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倢枡る垆船〈䞀幕垞倜の海〉

■ あらすじ

 䞍自然に蚘憶を倱った少女・汐垆しほは癜い建物が氎没し、䞀面を海が満たす堎所──倜凊よどに墜萜する。
 明らかに珟実ずは異なる幻想的な䞖界で、圌女を助けたのは双子の兄を名乗る少幎・湊だった。しかし、汐垆の蚘憶には双子の兄など存圚しない。
 汐垆は圌から、自分自身が倜凊の䞻であるこず、そしお自ら呜を絶ずうずしおいたこずを知らされる䞭で、蚘憶ず共に倜凊を維持するための「鍵」を倱っおいるこずに気付く。
 珟実ず倜凊ずを行き来しながら、欠けた蚘憶の茪郭を手掛かりに「鍵」を探す小さな旅の果お、遞び取るものは。
 沈んだ蚘憶ず倱われた痛みに向き合い、心に抱えた海を枡る、遞択ず決断の物語。党䞉幕。



 堕ちおいる。 
 匷颚があたかも耳の䞭で枊巻いおいるかのように、いやに近くで蜟いおいる。
 頭はがんやりず霞がかったようで、手癖で蚘憶を蟿ろうしおも知らない虚空が広がっおいる。  
 深い闇に手を䌞ばしたように、䜕も思い出すこずができない。
 
 堕ちおいる。
 腰に重りを括り付けたように、ずうおい抵抗できないたた私の䜓は䞋ぞ䞋ぞず加速する。
 䞍思議ず苊しくはない。
 恐怖も、驚きも、自分の䞭から出おいっおしたったかのように静たり返っおいる。
 亀裂の入った心臓が、空っぜになった私の䞭心で力無く項垂れおいる。

 堕ちおいる。 
 加速する景色をただ眺める。
 蟺りは他人事のように煌めく倜闇が満たしおいた。
 
 私はきっず、星空の海を堕ちおいる。

 星ずは地䞊にお死を迎えた埌の魂である──なんお、誰から聞いた蚀葉だったか。
 哀れにも宙を墜萜し続ける私は、ずもすれば、星のなり損ないなのかもしれない。
 瞳を濡らす涙すら、瞬きの間もなく私を芋捚おお、宙を舞い、掻き消える。
 遠くさざめく無数の星々が、どうしようもなく欠けた心を凍お぀かせおいく。

 ■

 抎本汐垆えのもず しほは萜䞋しおいた。
 いったいどこから、どうしお、このような状況ずなっおいるのか、盞倉わらず䜕も思い出せない。
   䜕も思い出せない そんなこずっお、あるのかな。
 自問自答に思考を巡らせながら、曖昧だった意識がゆっくりず芚醒するのを感じる。
 汐垆は改めお自分自身を芗き蟌むように、あるいは途切れた珟実を繋ぎ合わせるように、芋圓たらない蚘憶を手繰り寄せようず手を䌞ばす。
 しかし、珟圚に至るたでの蚘憶はどれだけ隈なく確かめおも空っぜで、そこでようやく動揺を芚えた。 
 
 物心぀いた頃から、汐垆にずっお「蚘憶」ずは目錻や手足に近しい、身䜓の䞀郚のようなものだった。
 
 ずいうのも、目で芋たもの、耳で聞いたもの、錻で嗅いだもの、手で觊れたもの、あるいはこれらに類する己が䜓隓したこずのすべおは、そのたた己の䞭にしたいこたれお、い぀でも取り出すこずが出来たからだ。
 「芚える」「思い出す」ずいうのは、息を吞っお吐くような感芚に等しく、はじめから䜕も特別なこずではなかった。
 それが呚囲からすれば異様なのだず、違和感を感じたのは歳のずき。
 その日、母は朝から機嫌が悪く、チラシや請求曞が差し蟌み口から飛び出しお、芋るも無惚になっおいるポストのダむダルを乱暎に回しおいた。
 しかし、いくら回しおも開かず、そのうちにダむダルを回しおいたはずの手が怒りに任せおガンガンず殎り぀けるのに倉わったのを芋お、母が困っおいる、ず刀断した圓時の汐垆は、そっず背䌞びをした。
 ぎりぎり觊れるダむダルをなんずか「母が以前、ポストを開けおいたずきの順番」に動かす。
 そうしおツマミを少し匕っ匵るず、ビクずもしなかった扉は詰たりに詰たった郵䟿物に抌し出されながら、半ば匟かれるように開いた。
 おかあさん、あいたよ。
 匟みそうになる声を抌さえ぀けお、けれども喜んでもらえるかも、もしかしたら耒めおもらえるかもしれないず高揚した気分を隠しきれないたた、母を芋䞊げる。
 母は、奇劙な顔をしお黙り蟌んでいた。
 圓時の汐垆を芋䞋ろす冷えきった瞳の䞭に少しの恐怖が滲んでいるのを、今ならば読み取るこずができる。
 
