茶道は癒しなのか
前回の記事では、「茶道をマインドフルネスで語ることへの違和感」というタイトルで、茶道を効能で語ることへの違和感について書きました。
「では、茶道は何なのですか?」という問いを頂きましたが、その問いに容易に答えることはできません。茶道は四百年以上にわたって受け継がれてきた文化です。その価値を現代の視点で言い表そうとすれば、どうしても何かを取りこぼしてしまうと思うからです。
「癒し」が溢れる現代に
一方で、少なくとも私が違和感を覚える言葉がもう一つあります。
それは「癒し」です。
「茶道は癒されますか?」と尋ねられれば、「はい、そう感じる方も多いでしょう」と答えます。
しかし、「茶道は癒しのためのものですか?」と聞かれたら、私の答えは違います。
私は、癒しは茶道の目的ではなく、結果としてもたらされるものではないかと考えるのです。
茶室に集うひとは癒されようとしているのだろうか
亭主は客を迎えるため、炭を熾し、湯を見守り、露地を清め、席を整え、茶を点てます。一方、客は掛物に目を留め、花を愛で、一碗の茶に心を動かします。
そこには「癒されよう」と意識をしている人はいません。
むしろ、それぞれが目の前のことに真剣に向き合っています。精神を研ぎ澄まそうとしているとさえ言えます。
つまり、それは明らかに「自分の心」ばかりを見つめている時間ではありません。
それにも関わらず、席を終えて茶室を出る頃には、多くの人が「心が落ち着いた」、「心が整った」と感じます。
何故でしょうか。
だからこそ、結果として心が静かになる
茶席を終えた後、多くの方が「心が落ち着いた」と仰います。
心の静けさは、どこからもたらされるのか
では、その心の静けさはどこから生まれるのでしょうか。少なくとも、「心を静めようと努めた結果」ではないと思っています。
むしろ、逆なのではないでしょうか。
実は、茶席では、「自分の心を見つめ続ける」時間はほとんどありません。
亭主は、炭の様子、湯の加減に心を配り、客の気配を感じながら一座を整えて行きます。
客もまた亭主が選んだ掛物に込められたメッセージを読み、花を入れた亭主の心を察し、道具を手に取り感じながら茶を喫します。
その一つ一つに意識が向いていると、「今、自分はリラックスしているだろうか」、「心は穏やかになっただろうか」と考えている余裕は実はないのです。意識は常に、自分の外にあるものに向かっています。
だからこそ、余計な雑念が入り込む隙間がなくなるのです。
無になるのではなく、目の前のことに真剣に向きあう
現代では、「自分の心」と向き合うことが大切と言われます。
もちろんそれも必要なことでしょう。
しかし、茶道は自分の心をマネジメントしようとはしません。
客は目の前に一碗の茶に向かあい、一輪の花に目を泊、釜の音に耳を澄ませ、亭主の息遣いさえ感じようとする。
その積み重ねが、結果として心を静かにしてくれるのです。
その静けさは追い求めた結果として得られるものではなく、何かに深く向き合った先に、いつの間にか訪れているものなのだと思います。
私は、茶道は「癒しを提供する文化」ではなく、「一つのことに真剣に向き合う文化」さらに言えば、亭主と客が一座を成立させるという共通の目的に向かって、それぞれの役割を全うする文化なのではないかと考えています。
その営みの副産物として、人は癒やされたと感じ、心が整ったと感じるのではないでしょうか。
『今日の歌』
さしあたる ことのはばかり 思もへただ
昨日は過ぎつ 明日は知らねば
