勝ったのに、上がれなかった。
FC町田ゼルビア 2010年JFLシーズン、ある「3位」の物語
リーグ:日本フットボールリーグ(JFL)第12回 監督:相馬直樹 / 最終順位:3位 期間:2010年3月14日〜11月28日
⚠️ 編集注記:リーグ区分について
2010年のFC町田ゼルビアはJ1ではなく、**JFL(日本フットボールリーグ)**に所属していた。当時の序列はJ1→J2→JFL→地域リーグ。JFLは全国最高峰のアマチュアリーグであり、優秀な成績を収めたクラブがJ2への昇格審査を受けられる「Jへの登竜門」だった。ゼルビアのJ2初参入は2012年、J1初参入は2024年のことである。
プロローグ:2010年11月、野津田の丘で
東京都と神奈川県の境界に近い、野津田公園の奥深く。
鶴川駅か町田駅からバスに揺られ、終点で降りて坂を登る。スタジアムにたどり着いた頃には、すでに少し息が切れている。それが町田市立陸上競技場だった。野津田公園の中に佇む、収容人数6000人ほどの小さな箱。照明設備はなく、夜は試合ができない。プロのクラブが本拠地にするには、あまりにも狭く、不便な場所だった。
それでも、2010年の秋、そこには確かに夢があった。
FC町田ゼルビアがJFLで3位に入った。J2昇格の成績条件を満たした。しかし、その手は空を掴んだ。スタジアムが、足りなかった。それだけだ。
シーズン概要:2010年日本フットボールリーグ(JFL)
項目内容大会名第12回日本フットボールリーグ(JFL)開催期間2010年3月14日〜11月28日参加チーム18チーム試合形式2回戦総当り・前後期各17節・計34試合優勝ガイナーレ鳥取(初優勝・24勝5分5敗・勝点77)2位以下詳細は後述
当時の日本サッカー界
2010年はサッカーの世界が南アフリカに集まった年だ。FIFA W杯南アフリカ大会。日本はラウンド16でパラグアイにPK負けを喫した。「本田圭佑、岡田ジャパン」という言葉が列島を沸かせたあの夏、JFLの野津田でも、小さなドラマが静かに進んでいた。
J1では名古屋グランパスがストイコビッチ監督のもとでリーグ初優勝。日本サッカーが上から下まで熱を帯びていた。
前シーズンの記憶:2009年という助走
2009年。FC町田ゼルビアはJFLに初参入した年だ。2008年に関東リーグ1部を連覇し、全国地域リーグ決勝大会を制して昇格を勝ち取った。「FC岐阜元監督」の戸塚哲也が率い、最終順位は6位。
初めての全国リーグ。平均入場者数は基準の3000人に届かず、スタジアムの照明も不備。この年のJリーグ本加盟申請は自ら見送った。土台を作るための一年だった。
課題は明確だった。スタジアム。入場者数。そして、もっと強い指揮官。
オフシーズンの衝撃:相馬直樹、来る
2009年オフ。クラブが放った一手が、日本のサッカー界を驚かせた。
相馬直樹、当時38歳。静岡県清水市出身。清水東高、早稲田大学を経て1994年に鹿島アントラーズへ。黄金期の鹿島で左サイドバックとして活躍し、1998年フランスW杯で日本代表のユニフォームを着た男だ。「ジーコのラストゴールをアシストした」という逸話でも知られる。
そのW杯経験者が、J2にも届かないJFLのクラブの監督に就いた。
これは当時として特筆すべき出来事だった。W杯を経験した日本人選手として初めて、監督の椅子に座った。しかも選んだ舞台は、プロリーグですらなかった。
なぜ、ここを選んだのか。
相馬自身が詳細を語ることはなかった。ただ、彼の選択は結果として「挑戦」だったと言えるだろう。スターの転身先として、最も「らしくない」場所。それがFC町田ゼルビアだった。
同じ2010年3月、クラブはもうひとつの「史上初」を成し遂げる。アメリカのプロリーグMLS(メジャーリーグサッカー)のD.C.ユナイテッドと業務提携を締結。日本のクラブとMLSクラブの業務提携は、これが初めてだった。 JFLのアマクラブが大西洋の向こうの名門と手を結ぶ。この非常識な野心こそが、当時の町田の体質だった。
