、孤立していたかも知れない。この物語からはそう捉えられた。人間とは社会性を持つ生き物であり、孤立することには危険を感じるのだと思う。
伝統や風潮を大事にする考え方が、条件付きの愛と成り下がり、その条件と自分の価値を混同させてしまったのだろう。そして彼は、その修羅の道を選び進んだ。
「好きなことできてるんだし、いいのかもな。にしても辛いけど…」と、思う事もある。
しかし、本当にそれだけだろうか?
問いは深くなっていく。
むしろ、彼の出自やその後の人生や稽古、歌舞伎役者である義理の父との関係。そして親友の俊介。
また、この俊介との対比を考えるとかなり面白い。
喜久雄も俊介も「ありのままを愛される」ということはしていないように見える。厳しい稽古からも分かる通りや芸が上手でなければ愛されない。
一度名前を剥奪されそうになることもあったけど、結局戻ってきた俊介。抑圧されてやる芸は息が詰まる。それに、血のつながっていない喜久雄はどんどん上達し、才能もあり、やはり物理的な距離からも比較対象となる。自分の至らなさを感じさせる存在となっていたのであろう。
ブチギレシーンもあるけど、それすらも芸としていた。しかし、これは本心が出てきた瞬間でもあると思っている。この本心こそが、葛藤となって現れている切なさ。
だから距離を置いて心を整える時間が必要だったんじゃないか?とも思った。
いろんな人がいて、自分の中にもいろんな心が同居して人間らしく生きられるのに。それを否定する伝統や血筋。でもそれによらず、才能を発揮する喜久雄。いろんなものが相まって、美しくも悲しい人間の愛らしさを感じた。
そういう死に方を選んだという美しいものも感じるが。
そうせざるを得ない状況だったという悲しい感じもある。
どういきたいか。どう死にたいか。その問いを深く残してくれるいい作品であると感じた。
さぁ。ここからの人生どう進めようか。と。そう思わせてくれる作品でした。
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