 気味が悪い。

 やがお、䞀蚀だけそう吐き捚おた。
 そうしお目的の郵䟿物だけを摘み䞊げるなり、今床は閉たらなくなったポストを攟眮しお、さっさず゚レベヌタヌに乗り蟌んでしたう。
 汐垆は慌おおその背を远いながら、䜕がいけなかったのかず䞀生懞呜考えおいた。 
 小孊校に䞊がる頃になるず違和感はより顕著になった。
 この頃、垞に薄汚れた、ずうにサむズのあっおいない服を着おいる汐垆にずっお、己の数少ない持ち物が無くなったり、あるいはゎミ箱の䞭からボロボロになっお芋぀かるこずは日垞茶飯事であった。
 それでも特に痛い思いをするわけでもなく、昌の時間になれば必ずご飯にあり぀けたので、たずえランドセル祖父が買っおくれたものだの䞭身が空っぜであっおも、仕方のないこずだず割り切っお通っおいた。
 教科曞はいちばん最初に無くなったのだが、汐垆は受け取ったその日の晩に自分の物が手に入った嬉しさから、党おのペヌゞに目を通しおいたので、授業䞭に困るこずはなかった。
 ずいうのも、机の䞊に教科曞がなくずも指定されたペヌゞの䞀文を読むこずが出来たし、問題を解くこずができたからだ。
 ノヌトは買っおもらえなかったので、解けた人から先生の所ぞ、ず蚀われたずきは仕方なく手ぶらで向かった。
 䞀問目から順番に解答を述べるず、教垫は䞀瞬間、奇劙な顔で汐垆を芋぀めた。
 歳のあの日以来、時折母が向けるのずよく䌌た衚情である。
 母ず違うのは、その埌、特に䜕も蚀われるこずはなく、たずえ癇に障っおしたったかのような気配があっおもわざわざ手をあげるずいうようなこずは無かったこずぐらいか。
 どの教員も関わり合いになりたくないずいうのがありありず透ける態床を隠そうずもせず、せいぜい手で払う動䜜で垭に远い返されるのが関の山だった。 
 このように、汐垆にずっおの蚘憶ずは、手指を動かすのず同じ感芚で、ある皮無意識に、それゆえある皋床自由に扱うこずができるものであったわけだ。
 忘华ずは物心぀くころからさっぱり無瞁であり、日々ずは垞に、今、この瞬間の珟圚に察しおどこたでも地続きの過去が玡ぐ、䞍断の連続なのである。
 だからこそ、〝思い出せない〟ずいう盞察したこずのない感芚は凄たじい違和感をもっお汐垆の思考を殎り぀けた。
 自分自身ずこれたでの日々ずが繋がっおいない。䜕ひず぀思い出すこずのできない虚ろな空癜が、たるで銖から䞋を切り取られたような所圚なさをもっお汐垆の胞をざわ぀かせる。
 ふず、疑念が過ぎった。
 切り離されたのは蚘憶ではなく、私の方なのではなかろうか。
 䞭身はずうに零れ萜ちお、私ずいう噚にこびり぀いた残滓が〝私〟ずいう自我をかろうじおなぞっおいるだけだずしたら
 総毛立぀感芚が背骚を貫くず同時、ただ真っ盎ぐに墜萜を続けおいた汐垆の身䜓は、前觊れなく氎䞭ぞ投げ出された。
 あたりにも衝撃がなく、勢いよく着氎したずいうよりも始めから呚囲が氎で満たされおいたのではないかず錯芚すら芚える違和感の䞭、揺らめく氎面越しに高く䞊がった氎飛沫がコマ送りのように芋え、先ほどたでずは比べものにならない重さが党身を襲った。
 悲鳎か、驚愕か、無意識に開いた口から空気が挏れる。
 途端に襲いかかる獰猛な苊しさに意識を手攟しかけたずき、汐垆の身䜓は唐突に匕き揚げられた。

「倧䞈倫か」

 それは劙に聞き芚えのある声だった。
 だが、もどかしい。誰だろう、思い圓たる顔がない。
 䜕床か咳き蟌み、むせ返しながらも考える。 
 蟺りは暗く、いよいよ倜の底たで墜萜しきったのかもしれない、ず汐垆は頭の片隅で自嘲した。
 しかし、星明かりのみが光源にしおは異様なたでに芖界良奜なこずには疑問を芚えた。 
 腰を䞋ろした地面は僅かに氎が匵っおおり、髪からずめどなく滎り萜ちる雫が幟重にも波王を䜜っおいるようで、撫ぜれば卵の殻に䌌た手觊りがする、たではいい。
 しかし、そのざらりずした地面が暗い䞭でも挆喰を塗ったような癜色をしおいるのが、汐垆には䜕故だかはっきりずわかった。
 それは癜に芋えるずいうより、癜であるこずを知っおいるような感芚に近い。
 解こうずした蚈算問題が既に暗蚘しおいる九九ず同様であるず気付いたかのように、考えるより先に理解しおしたう瞬間ずよく䌌た、奇劙な芋え方をしおいるのだ。
 加えお、芖界の端には広倧な海原を捉えおいた。ここから匕き揚げられたのだろうこずは想像に難くない。
 実際に海であるのかは怪しいが、そうでなければありえないほどに果おしなく芋える。こちらもたた倜闇のなかにあっお、透き通るほどに青かった。
 暗闇の䞭では色の刀別など出来るはずがないのに、ず汐垆はただでさえ混乱する状況に思考が远い぀かず、呆然ずする。
 ここは、䞀䜓。 
 䜕もかもが非珟実的な光景だった。
 もしかしたら倢を芋おいるのかもしれない。
 汐垆は頬に觊れながら逡巡する。頬を぀ねったぐらいで目芚めるのならば、先ほど氎面に叩き぀けられた際にずっくに目が芚めおいるだろう。
 しかし、これが珟実なのであれば、あの長すぎる墜萜から珟圚に至るたで無傷であるこずもたた、理解の範疇を超えおいる。
 汐垆を海から匕き揚げた人物はこちらの混乱を受け止めるように、蟛抱匷く萜ち着くのを埅っおいるようだった。
 それにようやく意識が向くず、どうにか敎い぀぀ある呌吞を確かめお、䞀蚀絞り出す。

「ごめんなさい、私、あの」
「いいから。氎、飲んでないか ぀らいずころは、どこか痛んだりは」
「あ  ええず、うん、倧䞈倫」
「そうか」

 心底安心したように蚀われお面食らう。
 䞍意に気が付いたのだ。聞き芚えるのあるその声が、䞀䜓誰に䌌おいるのか。
 汐垆が顔を䞊げるず、己ずそっくり同じ顔をした人間がこちらを芋䞊げるようにしゃがみこみ、穏やかに埮笑んでいた。
 よく芋れば髪型や、着おいる服に差異はあるものの、あたりに鏡写しの容貌に絶句する。

「はは。そら、そうなるわな」
 
 がっくりずわざずらしく肩を萜ずし、気たずそうに返す。
 その声は汐垆よりもやや䜎く響くけれども、やはり、玛れもなく自分自身のそれに䌌おいる。
 汐垆が䜜ったこずのない前髪を眉䞋に敎えお暪に流し、埌ろ髪は長いたた銖の埌ろでひず぀に束ねたその人物は、汐垆がセヌラヌ服を着おいるのずは察照に、同じ高校の孊ラン姿で、さらに蚀えば汐垆が出したこずもないような優しい声で、「萜ち着いお聞いお欲しい」ず語りかける。

「俺、抎本湊みなず。お前の兄貎だよ」

 䜕故か気たずそうに目を逞らしながら、圌はどこか自分自身にも蚀い聞かせるような調子で兄を名乗った。
 どこから吹き぀けるのか、冷たい颚が足元の氎面にさざなみを立おる。
 たさか。そんなはずはない。
 汐垆は、ほずんど反射的に疑念を蟌めた芖線を返す。 
 いくら蚘憶がないずいっおも、それはあくたで墜萜に䌎う蚘憶が芋圓たらないずいうこずで、己が半生そのものを忘れおいるわけではない  はずだ。
 疑念の行き先はすぐに自分自身に向けられた。
 汐垆は生たれ぀き䞀人っ子であり、兄匟姉効はいない。幌少期の蚘憶から高校生に至るたでの期間を思い返しお確信する。
 少なくずも、兄の存圚だけを忘れおいる、ずいうような違和感は存圚しない。
 吊定も肯定もせず、黙りこくったたたの汐垆に痺れを切らしたのか、やがお湊は倧袈裟に宙を仰ぐず、たはヌっず息を吐き出した。

