地理散歩記録2:München(ミュンヘン) 800年の「通り道」史
一本の橋の架け替えが、のちの大都市ミュンヘンを生んだ。ヒト・モノが800年に渡りこの街を通っていった。
(カバー写真はPinakothek der Moderneにて。日曜日は入場料 1ユーロ。)
概要
ミュンヘンの「人とモノが通り抜ける結節点」としての側面に注目した。
第1章では地理を見る。街はアルプス前地に位置しており、氷河由来の扇状地上、旧市街はイーザル川の河岸段丘に乗る。
第2章は歴史。1158年、イーザル川の渡しと「塩の道」を押さえる関所として、その権益を確保してきた。
第3章は鉄道。その800年後に現れた新たな結節点であるミュンヘン中央駅について、その立地の変遷、産業への寄与、人口動態への影響に目を向ける。

第1章 地理 ― アルプス前地の扇状地の上に

1-1. ミュンヘンの大地形
引いた視点でミュンヘンの地理を捉える。ミュンヘンは、アルプスの北に広がる「バイエルン前地(アルプス前地)」の上にある。約3400万年前(漸新世)にアルプスが隆起するとき、山が削られて大量の土砂が北の低地へ流れ込んだ。その荷重で大陸プレートそのものがゆっくりたわみ、浅い盆地(前縁盆地)ができた。その後、さまざまな河川、氷河とその融水が砂礫を運搬、堆積させ、約1万年前に平地がほぼ整ったとされる。

1-2. ミュンヘンの小地形
もう少し寄ってみる。ミュンヘンはバイエルン前地の中央、ドナウ川の支流であるイーザル川沿いに位置している。

南の山脈はアルプス。
街の足元は、氷河期の氷河とその雪解け水がアルプスから運んで積み上げた砂利でできた「ミュンヘン砂礫平野」。氷河由来の扇状地と言える。
そこへイーザル川が長い時間をかけて谷を刻み、階段状の河岸段丘をつくった。旧市街(マリエン広場のあたり)は、河岸段丘の段丘面の上にある。川にほど近く、しかし洪水時に水に浸かりにくい。市を開くのにちょうどいい土地だ。

数字は後ほど出てくる写真撮影スポット。
①イーザル川 ②バイエルン像足元 ③マリエン広場
④カール門 ⑤シュッツェン通り ⑥ハッカー橋
一般的な性格として、山の麓に広がる平地は、山越えの難所を避けつつ、低すぎる湿地も避けられる。また、扇状地の末端(扇端)では湧き水も得やすい。そのため古くから道が通り、人が住み、町が育つ。
1-3. 日本だと
私の頭の中で結びついたので追記するが、岐阜県の白川郷の集落も河川沿いの砂礫台地上かつ扇状地周辺の湧水帯に位置する。集落としての性格の違いはあれど、ミュンヘンもこの山麓・扇状地という地理条件の上にある。このように、洋の東西を問わず人は自然との関わりの中で生活を営んできた。

(筆者撮影)
第2章 歴史 ― 橋と塩が生んだ「関所の街」
2-1. 塩の道の引き込み
地形が舞台なら、人はその舞台で歴史を紡ぎ、街を作ってきた。
12世紀の中央ヨーロッパは「神聖ローマ帝国」という緩やかな連合体で、頂点に皇帝(カイザー)がいて、その下で各地を公(ヘルツォーク=世俗の大領主)や司教が治める封建社会だった。
1158年、この地を治めるバイエルンのハインリヒ獅子公は、イーザル川に橋を架け、それまで北の司教領を通っていた「塩の道」を自分の領土の橋へ引き込んだ。当時は冷蔵技術がなく、塩は食品保存のための超重要戦略物資だった。その流れを握れば人流を街へと誘導することができ、橋の通行料(当時の重要な収入源だった)も市場もついてくる。
同年6月14日、この争いに関する皇帝フリードリヒ1世の裁定が下り、ミュンヘンには市場・貨幣鋳造・関税の権利が認められた。これは今もミュンヘンの公式な創設日だ。街は「橋と関所」から生まれた。

