『幕末女性の生活』もうひとつの物語(こぼれ話・その壱)|村上紀夫
2025年3月半ばに刊行となった『幕末女性の生活』。幕末の女性が書き残した4つの日記を繙いて、令和に生きる私たちにも分かるように、その日常生活の細部から繊細な心の動きまでを時代背景とともに伝える本書には、頁数の都合で収まりきらなかった話のタネがまだまだたくさんあります。ここでは、そのこぼれ話から、著者の村上氏が選んだ話を3回に分けて紹介します。2回目は4月30日(水)公開予定です。 ――創元社note部
小著、『幕末女性の生活』では、滝沢馬琴の息子に嫁いだ路、河内国古市の商家の娘サクたちの日記から、人びとの日常を読み解いた。
そこには、ご近所付き合い、飼い猫のこと、年中行事など豊かな日常が見えてきた。
本書を執筆しているなかで、こうした日記をくり返し読んでいると、一つの章になるほどのまとまりはないけれど、忘れられないような記事やできごとがいくつもあった。
大して役にはたたないけれど、捨てるのも惜しいものを「鶏肋」という。ここでは、本編で取り上げられるほどのまとまりはないのだけれど、捨ててしまうのももったいないような、ちょっと面白い話題をいくつか紹介したい。
占い
まずは、俗信の数々。河内国古市のサクが書いた『サク女日記』から。
サクは不祥事を起こした婿養子の格之助(平三郎)を離縁し、あらたな婿養子を探していた。婿を選ぶにあたって、今度は失敗するわけにはいかない。
複数の候補者があがり、慎重に周囲の人からそれぞれの噂を聞くなどして情報収集をしている。
それと同時に占いにも頼っていたようである。
「地蔵堂」で、さらに別の日には大坂で「墨色を見て」もらっている。これは、墨で「一」とか「○」などを書いて、その墨の濃淡などで吉凶を占うというものだ。
サクが墨色を見てもらった地蔵堂では、ほかの占いも行っていたようで、四、五人の誕生日を書いて「星を尋ね」に行かせている。
おそらく、相性占いだろう。
婿を迎える時ばかりではない。庄屋から「家相を見る人が来ているけれど、あなたもどうですか」と知らせがあり、サクの母が家相の話を聞きに出かけている。
占いに頼ることは、決して特別なことではない。江戸時代の人びとは、節目や判断に迷うときなどに占いもひとつの判断材料として上手に付き合っていたようだ。
書き言葉と話し言葉
日記の文体は、基本的には書き言葉なので、そのように江戸時代の人びとがしゃべっていたというわけではない。
ただ、時に話し言葉や、それに近い表現が日記の文中に紛れ込んでいることがある。
サクの日記から、いくつか印象的なセリフを紹介しよう。
種屋では、婿養子に迎えた格之介を離縁し、実家に帰らせることになった。
実家からは、受け入れがたいような申し入れが再三にわたっている。サクの母は、踞尾からの便りに対して、「やにこい、やにこい」(ああ、しつこい)とぼやく。
一方で、若いサクを支えるベテランの中栄介は、なかなかに威勢がいい。踞尾からの使いを言い負かしたようだ。
中栄介は、得意げに「踞尾人えらへいこ、何分宜頼宜頼と申しおり候」という。「えらへいこ」は、えらく閉口した=言い負かされてすっかり黙ってしまったという意味だ。
「踞尾から来た人はすっかり言い負かされて、どうかよろしく頼みます」と言ってましたよ――というわけ。
それから、約4ヶ月後、サクの父である平右衛門が死去して間もないころ、離縁した格之介の実家から届けられた手紙に、またもとんでもないことが書かれていたらしい。それを受け取った通い番頭の中栄介は激怒したようだ。
そこで、格之介の実家に対し、「あほうの事申し参り候えども、忌中成し。又忌中明けでもでる所出て返答致そふ」と答えたとのこと。