「あんたゞッず芋るなっお。照れるだろ」
「そんなこず蚀われおも  ビックリするぐらい、䌌おるから  䞍思議で。髪型ずか、服ずか、わざず倉えおるように芋えるぐらい」

 汐垆がたじたじずそう返すず、湊はほんの䞀瞬蚀葉に詰たったように目を芋開いた。
 けれども、すぐに前髪をくしゃっず掎むず倧雑把に敎え盎し、手をどけたずきには既に眉を䞋げた困り顔で笑っおいた。
 そのあたりの自然さに、刹那に捉えたはずの衚情がたるで芋間違いだったかのように思え、汐垆は思わず目を擊る。
 気のせい いや、でも。
 汐垆が銖を傟げおも、䜕がそんなに可笑しいのか湊はニコニコず目を现めるばかりで埒が明かない。

「勘匁しおくれ。俺のこずは、たあ、隠すようなもんじゃないけどさあ。  聞きたいか」
 
 汐垆がこくりず頷くのに、いよいよ湊は吹き出すず「わかったよ」ずたるっこく蚀った。
 ごく自然に隣に腰を䞋ろす圌に、汐垆は蚀いようもなくくすぐったい気持ちを芚えながら、手持ち無沙汰なのをゆるく握った拳で口を芆うようにしお、無意識に誀魔化した。
 䜙蚈なこずを蚀わないようにず、幌いころからの癖だった。口元を隠しおいる方がどうしおも萜ち着くのだ。
 二人の声だけが響く倜の底は、頭たですっぜり垃団を被ったずきのような心地がした。
 湊は、芋たたんたではあるんだけど、ず前眮きしお朗らかに蚀う。

「俺たち、双子だよ。腹の䞭で䌚ったこずがあるだろ」
「  芚えおない」
「そらな。ただ脳ミ゜完成しおないもんな」

 芚えおない、なんお、たさか口にする機䌚があるずは思わなかった。
 汐垆は慣れない蚀葉に思わず唇を觊る。

「生たれおないんだ。勿論、俺だけ。母さんも、俺のこずなんお忘れちたっおるず思う」
「生たれおいない  」
「そうさ。俺たち兄効の魂は二人仲良く母さんの腹たで降りおきた。けど、たあ、生たれる運呜それ自䜓は䞀人分だったんだよ」

 湊は胡散臭い蚀い方しかできないけど、ず頬をかきながら続ける。
 
「んで俺、お兄ちゃんだろ むッコしかない怅子を可愛い効に譲っおやったのさ。それで、䞭途半端な俺の身䜓は腹ン䞭で汐垆に吞収させたっおわけ。そしたら空に垰るはずだった俺の魂も、うっかり汐垆の䞭に残っちたった」

 芋䞊げながら、高くを指さす。汐垆も぀られお宙を芋䞊げる。
 星が煌々ず歌う倜空だ。
 どこにも月がないのに、䞍思議ず明るい。
 
「んで、それが俺です。  どう」
「信じがたい  かも」
「わざわざ蚀わんでも、ハッキリ顔に曞いおあるよ」

 䞀人でく぀く぀ず堪えるように笑う湊に、汐垆は远求する気も倱せお、ポカンず口を開けるばかり。
 こういうのっお、確か、バニシングツむンっお呌ぶんだったかな。
 はたずそう思い圓たるず、汐垆はゞッず考え蟌んだ。
 そうしお、改めお蚘憶をさらいながら思考の茪郭を掎むようにひず぀ひず぀蚀葉を吟味する。

「やっぱり、双子の兄だなんお、お母さんからは䞀床だっお聞いたこずないよ。でも、母子手垳も持っおいないような人だし」
「ああ」
「だから、忘れおいたんじゃなくお知らなかった、ずいうこずなら、ありえるかもしれない」
「知らなかった 俺の存圚をたるごず忘れおいるわけじゃなく」
「うん。湊の話が本圓なら、私は、そうだず思う」
「優しいんだなぁ」
「えっ」

 独り蚀、ず人差し指を立おる姿に汐垆は䜕だか気の抜けた気分になっお、そっか、ず呟いた。
 こんなにも自分ず䌌おいるのに、湊はあたりにも別人だ。
 ころころず倉わる衚情ず茶目っ気たっぷりの仕草は、近くにいるだけで明るい気分にしおくれる。
 もし圌が双子ずしお生たれおいたなら、きっず、飜きない日々を送れおいただろう。
 詮無いこずだな、ず口には出さずに胞に留める。
 
「よかった。少し朮が匕いたな」
「朮」
「そう。さっきたで、そこら䞀面たるたる氎面だったろ。今は  少しだけど、氎䜍が萜ち着いおる」

 蚀われお足元を芋れば、぀い先ほどたで地面に匵っおいたはずの氎が跡圢もなく匕いおいる。
 汐垆が動こうずするず、サッず立ち䞊がった湊が手を差し䌞べた。
 玠盎にその手を掎むず、服も靎も、さらりず腰に流れる髪たでもがすっかり也いおいる。
 たるで氎の䞭に堕ちたこず自䜓が倢だったかのように、すべおの痕跡が消えおいた。
 汐垆は改めお蟺りを芋枡す。
 ずっぷりず倜闇に沈んだ氎面には、ギリシャの街䞊みを想起させる癜い建物がきらきらず映り蟌んでいた。
 氎際に近付きよく目をこらせば、深く深く底の芋えないほどの氎面䞋にも同様に癜い街が沈んでいるのが確認できる。
 汐垆が足を぀けおいる地面もたた建造物のおっぺんであるように、氎面から顔を出しおいる堎所はあくたでも䜕か建造物の䞀郚のようだった。
 非珟実的な氎没郜垂の様盞は、退廃よりも神秘的な印象を匷く受ける。 
 しかし、星明かりが照らしおいるずはいえ、やはり闇に目が慣れおいるずいうだけでは説明が぀かないほどよく芋えた。それこそ、茪郭ががんやりず発光しおいるような錯芚を芚えるほどに。
 静かで、玠敵な堎所だ。
 けれど、どうしようもなく寂しいような気がする。
 胞の奥がゞンず痛んだ気がしお、汐垆は胞元を撫でる。

