あなたは別に、何者にもならなくていい。
SNSのタイムラインをスクロールすれば、目も眩むような「何者か」たちの姿がこれでもかと飛び込んできます。
若くして起業した人の洗練された言葉、フォロワー数万人のインフルエンサーの煌びやかな日常、あるいは自分の好きなことで自由に生きている同世代。かつてはテレビの向こう側の遠い存在だった「特別な誰か」が、今はスマホの画面を通じて、すぐ隣の席に座っているかのようなリアリティで現れます。
それらを目にするたび、胸の奥がチクリと痛む。
「自分は今のままでいいのだろうか」
「何者かにならなければ、人生をサボっているのではないか」
そんな、目に見えない焦燥感に急かされている人は、決して少なくないはずです。
でも、少し立ち止まって考えてみてほしいのです。
私たちは本当に、何者かになる必要があるのでしょうか。
「何者か」という言葉の、不確かな正体
そもそも、世間が言う「何者か」とは一体何なのでしょう。
目立つ肩書を持っていること、フォロワー数が多いこと、他人に自慢できるビジネスの成果を上げていること。それらはすべて、「他人の目から見て、分かりやすい記号がついている」という状態に過ぎません。
つまり、「何者かになりたい」と渇望することは、自分の人生の評価権を100%他人に明け渡す行為と同じです。他人の目を気にして、他人が作った評価軸のレースを走り、他人に認められるための記号を集める。
けれど、他人の評価で満たされた「何者か」は、他人の評価が消えた瞬間に、あっけなく崩壊します。そんな脆くて不確かなもののために、今ここにある生身の自分の時間を犠牲にするのは、あまりにももったいないと思うのです。
「何者でもない」という、圧倒的な無敵さ
「自分は何者でもない」と認めること。それは決して、人生の敗北を意味するのではありません。むしろ、その狭い檻から脱出して、「自由」を手に入れることだと私は思っています。
「何者か」になってしまった人は、実はとても不自由です。その肩書やイメージを維持するために失敗が怖くなり、他人の期待を裏切れなくなり、自分の輪郭をどんどん硬直させていってしまう。
一方で、何者でもない私たちは、圧倒的に無敵です。
何者でもないから、いつでも新しいことに挑戦して、派手に転んでいい。たとえば、30歳を過ぎてから全く未経験の趣味に泥臭くハマったっていい。
何者でもないから、誰かの「こうあるべき」という期待を、軽やかに無視していい。
何者でもないから、明日から全く違う生き方を始めたって、誰にも文句を言われない。
「何者か」というラベルを自ら剥ぎ取った瞬間、私たちは「ただの自分」として、一番打たれ強く、一番のびのびと、この世界を歩くことができるようになります。
世間一般の「物差し」より、あなたの「n=1」
現代の社会や市場経済は、効率よくシステムを回すために、人間を「スペック」や「期待値」で測りたがります。
しかし、あなたという人間の人生は、統計データの中の「その他大勢」でもなければ、誰かと比較されるためのサンプルでもありません。
割り切れない葛藤や感情の揺らぎ、人から見れば非効率でしかないこだわり、不器用な失敗。それら、あなたにしか見えない景色と、あなたにしか紡げない「たった一つの固有の物語(n=1)」を生きている時点で、あなたは最初から、何者にも劣らない完成された存在です。
後付けの、誰かが決めた「特別な何者か」という不確かなラベルで、その物語を上書きする必要なんてどこにもありません。
焦るエネルギーがあるなら、他人の目を惹くための武装(スキルや肩書)ではなく、自分が純粋に心地いいと感じることや、自分の内側を静かに満たすことに使ってみませんか。
泥臭くても、効率が悪くても、自分が「これでいい」と納得して選んだ時間の積み重ねこそが、人生の豊かさそのものです。
世間のノイズに、これ以上耳を貸す必要はありません。
私たちは、ただの私たちのまま、日々の輪郭を静かに味わっていれば、それだけで大正解なのですから。
――そうは言っても、何者にもなれていない時は、やっぱり「何者かになりたい」と思ってしまいますよね。
その割り切れなさや、泥臭い焦燥感も含めて、きっと他の誰にも変えられない、あなただけの愛おしい人生の1ページなのだと思います。
ではでは👋
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