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声をかけた男──重田 貞夫と、FC町田ゼルビアの原点

都道府県4部から始まったJ1クラブの、知られざる創設者の物語

2024年、FC町田ゼルビアはJ1リーグで3位に輝いた。
アジアへの切符を手にしたこのクラブの物語は、
誰も知らない都道府県4部から始まっている。
そして、それを始めた男のことを——あなたは知っているか。


天空の城から見える景色

「天空の城」と呼ばれるスタジアムがある。

野津田公園の丘陵に佇む、町田GIONスタジアム。最寄り駅からバスで揺られること20〜40分。それでも試合日になると、青いユニフォームを纏った人々が坂道を登っていく。2024年、J1リーグで3位という歴史的な成績を残したFC町田ゼルビアを一目見ようと、この"登山道"を選んだファンたちがいた。

しかしこのクラブ、その輝かしい現在地から考えると、信じがたい出発点を持っている。

都道府県リーグ4部。

日本サッカーの最下層カテゴリー。プロとアマの垣根など、まだ誰も考えもしない時代。そこに1人の男が立ち、「ここから始めよう」と言った。

名を、重田 貞夫(しげた さだお)という。

今はもうこの世にいない。公式記録には「故人」と括弧書きで残るだけだ。しかしそこに、FC町田ゼルビア35年の歴史の、最初の一文字がある。

町田という街と、サッカーという文化

重田貞夫を語るには、まず「町田という街」から入らなければならない。

東京都の南端、神奈川県との境に位置するこの街は、1970年代から少年サッカーの聖地として全国に名を轟かせていた。1977年、町田サッカー協会に所属する小学生たちを選抜して「FC町田トレーニングセンター」が発足。この選抜チームが、のちのFC町田ゼルビアのルーツとなる。

重田は当時、町田サッカー協会の理事長を務めていた。

理事長という肩書きは、サッカー行政の旗振り役である。ピッチの上ではなく、会議の場で、補助金の交渉で、普及の計画で——町田のサッカーを支え続けた人物だった。

その重田が胸に持ち続けていた夢がある。

「清水FCを全国で倒す」。

当時の少年サッカー界を牛耳っていたのは、静岡・清水の少年チームだった。縦へ縦へとボールを蹴り込む清水スタイルが支配するなか、FC町田は異なるアプローチを選んだ。横パスで相手を揺さぶり、コースを作って崩す。「横が縦を制する」——そのフレーズは、やがて町田サッカーの哲学になった。

そして1981年。全日本少年サッカー大会で、重田が責任者を務める協会の少年チームは清水FCを撃破して全国制覇を果たす。

重田が掲げた旗の下で、子どもたちは全国の頂点に立ったのだ。

「トップチームを作ろう」——その一声が歴史を変えた

1980年代が終わりに近づいたころ、重田の頭の中にあったのは「次の夢」だった。

少年から青年へ。ユース(高校生年代)から社会人へ。FC町田には各年代のチームが揃ってきていた。あとはひとつ、頂点が欠けていた。大人たちがプレーするトップチーム——それがあれば、FC町田のピラミッドが完成する。

1989年、重田は動いた。

まず、町田市社会人リーグに所属するすべてのチームへ案内状を送付した。「トップチームを作る。セレクションに来てほしい」——そういう趣旨の文書だった。集まった人数は、約20人

それがFC町田トップチームの原型だった。

その20人に、FC町田ユースの卒業生が加わる形で「FC町田トップ」が正式に創設された。Jリーグの開幕(1993年)よりも前のこと。企業スポンサーも、行政の後ろ盾も持たない。本当に市民の力だけで生まれたクラブだった。

重田が声をかけなければ、案内状を送らなければ、誰かが最初の一歩を踏み出さなければ——FC町田ゼルビアというクラブは、この世に存在しなかった。

東京都4部、その小さな出発

1991年。重田貞夫は初代クラブ代表兼監督に就任した。

東京都サッカー協会へチーム登録。東京都社会人サッカー連盟に登録し、翌年からの東京都リーグへの参加が決定した。そして東京都社会人サッカーリーグ4部——日本のサッカーの最底辺カテゴリーで、FC町田は産声を上げた。

当時のJ1の前身にあたる日本サッカーリーグ(JSL)の華やかさとは、まったく無縁の世界だった。整備されたスタジアムも、プロの給与も、スポンサーボードも、何もない。あるのはボールと、ピッチと、サッカーへの情熱だけだった。

