♯55 三日月堀を備えた武田の城・躑躅ヶ崎館
武田信玄は「人は石垣,人は城」と言って城郭を築かなかったと言われるが,その居館となった躑躅ヶ崎館は,大手に武田特有の三日月堀を備えていたようだ。見事な造りは,まさに武田氏の本城と言って良いのだろうと思う。(山梨県甲府市古府中町)
武田氏館の主郭部
「武田氏館」は,信玄の父・武田信虎が,永正16年(1519)川田(甲府市川田町)から躑躅ヶ崎の地に館を築いて移り住んだのが始まりらしい。館の周囲には家臣や商職人らの移住を図ったほか,寺社も多く配置して,甲斐国の新たな府中である「甲府」を開いた。だが,信虎の時代には主郭部分のみの館構えであったらしい。

現在,館の主郭部分には武田神社が鎮座し,南側に参道が開かれている。まるで城門があったかのような石垣が築かれているが,これは武田神社創建時に切り開かれたものらしい。もちろん,石垣も神社のもので,もともとは濠と土塁が続いていたようだ。


増設された曲輪と復元整備
館は,武田信玄の時代以降に規模が拡大されたようだ。西曲輪,味噌曲輪,稲荷曲輪,御隠居曲輪等が増設されている。さらに,武田氏の滅亡後にも梅翁曲輪や大手曲輪が新設されている。ここまでくれば,これは立派な城郭だろう。
訪れた時,西曲輪は文化財整備のための工事中だった。甲府市webページの「史跡武田氏館跡の整備と活用」によれば,今後整備が進むと諸曲輪の姿がくっきりとした形で目にすることができるようだ。西曲輪には礎石建物の復元や堀底に降りて土塁や堀の構造を実感できる視点場を設けることが計画されている。整備の完了が待ち遠しい気がする。


主郭部分の館の配置
主郭部分の館配置は,古絵図などから推測できるらしい。武田神社の社殿のある辺りが中心だったのだろう。すごいなと思ったのは,主郭の南面に設けられた庭園は,土塁越しに富士山を借景としていたということだ。



主郭庭園
主郭内の武田氏時代の様子は、江戸時代に作成された絵図から窺うことができる。
発掘調査では絵図で泉水と表記がある場所から立岩の石組や青と白の玉砂利を敷き詰めた州浜など、庭園跡が発見されている。この庭園は、土塁越しに眺める富士山を借景にしていたと思われる。
発掘された大手と三日月堀
館の正面,大手は東側に開いていた。現在,復元された石塁や総堀,土塁などを見ることができる。ただし,これは武田氏滅亡後に構築されたもので,大事なのはその地下から三日月堀の跡が発掘されたということだ。三日月堀は,三日月状の堀を設けて虎口を守る,いわゆる丸馬出しで,武田系の城郭に特有のものだ。武田の本城である躑躅ヶ崎館の大手に三日月堀が配されていたというのは,やはり武田の城なんだなと思えて感慨深い。




武田氏滅亡後に築かれた梅翁曲輪
武田氏館の主郭と西曲輪の南面に出丸のように築かれた大きな曲輪が梅翁曲輪である。築かれたのは,武田氏滅亡後のことだが,築造者が信長家臣の河尻秀隆なのか,徳川家康家臣の平岩親吉なのか,豊臣秀吉家臣の加藤光泰なのかは分からないという。曲輪の構造が分かる重要な史跡として,整備されている。



史跡武田氏館跡梅翁曲輪ゾーン
武田氏館は、戦国大名武田氏三代(信虎・信玄・勝頼)の本拠として築かれた1辺が約200mの正方形をした居館であり、東に位置する躑躅ヶ崎と呼ばれる尾根の麓にあることから、一般には「躑躅ヶ崎館」の呼び名で親しまれている。
信虎によって永正16年(1519)に築かれた初期の館は、現在武田神社が鎮座する主郭のみであった。信玄時期以降、国・味簡屋由本の増設があり、武田氏亡後の横政権時期には新たに曲輪・笑学外曲輪を楽し、現在の親横となっている。
織豊政権は、甲斐国を統治する換点として武田氏三代の跡を再利用した。新たに増設された曲輪は、甲府城へ統治機能が移行するまでの間、重要な役目を負っていた施設である。
梅翁曲輪南西部に残っている松木堀と呼称される堀や土塁を整備工事前に発調査した結果、土塁基底部に石列が巡っていることが判明した。土塁には曲輪内の雨水等を集水して堀へ流水する集水口や暗渠が見つかった。虎口では石積や門に伴う礎石が確認できた。また,土塁の下層からは武田時期の遺構が残っており、梅翁曲輪築造以前は城下町が展開していたことが明らかとなった。「甲州古城勝類以前図」から「典厩」(信玄の弟の武田信繁)の屋敷地が広がっていたと考えられている。
梅翁曲輪の築造者は、文献・絵図から織田信長家臣の河尻秀隆や徳川家康家臣の平岩親吉、豊臣秀吉家臣の加藤光泰が想定されているが確証はない。しかし、武田氏滅亡後の館跡の変遷を知るうえで重要な施設であり、構造をより明確にする方針で整備を行った。
信玄と武田二十四将
信玄麾下の猛将たち,武田二十四将を描いた絵画は様々あるが,自分の中で強いインパクトを持って記憶に残るのは,少年の頃に歴史雑誌に掲載されていた武田二十四将図だ。これは,幕末から明治・大正にかけて歴史画を描いた松本楓湖が描いたもので,よく見る二十四将まとめて描いたものではなく,1人1人が写実的に描かれた迫力ある絵画作品になっている。明治5年(1872年)の武田信玄公三百回忌に恵林寺に奉納され,武田信玄公宝物館に収蔵されているようだ。板垣信方像には,板垣の子孫であると称する土佐藩の板垣退助が画讃を寄せている。
当たり前だが,躑躅ヶ崎館の周辺には,二十四将が館を構えて暮らしていたわけだ。館の周辺を歩けば,至る所で二十四将のだれかの屋敷跡の表示に出会う。推しの武将がいれば,その屋敷跡を探してみるのも楽しいだろう。肖像付きの解説があり,想像を膨らませることができる。



織田信長は,武田勝頼を東夷に擬すことで,滅亡させる大義名分を得た。甲斐武田氏の祖が,東夷として東北の人々を討った源氏の流れを汲むことを考えると,思いは複雑だ。信長によって焼き払われてしまった甲斐府中の繁栄や街並みはどのようなものであったのか,もはやリアルに想像することが難しい。
そんな中,甲府市が平成6年(1994年)に「史跡武田氏館跡保存管理計画」を策定し,貴重な史跡を開発から守り,保存・整備を進めていることはすばらしいことだと思う。甲府市の取組を信玄・勝頼親子はもちろん,二十四将の歴々も天から見守っていることだろう。