「ここは、どこなの」
「倜凊よどだよ。倜に凊ずころず曞いお、ペド。垞倜の䞖界さ。やさしくお、良いずころだろ」
「倜凊  」
「ああ、いや、今のじゃ説明䞍足だな。ごめん、手を貞しお」
「え」

 湊は汐垆の手を取るなり、「今から蚀うこずをよく聞いお」ず耳打ちしながら、空いおいる片手で汐垆の目元を芆った。
 うヌん、そうだな、ず䞀蚀二蚀独りごちるず、わざずらしく寒い、寒いず蚀い始める。
 
「さっき濡れたからかな。なんだか肌寒い気がする。そうだなあ、タオルケットが必芁だ」
「タオルケット  」
「りン。そこに眮いおある。真っ盎ぐ手を䌞ばしお、そう。掎んで、匕っ匵っおみお」

 汐垆は疑問に思いながらも、蚀われた通り手を䌞ばす。
 タオルケットなんお、あったかな。けれど、湊が必芁だず蚀うのだし、ずりあえず蚀われた通りに  。
 汐垆は手品でも芋おいるような心地で実際は目を芆われお䜕も芋えおいないのだが蚀われた通り、掎んで、匕き寄せる動䜜をする。
 するず、確かに䜕も無い堎所を掎んだような、虚空に手を䌞ばしたそのたたの感芚であったのに、身䜓に匕き寄せるほど柔らな感觊が実感を䌎っおゆく。

「やるじゃん」

 パッず芖界が開ける。湊が手をどけたのだ。
 芋れば、汐垆の腕の䞭には、薄手の倧きなタオルケットがあった。

「ど、どういうこず」
「汐垆が取り出したんだ。その柄、芋芚えないか」

 蚀われお広げおみるず、湊の蚀う通り、芋芚えがある。
 ただ蚀葉も話せないほど幌いころ、自分の䞊に掛けられおいたタオルケットだった。
 緑ず赀のギンガムチェックに、茶色の倧きなクマがプリントされおいる。どこかクリスマスチックなデザむンは、よく芋るず少しよれお、䜿いふるされたような気配がある。

「これ、おじいちゃんの家にあった  」
「母さんのお䞋がりなんだろ」
「そう、だけど、どうしおあなたが知っおいるの」
「蚀ったろ 魂になっお䞀緒にいたっお。汐垆が芋おきたものは、俺も党郚知っおるのさ」

 湊は広げたタオルケットを受け取り、けれども自分では䜿わずに、汐垆の肩に掛けおやりながら埗意げに蚀った。
 䜿い叀されおペラペラになったそれは、懐かしい匂いがする。

「倜凊はな、持ち䞻の心そのものなんだよ。誰もが持っおいる、自分だけのスペヌス。なあ、今、タオルを出したみたいに、今床は怅子を出しおみよう。地面に手を付けお」
「こう」
「そう。そのたた、䞊に匕き出しお。孊校の怅子でいい。綺麗なや぀な」

 汐垆は半信半疑で床に手を぀けるず、確かにそこに取っ掛りがあるような気がしお、掎み、匕っ匵り出す。
 スルスルず出おきたのは孊校、汐垆が通っおいる高校の怅子だった。

「さすが。もうコツを掎んだみたいだ」
「  ねえ、倜凊の、持ち䞻っお」
「ご想像の通り。この倜凊の䞻は、汐垆、お前なんだ」

 湊は汐垆を怅子に座らせるず肩にかけおやったタオルケットを銖元で軜く結び、たるで物語の䞭の王様がするように、ばさりずマントに芋立おお広げおみせた。

「そしお俺は、倜凊の居候。い぀もお䞖話になっおおりたす、なんおね」

 うやうやしく片膝を付くず、冗談亀じりにそう蚀う。

「倜凊の䞻は私  そしお、倜凊は、持ち䞻の心でもある」

 汐垆は呆然ず呟く。

「この堎所は、私の心の䞭  」

 湊はチラッず汐垆を芋䞊げお、頷く代わりに目を軜く䌏せお芋せた。
 氎面には盞倉わらず䞀䜓どこから颚が吹くのか、さざ波が拡がっおは霧散しおいく。

「少し歩こう。本題がある」

 怅子にタオルケットをかけるず、湊は汐垆の手を匕いた。
 真っ癜な道を圓おどなく歩く。
 どこに繋がっおいるのかよくわからない階段や、所々が完党に氎没した遊歩道を暪目に芋おは、どこか巚倧な生物の骚栌暙本を連想する。
 湊は歩ける堎所だけを玠早く吟味しおいるようで、足運びには迷いがなく、慣れおいるのが芋お取れた。
 途䞭、薄く氎の匵った箇所もあったが、湊は気にせず歩き続けた。汐垆もそれに倣う。
 そういう道は䞀歩螏み出すたび、しゃんず鳎る氎音が心地奜かった。
 䜕床か䞊がり、それ以䞊に䞋り、いく぀かの建物の䞭を通過した頃、湊はそっず口を開いた。
  
「なあ、倜凊は䜕のためにあるず思う」
「うヌん  心そのもの、なんだよね それは぀たり、どうしお心ずいう抂念があるのかっおお話かな」
「ああ、悪い。今のは聞き方がよくなかった」

 そう蚀うず立ち止たっお、壁に背䞭を預ける。
 少しだけ考え蟌むように俯くず、湊は目に前髪のかかったたた芖線だけを汐垆に向けた。

「芁は、倜凊の圹割の話だ。心っおのも曖昧な衚珟だけどさ、どうしおこんな堎所があるのか考えおみお欲しいんだ」
「この堎所の、圹割  」

 汐垆は口元に手を圓おお考える。
 氎没した郜垂。垞倜の景色。心の䞭。歩き慣れた湊、無自芚に䞻である私。
   そういえば、結局、どうしお私はこの堎所にいるのだろう。
 心の䞭ずは、぀たり、自分の内偎であるはずだ。その内偎に私がいるのであれば、あべこべではないか。
 私は倜凊に墜萜した。しかし、その前埌の蚘憶がない。
 倜凊の圹割を考えるにあたり、鍵ずなるのはここではないだろうか。

「  逆、なのかも」
「ぞえ」
「私、ここぞ堕ちおきたずきの蚘憶がないの。でも、もしかしたら、蚘憶を倱うためにここぞ堕ちおきたのかもしれない」
「ああ、それで〝逆〟ね」
「うん。だから、倜凊の圹割は、蚘憶の敎理  なのかな」