シーズン序盤(第1〜10節):相馬ゼルビアの始動
3月14日、第12回JFLが開幕した。
相馬ゼルビアは序盤から安定した戦いを見せる。組織的な守備を土台に、前線のダイナミズムを活かすスタイル。選手たちは「勝ちにこだわる」相馬の姿勢をすぐに吸収した。
この時点での順位は上位圏を維持。前期17節を戦い抜き、前期上位3位以内を確保する。
これが何を意味するか。第90回天皇杯本戦への出場シード権獲得だ。
クラブ史上初の天皇杯出場が、確定した瞬間だった。
シーズン中盤(前期終了〜夏):勝てる手応えと静かな壁
前期を上位で終えたゼルビアは、後期も勝点を積み上げた。
ガイナーレ鳥取が独走する中、町田は3位争いを着実に制していく。2位・松本山雅FCとの争い、J2参入を目指す同じ準加盟クラブとのプライドをかけた戦い。JFLはプロとアマが混在するリーグだ。ホンダや佐川印刷など大企業の実業団チームと、夢を抱く市民クラブが同じピッチで戦う、独特の場所だった。
一方で、チームには見えない重さがあった。
成績面でのJ2参入条件は「4位以内、かつ準加盟チーム内で3位以内」。現実的に狙える位置にいながら、クラブは知っていた。町田市立陸上競技場はJリーグ基準を満たしていない。 収容人員が足りない。照明がない。申請はできない。
勝てば勝つほど、その壁の輪郭が鮮明になる夏だった。
記憶に残る名勝負①:天皇杯・東京ヴェルディ撃破
想像してほしい。JFLのクラブが、J2のクラブと対戦する。
東京ヴェルディは日本サッカー黄金期の象徴だ。かつてJリーグをリードした名門。2010年当時はJ2に落ちていたが、それでもJFLとは格が違う。選手のレベル、クラブの規模、何もかもが。
ゼルビアは、勝った。
スコアの詳細よりも、その事実の重みを噛みしめてほしい。Jリーグの外から来た市民クラブが、プロクラブを倒した。 天皇杯というオープンなトーナメントだからこそ生まれた、カテゴリーを越えた勝利だった。
スタンドにいたサポーターたちは何を感じたか。あの山の上の小さなスタジアムで、J2クラブを破った興奮と、誇りと。そして「このチームは本物だ」という確信。
相馬直樹の最初の仕事は、確かにこのクラブに根付いていた。
記憶に残る名勝負②:JFLの激戦から
JFL34節、18チームのリーグ戦は一筋縄ではいかない。ホンダFCや佐川印刷SCなど、長年JFLに君臨する実業団の強豪との対戦。昇格を争うガイナーレ鳥取、松本山雅FCとの直接対決。
特に松本山雅FCとの戦いは、「同じ夢を持つ者同士の衝突」として意味があった。長野の地で育つ山雅も、この年から準加盟クラブとしてJを目指していた。どちらが先にJに入るか──その競争の中で戦われた試合は、プロリーグのそれに劣らない熱を帯びた。
シーズン終盤(第25〜34節):3位確定と、空白
11月28日、JFL最終節。
ガイナーレ鳥取が24勝5分5敗、勝点77で初優勝を飾った。圧倒的な強さで、鳥取はJ2への切符を手にした。
FC町田ゼルビアは、最終順位3位。
成績の上では、J2参入の条件を満たしていた。しかし11月29日のJリーグ臨時理事会でも、町田の名は審議対象に上がらなかった。スタジアムの問題を理由に、自ら申請を見送っていたからだ。
「成績面でのJ2昇格条件を満たしながら、昇格できなかった準加盟クラブ」の第1号。
その称号は、誇りでも憤りでもある。どちらでもあり、どちらでもない。ただの事実だった。
監督:相馬直樹という存在
項目内容氏名相馬直樹(そうま なおき)生年月日1971年7月19日出身静岡県清水市(現・静岡市清水区)学歴清水東高→早稲田大学大学院(スポーツ科学研究科修了)選手歴鹿島アントラーズ→東京V→鹿島→川崎フロンターレ代表歴日本代表・1998年フランスW杯出場町田監督在任2010年(JFL3位)退任後2011年川崎フロンターレ監督→2013年山形HC→2014年町田復帰
戦術哲学:組織の守備と、速い攻撃転換
