「自殺予防の意義がわかりません」
死にたいなら死なせてあげたらいいのでは?
私自身もまさに中高生の頃に「自殺したっていい」「生きる権利があれば死ぬ権利だってある」という考えから自殺に興味をもったので、このような疑問がわくことに共感できます。今も自殺予防に携わる中で、生きていることが最も苦しいと感じている人たちや、想像を絶する経験をしてきた人たちに対して、向き合うことが苦しい葛藤の解決や今後も生きていくことに動機づけていく支援の難しさを感じています。自分の体験や周囲から学ぶことを経て、この質問に対する答えを自ら見つけていくプロセスも大事だと思っています。
ここでは、私が答えになるかなと思う理由をいくつか説明します。
ほとんどの人は健康なときに自殺を考えない
自殺という選択肢が思い浮かぶとき、その人は何らかの葛藤や問題によって追い込まれた状態にあり、今を生きることや今の自分自身でいることは耐えがたい苦痛で、今後も状況は変わると思えず(絶望感)、自分はいない方が周りにとって良いように思え(負担感の知覚)、独りぼっちで(所属感の減弱)、今の状況を打破するには自殺が唯一の選択肢である(心理的視野狭窄)、という特有の心理状態に陥っています。
しかし、このような気持ちは、必ずしも客観的な事実に基づいているとは限りません。その人が健康的に考えられる(状態が少し回復した)ときであれば、自殺を考えるようになった原因そのものが解決していなくても、死ぬこと以外の行動の選択肢が思い浮かぶことは多くあります。また、実際はその人を大切に思っている人が周囲にいて、独りぼっちでなかったりします。
そのため、自殺が思い浮かぶ状態・状況にあるということがすでに、周囲からの支援が必要な状況である、と私は考えています。
「死にたい」は「生きたい」と共存している
「死にたい」と意思表示をしている人でも、同時に「生きたい」という相反する気持ち(両価性)を持っていて、自殺をしようとする直前であっても「生きたい」気持ちと揺れ動いていると言われています。「死にたい」という言葉は、「生きるのが辛い」「今がしんどい」といった表現の裏返しであり、抱えている問題を解決したい、苦しい状況から脱したい、誰かに理解してもらいたい等、本人も気づいていない本当のニーズが隠されている可能性があります。そのため、「死にたい」という表面だけを汲み取って「じゃあ死なせてあげよう」とはならないのです。
追い込まれた末の死
死ぬことも権利だと思っていた高校生の私が、自殺予防に携わりたいと思うようになったきっかけは、高橋祥友先生の『自殺未遂―「死にたい」と「生きたい」の心理学』という本を読んだからなのですが、この本の冒頭にこう書いてあります。
自殺とはけっして「自由」な死などではなく、さまざまな問題を抱えた末に「強制」された死である――
中高生だった2000年代当時、テレビから聞こえてくる、自殺に対する社会を代表した声は「生きたくても生きられない人だっているのに」「自分勝手」「迷惑」等と否定的(と少なくとも私が認識できるイメージ)でした。自殺未遂によって救急車で運ばれた先で、医療従事者に「こんな馬鹿なこと二度としないように」等と叱られて帰されるということも、自殺は自由意志によるものと考えられているからなのでしょう。死ぬ権利があるという私の考えは、そのような批判的な声に対する反発でした。死にたいと思う人の方に共感していたからです。
でも、自殺で亡くなった人も、たまたま置かれた境遇や何らかの社会システムの欠陥、悪政やその他様々な要因が絡みに絡み合って、どんなに努力してあがいても抜け出せず、生きたくても生きられなかった人だったと思います。
「生きることが辛い」を何とかする意義がある
死にたいほどに生きることが辛い状況を支援しようとすることが今の自殺対策の考え方で、自殺対策基本法にも「自殺対策は、生きることの包括的な支援」と記載されています。すなわち、自殺予防は幅広い問題が対象となります。過労や失職などの勤務の問題、うつ病やがんなど健康の問題、困窮や借金など経済的な問題、虐待やパワーハラスメントのような暴力の問題等、このような問題への対策を考えることは、多くの人にとっても生きやすい社会を目指すことにつながります。
付記:これは自殺対策に関する企画で、中高生から投げかけられた疑問に答えた意見を加筆修正したものです。