 汐垆は口元に圓おた手に語りかけるようにぜ぀ぜ぀ず話しながら、やがお結論に蟿り着くず、ようやく湊の方ぞ顔を向けた。
 
「汐垆は本圓に賢いなあ」
「ええず、合っおた」
「半分ぐらいね」
「耒めたわりに、埮劙」
「えヌっ そんな、拗ねんなっお」
「  」

 汐垆がそっぜを向いおみせるず、湊は慌おお駆け寄っお゜ワ゜ワず呚囲で忙しなく屈んだり、座り蟌んだりしながら、䞊目遣いで「ごめんっお  」ず謝眪を繰り返した。
 その様子がなにだか濡れた犬のようで、汐垆が぀いにおかしくなっお吹き出すず、今床はしおやったりずでも蚀いたげにペカヌッず歯を芋せる。
 汐垆がそれに぀られおたた笑うず、湊はようやく安心したように膝に手を぀いお深く息を吐き出した。
 そんな些现なやり取りに、頭の隅で䞍意に懐かしさが蟌み䞊げる。
 たるで有り埗たはずの過去を远䜓隓しおいるような、枩かくも切ない感情が喉元を過ぎるのを、汐垆はそっず呑み蟌んだ。 
 湊はあえお汐垆の衚情には觊れずに、芖線を少し倖したたた話し始める。
 
「倜凊はさ、誰もが持っおいる心の  自浄䜜甚のようなものなんだ。だから安盎に心の䞭ずするよりは、心が持぀機胜のうちの䞀぀ず考えた方がより正確かもしれない」
「自浄䜜甚  」
「倜凊の䞻が眠りに就くず、ここではその日の感情  凊理しきれなかった柱みや、それこそ感情が良い方にも悪い方にも倧きく振れすぎお、荒れおしたった魂を浄化する。癒すっお衚珟の方がわかりやすいかな。眠っお起きたら心なしかスッキリしおるっおこずはないか」
「ええず、どうだろう」
「そうだなあ、濁流のような感情が䞀瞬でも忘れられた経隓は 汐垆は蚘憶力が昔っから良いから、むしろピンずくるずころあるず思うな。傷付いた堎面を芚えおいるのに、翌日以降思い出すぶんには、その瞬間のブン殎られたような感情にはならないだろ」
「あっ」

 そう蚀われるず、確かに思い圓たる節はあった。
 蟛い蚘憶を思い返すずき、汐垆は圓事者ではなく芳察者になるような意識の転換があるのだ。
 
「ずはいえ、そういったストレスを完党にれロに出来るわけじゃない。柱みは氎を濁らせるから、取り陀ききれないぶんは氎䜍を増しお奥底に沈めるこずもあるし、荒れた心を鎮めるなんおのも  嵐の間、必死にこの郜垂が厩れないよう耐えるだけだ。䞀通り暎れ散らかしたら、誰だっお少しは萜ち着くもんさ」

 湊は䞀瞬、物凄く悲しげな目をするず、汐垆がそれに觊れる前に前髪をくしゃっずしお、ぶんぶんず頭を暪に振った。
 きっず誀魔化すずきの手癖なのだろう。
 
「倜凊の䞻が眠っお、起きる。その眠りの間にだけ、魂の䌑む瞬間にだけ、倜凊は目芚める。朝寝るこずも、昌間にりトりトするこずもあるだろうけど、汐垆が眠るずいう抂念を〝倜〟ず捉えおいるから、汐垆の倜凊はい぀だっお垞倜の䞖界なんだ」
「  埅っお。あなたの話が本圓なら、今の状況っおやっぱり、少し、おかしい気がする」

 そうだね、ず湊は肩を萜ずしながら前髪から手を離す。厩れた髪はどこか痛々しく、汐垆は躊躇いながらも手を䌞ばした。
 軜く指先で梳いおやるず、湊はきょずんずしながらも目を閉じ、されるがたたに倧人しくしおいる。
 汐垆の手が離れるのを埅っお、口を開いた。
  
「おかしいずいうのはさ、汐垆、お前自身がこの堎所にいるこずだろ」

 湊は寄りかかった壁に沿っお氎没する景色に芖線を投げおいた。
 その暪顔は圫刻のように鋭利で、どこか品がある。
 服や髪型が男性的だからか、顔の぀くりこそ汐垆ず同様にも関わらず、䞭性的なう぀くしさがふずした瞬間に匷調されるのかもしれない。
 汐垆は湊の蚀葉にこくりず頷いた。
 倜凊は、倜凊の䞻が眠りに萜ちるず開かれる。しかし、䞻である汐垆がこうしお自由に闊歩しおいるのでは蟻耄が合わない。
 
「倜凊の圹割は今蚀った通り。だから  改めお考えおみお欲しい。ここにいるお前は、䞀䜓䜕者なのか」
「  私、は」
「お前はどこから堕ちおきた いいや、よく分かっおいないみたいだからハッキリ蚀おう。お前はどうしお──倜凊ここぞ来おしたったんだ」

 湊の悲痛な物蚀いに戞惑う。
 それでも汐垆は、䜕も思い出せるこずがなかった。
 幌少期のこずも、孊校のこずも思い出せるのに、どうしおここに堕ちおきたのか、䜕があっおこうなったのか、それだけがすっぜりず抜け萜ちおいる。
 改めお考えるなら、汐垆の䞭の暗闇は明確な意図を持っお䞀郚の蚘憶だけを奪い去っおいるように思える。

「湊、私  」

 蚀いかける汐垆に、湊は静かに銖を振る。
 湊もきっず理解しおいるのだ。汐垆が、䜕もわかっおいないこずを。 

「汐垆、お前はな、魂が剥き出しになっお  この倜凊に堕ちおきたんだ」

 湊の声が匷ばる。
   
「お前、自分で呜を絶ずうずしただろ」

 その確信めいた蚀葉には、やはり、心圓たりがない。
 だからこそ、決しお吊定が出来なかった。
 それは぀たり、忘れおしたうほどの䜕かが起きたずいうこずかもしれないのだ。

「そう、なのかな」
「俺が倜凊の海から匕き揚げなかったら、そのたたどこたでも沈んで、したいにゃ溶けおいたろうさ。倜凊の氎は重たかったろ」
「  」
「それから、本䜓ず蚀うべきか、汐垆の身䜓はどこかで眠っおいるだろうけど、俺が魂の方  お前を匕き揚げなかったら、二床ず目を芚たさないずころだったず思うぜ」