「アホなこと言って来やがったが、今は忌中じゃ。忌中明けにでも、出るところ出てやろうじゃないか」というわけだ。なかなか見事な啖呵だ。
驚きの民間療法
江戸時代の科学や医学は、それなりに進んでいて、現代の目から見ても合理的なものも少なくないが、時に驚きを禁じ得ないような俗信や民間療法も見られるのである。
ひとつだけ、河内国のサクが書いた日記に見える驚きの薬を紹介しておこう。
隠居部屋を掃除していた時にネズミを五疋とらえたという話題に続けて書かれている。
ネズミを蓋のついた箱に入れ、北にある蔵の軒下、開き戸の右側に埋めておく。
3年ほど経過するとネズミは水になるので、それを髪のはえないところへつければ、髪がはえてくるのだという。
ネズミが水になってしまうとも思えないけれど、それを頭に付ける勇気のある人は少ないだろう。
サクたちは、つかまえたネズミで実際に試してみたのだろうか。たとえ実験していたとしても、3年後には忘れているような気もするが。
困ったヤツ
つづいては、馬琴の息子に嫁いでいた路の日記から。
日記を読んでいると、近所に住む深田家の姉弟がしばしば滝沢家を訪れて、路の娘であるとさちと遊んだり、時には滝沢家の手伝いをしたりしている。
深田長次郎は持筒同心で、すでに「内儀」はいたようだが、嘉永5年(1852)9月4日になってようやく父親の名前を継いで「大次郎」と改名しているようなところから見ると、かなり若そうだ。
長次郎の姉、およしについて、路は「およし殿」と敬称を付けて日記に記しているが、よそよそしくしているわけではない。「殿」は、親しみをこめた表現なのだろう。
路の子、太郎やさちと年齢も近いのだろう。およしは、しばしば滝沢家に泊まりにも来ている。
頻繁に遊び来る長次郎(大次郎)やよしから見れば、路はお母さんのような存在だったのかもしれない。
ただ、天真爛漫に振る舞うおよしに比べて、弟の長次郎はどうも困ったヤツのようなのである。人は悪くなさそうだが、お金にルーズなところがあるのかもしれない(あまり、お友達にはなりたくないタイプだ)。
路は、長次郎が金子二百疋を貸してくれないかと頼んできた時には、「あまりに頻繁なので面倒なんだけど、どうも本当に困っているようなので頼みを聞いてやることにした」と書いている。
困ったヤツだと思いながらも、ついつい助けてしてしまうというわけだろうか。
その後も長次郎(大次郎)は、大切な刀を質にでも入れてしまったのか、滝沢家の婿養子吉之助に刀を借りる約束をしていた。
さすがに、恥ずかしかったのか、この日は裏口から逃げるようにコソコソと帰って行ったという。
安政3年(1856)の大晦日目前、支払いをもとめてあちこちから取立に来る頃のこと。深田大次郎が、今年の暮れの支払いがとてもできないと路に泣きついてきた。
見かねた路は、さち・吉之助夫婦とも相談し、「こっちも困ってはいるんだけど、どうせ困っているなら、助けてやっても同じことだ」――つまり助けてやってもやらなくても困るのは一緒なら、ひとつ助けてやろうじゃないか――というわけで、夏物の夜具を大次郎に貸している。
これを質に持って行ってお金を工面しなさいというわけだ。
路の懐の深さを感じさせるとともに、金に困っている深田大次郎のことを家族同様に心配していることをうかがわせる。
(了)
【著者略歴】
村上紀夫(むらかみ・のりお)
1970年愛媛県今治市生まれ。大谷大学大学院文学研究科博士後期課程中退、博士(文学・奈良大学)。現在、奈良大学文学部史学科教授。
著書に『怪異と妖怪のメディア史―情報社会としての近世』、 『江戸時代の明智光秀』、『歴史学で卒業論文を書くために』(以上、創元社)。ほかに、『近世京都寺社の文化史』(法藏館)、『まちかどの芸能史』(解放出版社)、『文献史学と民俗学―地誌・随筆・王権』(風響社)などがある。
