【本の感想】20年以上経っても心に残り続ける本『アンダーグラウンド』『約束された場所で』
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二十年以上前に読み、今もなお、私の中で静かに重みを持ち続けている二冊の本があります。
村上春樹氏によるインタビュー集、『アンダーグラウンド』。
そして、その続編ともいえる『約束された場所で』。
一方は、地下鉄サリン事件の被害者たちの声を。
もう一方は、オウム真理教の元信者たちの語りをまとめたものです。
細かな内容は、正直もう曖昧です。
それでも、なぜこの二冊がずっと心のどこかに残り続けているのか。
今の言葉で、その理由を考えてみようと思います。
『アンダーグラウンド』
どこにでもいる人たちの日常を壊された話
『アンダーグラウンド』は、事件当日に地下鉄に乗り合わせ、突如として日常を奪われた人たちへのインタビュー集です。
異臭、混乱、身体の異変、そして救助の遅れ。
そこにあるのは、単なる事件の記録ではありませんでした。
後遺症、仕事、人間関係――事件そのもの以上に、その後に続く「終わりのない日常」の苦悩が、重く語られています。
読んでいて強く印象に残ったのは、それが特別な誰かの話ではなく、「どこにでもいる人たち」の出来事として語られていたことでした。
読んでいる私自身と、被害に遭った方々との間に、境界線などどこにもない。
ただ、事件の場に居たか、居ないかの差だけ。
その地続きの恐怖が、私の中に静かに深く残っています。
『約束された場所で』
すとんと落ちてきた、彼らの「孤独」
実は、私は先にこちらを読みました。
驚いたのは、元信者たちの気持ちや考え方が、不思議なほど自然に、自分の中にすとんと落ちてきたことです。
私は宗教にはほとんど関心がなく、むしろ距離を置いてきたほうだと思います。
それでも、彼らが切実に「心のよりどころ」を求めていたことは、自然なことのように感じられました。
差し出された手が、たまたまその教団だっただけで、もし別の何かが差し出されていたなら、彼らはそちらに向かっていたのかもしれない。
そう思ってしまうくらい、彼らの言葉には、ある種の「筋」が通っているように感じられました。
けれど、読み進めるうちに、別の感情も湧き上がってきました。
彼らはどこかで、「自分で考えること」を放棄してしまっているのではないか。
簡単な「答え」に縋った結果、自分が属していた組織が何をしてしまったのかという冷厳な現実が、どこか他人事のように遠ざけられている。
そんな「向き合うことへの手放し」に、私は戸惑いを覚えました。
鏡としての二冊
この二冊は、完全な対極にあります。
被害を受けた側の声。そして、加害の側にいた人たちの声。
日常を壊され、事件の後も続く後遺症、トラウマ――そのために、仕事をすることも困難な状態。
けれど、そのことに冷たい社会。
また、
「もし、自分に寄る辺のない状態に置かれたとき、どこかから手を差し伸べられたら……?」
たとえそれが世間で「カルト」と呼ばれる場所であっても、その手を取らないと言い切れるのか。
そんな自分への問いかけが、今も私を立ち止まらせます。
もし、元信者たちが「自分が属した組織の行為」を、どこか自分自身の痛みとして引き受けることができたなら。
あるいは、被害に遭った方々が抱える「理由のない不条理」を、会社が、周囲の人が、社会そのものが、もっと理解してくれたら。
ほんの少しだけ、世界の見え方は変わっていたのかもしれません。
まとめ
これは評論ではなく、あくまで一読者の記憶の断片です。
二十年以上前の記憶を辿ってみて、あらためて気づきました。
この二冊は、私の中で「人間という生き物を理解するための、終わりのない教科書」として残り続けていたのだと。
そう思えるほど、『アンダーグラウンド』は様々な方のインタビューで、一貫性がなく、読むのに時間を要しました。
当然ですよね。被害に遭った一人一人には、それぞれの人生があるのだから。
また、『約束された場所で』は、人が違っても同じ方向を見ていたような気がします。
同じ本を読んでも、受け取り方は人それぞれでだと思います。
それでも、こうして言葉にすることで、私の中にあった曖昧なものに、ようやく一つの名前を付けられたような気がしています。
最後に、この本のリンクを張るためにAmazonで探したところ、Kindle版が出ていないことに気づきました。
ですが、改めて考えてみると、この本は端末の画面ではなく、紙の重みを感じながら、一行一行をしっかりと噛み締めて読みたい本だと思います。
デジタル全盛の今だからこそ、あえて「紙の本」で向き合う価値がある。そんな二冊です。
「約束された場所で」は文庫で出ているようで、手に取りやすい価格になっていました。
私が購入したときは、ハードカバーの本しかなかったです(;´・ω・)