 鉛のような沈黙が二人の間に䞋りる。
 い぀の間にか薄暗い波が足銖の高さたで抌し寄せおいた。
 隙あらば氎底たで連れ去ろうずするかのように、茪郭のない手をこたねいおいる。

「気付いおいるか ここの氎䜍は、汐垆、お前の粟神状態ずリンクしおるんだ」
「えっ」

 湊はしゃがみこみ、氎面の䞋を懐かしげに眺める。
 
「今はもうほずんどが氎没したけど、元々はもっず自由で、豊かな堎所だったんだ」
「ここたで、氎䜍が増したのは」
「それだけお前の心が限界だったっおこずだよ。こっちはさ  心圓たり、あるだろ」

 黙り蟌む。
 今の生掻も、母ずの関係も、汐垆にずっおはずうに慣れたもので圓たり前だず信じおいたからだ。
   そう信じないず、い぀厩れ萜ちおもおかしくないほどに限界だったのかず、汐垆は自分自身に問いかける。
 今ずなっおはもう、きっずそうだったのだろう、ず真っ暗な答え合わせだけがされおしたっお、塗り朰された解答欄を前に立ち尜くすこずしかできない。
 湊は氎をすくい䞊げるず汐垆の目の前に持っおくる。

「倜凊はな、䞻が管理しおる。もちろん無意識でだ。持ち䞻である人間の魂が眠っおいる間、無意識に  そうだな、心の掗濯をしおいるんだ。自分の心のコントロヌルを自分でやる。だから、自浄䜜甚」

 手の隙間からぜたぜたず氎が垂れお、䞡手の噚の氎䜍が䞋がっおいく。

「でも、汐垆の倜凊には俺がいる。ここは無意識の汐垆ず、居候の俺ずで二人銬力なんだよ」

 そう蚀っお手を開く。
 残った氎がぱしゃんず萜ちきっお、足元に波王を䜜った。

「それでも、力䞍足だったんだ」
「湊  」  
「汐垆、お前の倜凊はきっずもう、限界なんだろう。お前がここに堕ちおきおしたったこずが、䜕よりもの蚌拠でさ」
「  うん」 
「なあ」

 湊の声がシンず響く。

「ここは  お前の倜凊は、すごくいいずころだ。ずっず、ずヌっずここにいた俺が蚀うんだから間違いない」

 顔぀きが倉わったのを芋お、匕き寄せられるような心地になる。
 湊の声には、優しさずやるせなさずがないたぜになったような、行き詰たった葛藀の色が滲んでいた。
 
「汐垆。お前は自ら、呜を捚おおこの堎所にきた。倜凊が厩れ去っおいないのは、ひずえに俺が無理やりお前の魂を匕き揚げたからだ。  俺の、わがたたなんだ」
「  うん」
「䜕も芚えおいない奎にこんなこず蚀うのもどうかず思う。けど、俺は、やっぱり  」

 真正面に立ち、たっすぐに汐垆を芋぀める。
 身長もぎったり同じ。ずもすれば、鏡を芋぀めおいるような錯芚すら芚えるほどに、同じ顔。

「汐垆。俺ず、倉わろう」

 目を逞らさずにそう蚀う。
 愛おしげに頬に觊れる手がほんの少しだけ震えおいるのに気付くず、汐垆は安心させるように䞊から手を重ねた。
 
「湊が、そうしたいなら」
「  どうなるのかずか聞かないんだな」
「うん」

 湊は䞀瞬だけ、泣きそうな顔をした。
 䞍自然に顔を背けお前髪をくしゃっず握るず、パッず歯を芋せお明るく振り向く。

「今埌は俺が汐垆ずしお生きるよ」
「湊っお名乗ったらいいのに」
「カッコ぀けおるんだから氎差さないでったら」

 䞍思議な気分だった。
 この静謐な䞖界から二床ず出られないかもしれないこずよりも、あの日々の䞭に戻らなくお枈むずいう安心感の方が勝っおいる。
 そうであるずいうのに、湊が望むからずいっお平気で送り出そうずする自分の薄情さにも呆れおいる。
 しかし、それでも湊ならば、圌ならば䞊手くやれるのではないだろうか。
 生たれる前に譲っおもらった生きる暩利を、奇跡的に圌ぞず返す機䌚を埗られたのであれば、それはきっず私にずっおこの䞊ない僥倖なのだろう。

「手を借しお」

 蚀われた通り、手を差し出した。
 湊はその手をそっず握る。

「倜凊の䞻は〝鍵〟を持っおる。それを俺に譲枡するんだ」
「鍵」
「そう。汐垆の䞭にある。倜凊からタオルケットや怅子を匕き出したように、今床は自分の䞭から鍵を取り出すんだ。できるか」
「やっお、みる」

 汐垆は自然ず目を瞑り、自分の䞭に朜り蟌むようなむメヌゞで〝鍵〟を探す。
 それはどこか蚘憶を浚う䜜業に䌌おいた。
 意識が䞀歩、自分の䞭に匕き蟌たれるような感芚。
 歩いおきた倜凊の景色を遡り、沈んだ海から浮䞊しお、墜萜した倜空を遡行するず、手を䌞ばす。
 鍵は私の䞭にある。  本圓に
 いくら手を䌞ばしおも、掎めるものはどこにもない。
 虚空を切っお、やがお私は墜萜を始める。
 堕ちおいる。堕ちおいく。──私の䞭から、䜕かがこがれ萜ちる。
 汐垆はハッずしお身䜓をひねった。䜕か、䜕かが今、確かに。
 ただ遠く䞋方に広がる氎面は倜闇に玛れお、ぜっかりず昏いばかりの倧穎がこちらを芋぀め返すのみ。

「  ない」
「え」
「鍵。私の䞭に、ないの」

 ゆっくりず手を開く。開いた手の䞭には、䜕も握られおいない。
 汐垆の顔が青ざめる。

「私、萜ずしたんだ」

 足元を芋぀める。
 癜の郜垂をも呑み蟌んだ深い、深い青の闇。
 䞍安げに揺れる瞳が、氎面から汐垆を芋返しおいる。

「なるほどね」 

 湊に自分が芋たものを話す。
 昏い穎。虚空を切る手。あれはむメヌゞずいうよりも、自分自身の内偎で溺れおいるような光景だった。
 零れ萜ちたのはきっず鍵だけではないだろう。私の䞭にない蚘憶も、きっず、あの時に。
 ゟッずした肌感たで芚えおいるのを汐垆は静かに、けれどもはっきりずした確信をもっお湊に䌝える。

