見出し画像

フィクションとしての現実 / 「トータル・リコール」

映画「ブレードランナー」で描かれたような記憶の真偽ということを突き詰めると、それは現実というものをフィクションとして提示してくる。たとえば、幼少期に父親と一緒に遊園地で遊んだ記憶があるとしよう。ところが、もしその記憶が父親と母親を間違えていた場合、あるいは誰かによってデザインされた記憶である場合、その記憶の持ち主はフィクションを抱えていたことになる。この現世では今のところ記憶の埋め込みは実用化されていないが、このように事実を取り違えて記憶すること、もしくは都合良く記憶を改竄することは珍しくないのだから、我々は現実と呼んでいる世界のなかに相当の割合でフィクションを混ぜているということだ。このフィクション率が高くなると「アタマがイカれている」人物となる。
フィリップ・K・ディックは1966年に We Can Remember It for You Wholesale という短篇を著し、このような「フィクションとしての現実」というものを描いてみせた。1990年と2012年に映画化された「トータル・リコール」はどちらもこの短篇を原作にしているものの、1990年の映画はほとんど原作を改変して別の物語と化しているため、コリン・ファレル主演の2012年の作品を紹介したい。
この映画の脚本は、ディックの設定をうまく活かしつつ、現実とフィクションという大衆受けしないテーマをしっかり描いており、よく出来ている。工場労働者である主人公ダグラス・クェイド(コリン・ファレル)がリコール社を訪れると、突然警察に強襲され、訳も分からず追われる身となり、帰宅すると妻のロリ(ケイト・ベッキンセイル)からも命を狙われるという、「007」シリーズや MARVEL 作品も顔負けの幕開けである。ここからダグラスは、どうやら職業や妻、そして名前など、自分の記憶の大半が「偽造」されたものであることに気付き始めるーー。

この映画を台無しにしてやったワ

とにかく本作はダグラスの「本当の恋人」であるメリーナを演じていたジェシカ・ビールが大根役者すぎる。本作の演技でラジー賞にノミネートされていたが、大根どころか、すりおろし大根である。ダグラスの妻を演じていたケイト・ベッキンセイルは当時、本作のレン・ワイズマン監督の妻だったので起用されたのだろうが、スタイルが良いだけに文句はない。ジェシカ・ビールは一体なぜなのか。
また、レン・ワイズマン監督は「アンダーワールド」シリーズがヒットしたことで知られているが、「トータル・リコール」は脚本家がきちんと現実とフィクションというテーマを持ち出してきたのだから、アクションやカーチェイスなどのシーンは極力カットして、「どの記憶が偽造なのか」ということにもっと焦点を当てて時間を割くべきだった。本作を観て一発で把握できる観客は稀だろう。案の定、ワイズマン監督はこの映画以降、ろくな仕事にありつけていない。本作のテーマに相応しくない男を監督にしたことが問題である。
さて、このように映画とは監督の手腕が大切である。現実とフィクションの交差する世界を撮るならば、「シャッター アイランド」のマーティン・スコセッシ監督のように、ゆっくりとした時の流れのなかで処理しなければ観客が追いつくことができない。あの映画では主人公テディ・ダニエルズの記憶が本人によって偽造されていることが明かされ、まさにディックの小説と共通するテーマだった。つまり、現実を認知する能力を失った者は、テディのような精神病患者のごとく、現実をフィクションで埋めてしまっている、という人間の恐ろしい真実に触れている。

デザインされた記憶を埋め込まれたダグラスや、妄想を現実として把握しているテディは「たとえ」であり、我々が現実をきちんと把握することは可能なのか、あるいは、人の数だけ現実が存在していると考えてみれば、現実とはフィクションの別名ではないのか、ということが示唆されている。これは哲学だ。
このようなテーマの「トータル・リコール」の監督として、吸血鬼と狼男のアクション映画を撮っていた男を起用するなんて、新型スポーツカーのテストドライバーとして石破茂を雇うようなものだ。

この監督は才能ないから離婚よ

本作の公開から数年後、ケイト・ベッキンセイルはレン・ワイズマン監督と離婚した。「アンダーワールド」に始まった結婚生活は、「アンダーワールド」シリーズの終焉とともに終わった。僕の好きな女優の一人である。
ちなみに、「トータル・リコール」は筋書きがしっかりしており、コリン・ファレル主演なので、多くの批評家はその点を評価して「悪くはない」という論調なのだが、たとえば Rotten Tomatoes のようなサイトでは酷評の嵐である。おそらく題材を理解できなかった人たちが大半であり、食べログのような衆愚が発揮されている。この現実のなかで一番信用できないものは「みんな」である。なぜなら「みんな」とは、フィクションを共有する者たちのことである。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集