相馬が町田に持ち込んだのは、プロの現場で培ったメンタリティだ。「勝ちにこだわる」という姿勢は、アマチュアのクラブには新鮮な刺激だった。ゾーンディフェンスの徹底と、中盤でのボール奪取から素早く前線へ届ける速攻。J1の文化を、JFLに持ち込んだ。
選手との関係は「信頼ベース」だったとされる。元Jリーガーたちが混在するロスターを、一つのチームとしてまとめ上げた手腕は、のちの町田監督復帰(2014年)でも証明される。
シーズン後、クラブは続投を要請した。相馬は断った。翌2011年、彼は川崎フロンターレの監督になった。なぜ去ったのか、その理由は明確には語られていない。ただ、2014年に彼は戻ってきた。あたかも最初から、そうなることが決まっていたかのように。
主要選手のパフォーマンス
当時の主要選手たち
選手名特記事項津田和樹元清水エスパルスのMF。中盤での貢献が光る星大輔元横浜F・マリノス、FC東京などを経験したDF。経験と技術でバックラインを安定させた酒井良元湘南・山形などを経験したベテラン。クラブの地元出身という縁も持つ
プレースタイルの特徴:この年のゼルビアは「元Jリーガーと地元出身選手の融合体」だった。プロの経験を持つ者が戦い方の骨格を作り、クラブへの愛着を持つ地元の選手が熱量を注ぐ。組織力と気概の掛け合わせが、3位という結果を生み出した。
チーム統計・シーズン記録
項目内容最終順位3位/18チーム中試合数34試合リーグ形式前後期各17節・2回戦総当り天皇杯第90回天皇杯出場(シード取得)・東京ヴェルディ(J2)撃破J2申請断念(スタジアム基準未達)特記「成績クリアも昇格できなかった」日本初の準加盟クラブ
カップ戦・並行大会
天皇杯(第90回)
出場資格:JFL前期上位3チームにシード権
クラブ史上初の天皇杯出場を実現
J2の東京ヴェルディを撃破(クラブ初のJリーグ加盟クラブ撃破)
詳細の進出ラウンドは公式記録参照
Jリーグカップ
該当なし(JFL所属クラブはJリーグカップ不参加)
東京都サッカートーナメント
天皇杯につながる東京都予選への参加(詳細記録参照)
サポーターとの一体感
「山の中のスタジアム」へ、それでも人は来た。
バスの乗り換えに慣れたサポーターたちが、晴れの日も、雨の日も、坂道を登った。6000人規模のスタンドが満員に近づく日もあった。声は山の斜面を伝い、ピッチへ響いた。
このスタジアムの「不便さ」が、逆に独特のコミュニティを生んでいた。バスを待ちながら話しかけてくる見知らぬサポーター。坂道で一緒に上る仲間。野津田という場所が、一種の「聖地」になりつつあった。
その聖地が、夢への障壁でもあった。愛されすぎたスタジアムの、皮肉な両面だ。
エピローグ:3位の先に何があったか
2010年のFC町田ゼルビアは、3位だった。
それ以上でも、それ以下でもない。3位という結果の上には、昇格という出口がなかった。監督は去った。スタジアムは変わらなかった。翌2011年、ランコ・ポポヴィッチという外国人監督が新たな夢を持ち込んだ。それでもJ2への扉は2012年まで開かれなかった。
2012年にJ2に参入した。2013年に最下位で降格した。2014年、相馬直樹が戻ってきた。2015年に入替戦を制してJ2復帰。2016年からJ2で戦い続けた。2023年、ついにJ2を優勝し、クラブ史上初のJ1昇格を果たした。2024年──FC町田ゼルビアはJ1の舞台に立った。
あの2010年の秋、野津田の丘で「3位なのに昇格できない」と知ったサポーターたちは、その夜何を思ったか。
悔しかったのか。仕方ないと思ったのか。それでもまた来ようと思ったのか。
おそらく、全部だろう。
このシーズンが「伝説」として語り継がれる理由は、何も勝ったからではない。 勝ったのに届かなかったからだ。そのやりきれない感情が、逆に人々をこのクラブに縛りつけた。愛着は、悔しさから育つことがある。
2010年という年は、J1への14年の旅路の、最初の「壁」だった。
あなたなら、あのバスに乗り続けられるか。