「どうしよう、私、どうしたら」
「そんな䞍安そうな顔するなっお。倱くしものなんお探せばいい、芋぀かるたで探したらそりゃもう倱くしものじゃないだろ」

 無茶苊茶だ。こんなにも広い倜凊で、手掛かりになるような蚘憶もないのに。
 湊は問題なんお䜕䞀぀ないずでも蚀わんばかりに、優しく埮笑んでみせる。

「それに俺、ここでの探し物は結構埗意なんだ。ちょっずしたコツがある」
「コツ」
「ん。䞀緒にむメヌゞしおくれ」

 湊は再び、汐垆の手を包み蟌むように優しく握る。

「倱くしたのは鍵。それは倧事なものか」
「  うん。きっず、倧事なもの」
「倜凊は心の䞖界だ。倧事なものは、倧事な堎所にあるもんだ。汐垆にずっお倧事な堎所はどこだろう」
「私にずっお、倧事な堎所  」

 たた、あの感芚。
 意識が䞀歩内偎に匕き蟌たれるような、ストンず膜を抜けるような、知らない堎所で瞌を開く刹那の暗がりが、氞遠に匕き䌞ばされおいるような──。
 ひたり、ず足裏が床に觊れる。
 玠足だ。あたりは真っ暗で、䜕も芋えない。どこたでも自分の感芚だけが頌りの、空間ずするにもただ確蚌の持おない状況に、自然ず息をひそめる。
 よくよく泚意するず、足の裏を撫ぜるのが朚目であるずわかった。
 板匵りの廊䞋だ。
 ならばここは、母ず暮らすマンションではない。
 汐垆は忍び足で歩を進める。䜕故かそうしなければならないず思った。バレないように、静かに、こっそりず。
 そうだ。この廊䞋の先には──。

「汐垆」
「わっ」 

 驚いお目を開く汐垆の肩越しに、湊が真っ盎ぐに指をさしおいる。
 興奮気味に汐垆の肩を揺らす片手を窘めながら、その指先を远っお振り向く。

「扉  」

 そこには、壁も䜕も無い空間にポツンず扉だけが立っおいた。
 あたかも突然生えおきたかのようなありさたで、薄く氎の匵った地面に盎立するそれは、たさしく倢にでも芋そうな光景だ。
 実際、湊の反応を芋るにその扉は突然珟れたのだろう。

「開けおみよう。萜ずした鍵も案倖、すぐ芋぀かるかもしれないぜ」
「  ちょっず楜しんでる、よね」

 バレた ず他に誰もいないのに、わざわざ小声で返す。
 思えば湊はずっず楜しそうだった。時折芋せる寂しそうな瞳の方が、どうしおも芋間違いのように思える。
 圌に手を匕かれるたた扉に近付くず、どこか懐かしく、䜿い叀された気配があった。
 䜕床も觊れられたであろう䞞いノブは䞀郚メッキが剥がれお鈍い光沢を攟っおいる。
 遠目ではこっくりず色濃いブラりン䞀色に芋えた扉も、よく芋ればずころどころ薄茶色に焌けおおり、確かな幎季が感じられた。
 汐垆はそっず衚面を撫でる。

「私、知っおる」
「この扉を」
「うん。どこに繋がっおいるかは、ただ、思い出せないけど  」
「なおさら期埅できるね。もしかしたら、この扉自䜓が萜ずした蚘憶に繋がっおるかもしれない」

 汐垆はおずおずずノブに手を䌞ばす。
 鍵はかかっおいないようで、䜕の匕っ掛かりもなく抌し開けられた。
 向こうの景色はいやに眩しく、隙間から挏れ出した癜い光が足元の氎面を照らし出す。
 そうしお汐垆が目を凝らそうずした瞬間、掎んでいたはずのノブがフッず消えた。
 䞀瞬の出来事だった。

「えっ」

 䜕故か背䞭偎でカチャン、ず音がした。
 盎感でわかる。扉がしたったのだ。
 䞀拍遅れお振り向くず、もうそこに扉はなく、湊の姿もない。
 
「そんな」

 汐垆は匱音を吐きかけお、やめた。
 唇の端に力がこもり、匕き攣りそうになる顔をなんずか抌しずどめおいる。
 泣き蚀ばかり蚀っおいられない。これは、きっず、私のすべきこずなのだ。
 あの扉の先には私しか入れなかった。この意味は
 確かめるためには、進たなければ。
 汐垆は瞌を閉じるず、深く呌吞をした。
 倧䞈倫。この堎所は、きちんず息ができる。
 前を向き盎し、そっず瞌を䞊げる。
 そこは、ゆったりずあたたかい暖色の光が照らす、誰かの私宀のようだった。
 眩しいぐらいに芖界を埋め぀くしおいた癜いばかりの光は、跡圢もなく姿を消しおいる。
 この郚屋が  私にずっお、倧事な堎所。
 窓のない秘密基地のような郚屋だ。
 倩井から吊り䞋げられたペンダントラむトは凝った意匠のガラスシェヌドで装食されおいる。これが郚屋を穏やかな橙色に照らしおいるようだった。
 四方の壁には倧小様々な写真が食られおいる。
 どれも海倖の景色を映したもののようで、銎染みのない街䞊みが倚い。そこここに食られたよく分からない土産物らしき小物を芋るに、この郚屋の䞻は海倖旅行がラむフワヌクだったのだろう。
 それに、どの写真も珟地に足を運んで撮圱したものだず確信めいた予感があった。うたく衚珟できないが、息をしおいるような印象を受けるのだ。
 これは。
 汐垆はひず぀の写真の前で足を止めた。
 それは海を芋䞋ろす石灰色の路地の写真だった。四角が無䜜為に連なったような建造物ず、時折芋える䞞みを垯びた青屋根がアクセントになっおいる町䞊み。
 どこずなく、倜凊に䌌おいる。
 釘付けになっお目が離せない。私は、この写真を知っおいる。心臓がうるさく脈打぀。知っおいるはずなのに、自分のなかにその蚘憶がない。
 はたず気付く。この郚屋は今、私の倖偎にある、萜ずした蚘憶そのものなのではないか。確か、湊もそのようなこずを蚀っおいた。
 圌が入っおこれなかったのは、ここが私の蚘憶の䞭だから
 汐垆はいったいどこからやっおくるのか、耐えがたい緊匵感を無理に抑え蟌みながら探玢を始めた。
 湊の蚀葉を信じるならば、この堎所に鍵があるはずなのだ。
 郚屋の䞭倮奥には䜿い叀された机ず怅子ずが䞊んでいる。
 匕き出しに手をかけるず、䞍意に冷や汗が滲んだ。
 こんな悪戯をしおはだめだ。芋぀かろうものなら、間違いなく、こっぎどく叱られる。
 誰に 
 心臓がうるさく鳎る。たるで、今にも叫び出しそうなほどに。
 項垂れおいたのが嘘のように、倢のように、今にも私自身を呑み蟌たんず倧口を開けお、膚らみ、萎み、たた膚らんで、繰り返すごずにその存圚感は倧きくなっおいく。
 腰が匕けお、芖線が圷埚う。私はいったい、䜕に怯えおいるずいうのか。
 カチリず汐垆の芖線を射抜くものがあった。
 ボトルシップ。
 幟぀もの垆が匵られた立掟な垆船が、透明なガラス越しに汐垆を芋぀めおいる。
 いや、違う。
 私が芋぀めおいる。釘付けになっおいる。私は、アレを知っおいる。
 倧奜きだったのだ。忘れるべくもない。䜕せ、私はあの倧奜きなボトルシップを──。
 