クラブの公式記録には、こんな一節がある。

「これまでは重田貞夫氏が監督となっていたが、実際は不在のことが多く、実質的には菰田省二氏がゼルビア初の監督」

これは批判でも皮肉でもない。重田という人物の役割を、正確に物語っている。彼が担ったのは、現場の指揮ではなく**「旗を立てること」**だったのだ。

旗が立てば、人は集まる。 人が集まれば、文化が生まれる。 文化が生まれれば、歴史が動く。

重田が立てた旗は——その後、どこまで到達したか。

種は、土の中で育ち続けた

重田は1995年に代表を退いた。その後、クラブの運営は次の世代へと引き継がれていった。

菰田省二(1996〜2002年)、守屋実(2003〜2007年)、戸塚哲也(2008〜2009年)——次々と新しい指導者が現れ、クラブを1段ずつ引き上げていった。2005年に東京都リーグ1部優勝。2006年に関東サッカーリーグ2部優勝。2007年に関東リーグ1部昇格・初優勝。2008年、全国地域サッカーリーグ決勝大会制覇、JFLへ。そして2012年、ついにJリーグ(J2)へ参入した。

重田が都道府県4部に登録した年から数えて、21年後のことだ。

その後も旅は続く。一度JFLへ降格し、J3からやり直し、2023年にJ2優勝・J1昇格。そして2024年、J1で3位——アジアの舞台への切符を手にした。

日本で唯一、都道府県リーグ4部からJ1まで到達したクラブ。

その記録の、最初の記録者が重田貞夫だった。

「重田さんは、ここまでのことを想像していたんだろうか」

そう思わずにはいられない。おそらく彼が夢見ていたのは、Jリーグ参入などという話ではなかった。もっとシンプルに——「町田にトップチームがほしい」。それだけだったかもしれない。

でも、そのシンプルな一声が、今のゼルビアにつながっている。

彼が残した哲学

重田が育てたのは、チームだけではなかった。

「横が縦を制する」——あの横パスの哲学は、少年サッカーの時代から重田が温めてきたものだ。1981年に全国を制したあの戦い方は、「縦に蹴るスタイルへのアンチテーゼ」として町田サッカーのアイデンティティに刻まれた。

その後のゼルビアが歩んできた道の中で、その哲学がどれだけ直接的に引き継がれたかを断言することはできない。しかしひとつのことは言える。「この街はサッカーで何かを変えられる」という信念——それは確かに、重田から始まって、次の世代へ、さらに次の世代へと渡ってきた。

「故人」という二文字の重み

公式サイトに、その名は「重田貞夫(故人)」と括弧書きで記されている。

詳しい逝去の年月は公開されていない。生年月日も、出身地も、確認できる情報は多くない。FC町田ゼルビアのJ1への道のりは多くの書籍やメディアで語られているが、その原点にいた重田貞夫個人の物語は、まだほとんど語られていない。

それでいいのか、と思う。

今このクラブを好きなすべての人——野津田の坂道を登るたびに胸が高鳴る人、青いユニフォームを着て声を枯らす人、遠くから試合を見守る人——その全員の「好き」の源流に、この男の「声をかけた」という行為がある。

彼を知らなくても、ゼルビアを愛することはできる。
でも知ったあと、その愛はほんの少し——深くなると思う。

記憶の中の名場面

重田貞夫氏は「選手」ではなく「創設者・代表」として在籍した人物だ。特定の試合でのゴールやプレーという形での名場面は存在しない。しかし彼の「名場面」は別の場所にある。

場面①:1981年、全日本少年サッカー大会 全国優勝

清水FCを撃破した瞬間。「横が縦を制する」という町田の哲学が全国に証明されたとき、重田の夢はさらに大きくなった。「この街のサッカーで、もっと高いところへ行きたい」——その火が、トップチーム創設への道を開く。

場面②:1989年、案内状が20人を集めた日

町田市内の社会人チームへ一斉送付された「トップチームを作る」という案内。それに応じた約20人が集まった日。派手さのかけらもない、体育館か公民館かどこかでの集合だっただろう。でもその場がなければ、FC町田ゼルビアは存在しない。

場面③:1991年、東京都4部への参入初年度

都道府県の最下部カテゴリーのピッチで、初めてキックオフの笛が吹かれた。誰が見ていたかわからない。スタンドに観客はほとんどいなかったかもしれない。それがゼルビアの公式戦の第1ページだった。

あなたは知っていたか

最後に、問いかけたい。

今日もゼルビアの試合を見る前に、あるいは試合後の帰り道に——一度だけ、この名前を思い出してほしい。

重田 貞夫。

企業の後ろ盾も持たず、プロのノウハウも持たない男が、「これを作ろう」と言った。約20人が集まった。そこから始まった。

日本で唯一、都道府県リーグ4部からJ1まで登り詰めたクラブ。その最初の「声」の主は、今はもうこの世にいない。

でも、その声はまだ——野津田の丘に、響いている気がする。