当時は「シュランネン広場(穀物市場広場)」と呼ばれていた。
1332年には皇帝の特許状でミュンヘンの「橋の権利(Brückenrecht)」が定められ、この一帯の塩の交易路はミュンヘンの橋に集中することになった 。
こうしてミュンヘンは、14世紀ごろには「人とモノが通り抜ける結節点」としての性格を獲得した。その性格は19世紀に強化されることになる。

ミュンヘン市民たちの水浴びの場ともなっていた。
第3章 鉄道 ― 800年後の、もう一つの渡し
3-1. 中央駅の立地
19世紀、街に新たな道が作られる。鉄道だ。中世の渡しと同じく、人とモノを大量に通す結節点。そして中世の橋がそうだったように、その存在が街を作り変えていく。
1839年開業の最初の駅は、現在地より数百m西、今のハッカー橋あたりにあった。



夕方になると多くの人が橋に腰掛け、友人と共に夕陽を眺める。
1847年に駅舎が焼け落ち、バイエルン王だったルートヴィヒ1世が「カール門前の射撃場(シースシュテッテ)跡地に建てる」と決定した。街に近く、かつ広い施設を敷ける開けた平地はうってつけだった。駅そばの「シュッツェン通り(射撃手通り)」が、潰された射撃場を今に伝えている。


3-2. 駅が運んだモノ
駅は、人とモノを通すだけでなく、ミュンヘン自身の産物を送り出す装置にもなった。その筆頭がビールだ。

ダークビールを使ったソースが絡む、バイエルンを代表する伝統的な一皿。
Gasthaus Drei Rosenにて。
19世紀後半、大醸造所はこぞって当時の街はずれ、新しい中央駅の周りに集まった。アウグスティナー(ハッカー橋南)、シュパーテン(駅の西)、レーヴェンブロイ(シュティークルマイヤー広場)。いずれも駅を輸出口として使える立地だった。ミュンヘンビールは、世界で取引される輸出品になったのだ。1516年にバイエルン「ビール純粋令」が制定され、水・麦芽・ホップだけで造ると定めたこの法が、この地域のビールの質を担保する一つの要因となった。

ハッカー橋南のアウグスティナー・ブロイ(醸造所)で作られたビールを氷冷し、貯蔵していた。
ビールは製品化した場合に重量が重たくなる市場志向型産品の代表格であるから、主にミュンヘンでの消費を見込んで貯蔵していたのかもしれないが、鉄道近くという立地は輸送にも有利である。
3-3. 駅が運んだ人
中世の渡しが商人を呼び寄せたように、駅は人も呼び寄せた。中央駅の11番線ホームは、「ガストアルバイター(外国人労働者)」が大勢降り立った場所である。

1955年のイタリアを皮切りに、1960年にスペインとギリシャ、1961年にトルコ…と募集協定に基づき、200万人以上がドイツに流入した。彼らが降り立った、「11番線(Gleis 11)」は、ドイツ語圏で外国人労働の代名詞になっている。
その動きは今も街並みに残る。ゲーテ通りはトルコ系、シラー通りはアラブ系、ゼーネフェルダー通りはイラク系、など、駅の南側の地域では通りごとに色が分かれている。

3400万年前の地理的大イベントに端を発するこの街は、800年前、この街は塩と商人を呼び寄せる交通の要衝となった。19世紀に現代の形に近づいた近代の駅は、ビールを世界へ送り出し、200万人を呼び込んだ。
中世の橋も近代の駅も、街の中に人とモノの流れを呼び込んだ。
その流れが街を変化させた。
※最後までお読みいただき、ありがとうございました。今回も可能な限り裏どりを行いましたが、個人的な旅行記ですので、正確性に限界があることをご了承ください。
そのほかの写真たち
そのほかに街を歩く中で撮った写真たち。