 がしゃん、ず無慈悲な音が鳎った。
 
 足元に散らばるのは芋るも無惚な砕けたガラス片ず、垆の折れた垆船。
 たちたち扉が勢いよく開いお、顔を䞊げる間もなく駆け寄った圌に抱き䞊げられる。
 怪我ないか
 陜だたりの薫る䜎い声。
 空っぜの箱が満ちおいく。蚘憶が、なだれ蟌んでくる。
 ここは、祖父の私宀だ。
 幌いころに䜕床も、䜕床も遊びに来たはずの、倧奜きな堎所。
 砕けたガラス片も、折れた垆も、矎しい写真も、䜿い叀された怅子も、開けられなかった匕き出しも、䜕もかもがしたい蟌たれおいく。

「どうしお、私、忘れおいたんだろう」

 再び気が぀くず、あたりは凪いだ氎面に囲たれおいた。
 シンず静かな倜の底。
 朜ちた生き物の骚が暪たわるような地面ず、どこたでも続く最果おの氎面。
 戻っおきたのだ。私の倜凊に。

「汐垆」

 呌び掛けに振り向くず、地べたにあぐらをかいた湊が芋䞊げおいた。

「着いお行けなくおごめん。あの扉の向こう、俺じゃ入れなくおさ」
「うん。私の、蚘憶だった。忘れおいるこずも、忘れおいた蚘憶  」
「収穫だな それで、本呜の方は」
「鍵は、だめ。芋぀けられなかった」

 銖を振っおみせる。
 汐垆はでも、ず続けた。
 
「私、思うの。他にも芚えおいないこずがきっずある。少なくずも、ここに来るたでの蚘憶もないから  匕き続き、こうしお探したら芋぀かるず思う」

 そう蚀いながら、目を瞑り、扉を芋぀けたのず同じような芁領で䌞ばしかけた手を湊がパシッず掎む。
 それはあきらかに止める動䜜だった。

「たあ埅おっお。あんたり焊るな」
「でも  」

 焊る、焊っおいるのだろうか。
 汐垆は自問自答する。
 ずっず䟡倀などないず思っおいた自分に、湊に身䜓を明け枡すずいう意味が生たれお、舞い䞊がっおいたのかもしれない。
 それでも、鍵を芋぀けるのは急務のように感じられた。
 もしも芋぀けられないたた、折角埗た䟡倀を倱っおしたったら。
 汐垆は指先から冷えおいくような仄暗い恐怖に、蚀いようもなく息苊しさを芚える。 
   そのずきはきっず、優しい湊にすら幻滅されおしたうだろうから。
 
「そろそろなんだ。遠く、芋れるか」

 湊の声にハッずしお指差す先に目を遣る。
 どんなに遠くたでもよく芋える、䞍思議な倜空だ。
 しかし。

「もうすぐ倜が明ける」
 
 湊がそう蚀った盎埌、たしかに芋えおいた遠景が霧に玛れた。芋間違いでなければ、景色が透き通っおいくように芋える。
 それはピントがおもむろに合わなくなっおいくような、意識が遠のくような、芖界のグラ぀く感芚だった。

「埅っお。倜が明けたらここはどうなるの」
「倜明けは埅っおくれない。朝が来たら汐垆は目を芚たす」
「それっお珟実に戻るっおこず そうなったらどうなるの。私、䜕も  芚えおいないのに」

 心臓が冷える。声が震える。
 芚えおいないのだ。ここが倜凊──眠りの先で芋た〝倢の䞭〟であるのならば、目が芚めたずきにどこにいるのかわからない。
 たさに死にゆくさなかかもしれないし、あるいは珟実でも海に身を投げおいたかもしれない。
 怖い。
 汐垆は震えの止たらない身䜓を抌さえ぀けるように肩を抱く。

「おいで」
 
 湊が埮笑んで招き寄せるのに任せおふらふらず近付くず、もうすっかり慣れた手぀きで目を塞がれた。
 ああ、うん。いけそうだ。
 䜕かを確かめるように独り蚀を零すず、やがお力匷く蚀った。
 
「倧䞈倫。汐垆、お前は今から少しばかり眠るんだ。その間に䞊手くやっずく」
 
 汐垆が意図を聞き返す間もなく、意識が深く深く、底たで匕きずり蟌たれるような眠気にグンず匕っ匵られる。
 いやだ。眠るのが怖い。いや、違う、正確にはきっず起きるのが怖い。
 暗闇のなかで目を芚たしお、指䞀本動かせないような重たい氞遠が埅っおいるような気がする。
 埮笑んだ湊のあの衚情に、哀れみはなかったか 無い、ずすぐに断定できない、己の心の匱さが恚めしい。
 少しばかりなんお蚀わず、もう二床ず目が芚めるこずはないのだず、そう蚀っおくれた方が安心できたのに。
 そこたで考えお、湊の蚀っおいた蚀葉が思い出される。

 ──お前、自分で呜を絶ずうずしただろ。

 蚘憶にないのだ。本圓に芚えおいない。けれども、私は確かに、死にたがっおいる。
 汐垆は完党に意識の途切れる刹那に、ようやくそれを自芚した。 
 湊の指の隙間から最埌に芋えた倜凊の景色は、ほずんど降り泚ぐ光にかき消されお、透き通った风现工のようだった。


次話倢枡る垆船〈二幕散圚する暗瀁〉
⇒https://note.com/ssnstar/n/n6aeb99fac2d3?from=notice

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