ドルチェの意味を知るころに - Quarta Portata ~プリマヴェーラ~
春は、いつ来たのか分からない。
昨日まで冬だった気がするのに。
ある朝、窓を開けたら風が違う。
ある日、川を見ると光が違う。
気が付くと、季節が入れ替わっている。
ミカは東野駅からカッパーナへ向かう道を歩いていた。
阿木川沿いの桜は、もう半分ほど葉桜になっている。
足元を見る。
土手の草が伸びていた。
少し前まで茶色かった景色が、いつの間にか緑へ変わっている。
春は静かだ。
誰にも気付かれないような顔をして、いつの間にか隣へ座っている。
そんな季節だった。
昼前。
裏口から声がした。
「おはよう」
元気な声だった。
振り向く。
大きな籠。
帽子。
長靴。
常連のおばあちゃんだった。
山菜採りが趣味というより、もう生活の一部になっている人だ。
籠の中には春が入っていた。
わらび。
ぜんまい。
タラの芽。
コシアブラ。
ミカは思わず声を上げた。
「すごい」
おばあちゃんは笑った。
「今朝採ってきた」
オーナーが出てくる。
籠を見て、少し笑う。
「いいね、今年は遅かったね」
おばあちゃんは頷く。
「寒かったからね」
ミカは山菜を見ていた。
スーパーでは見たことがある。
でも、こうして並ぶと少し違う。
土の匂いがする。
山の匂いがする。
まだ自然の中にいるような顔をしている。
「いいですね」
ミカは言った。
「採りに行けば、あるんですよね」
おばあちゃんは少し笑った。
そして首を振る。
「違うよ」
少し間。
「今だからあるんだよ」
ミカは黙った。
おばあちゃんはタラの芽を持ち上げる。
「これ、冬にはねぇ」
今度はコシアブラ。
「これもねぇ」
少し笑う。
「春だからある」
その言葉が、なぜだか少しだけ心に残った。
その日のプリモは、特別メニューになった。
プリマヴェーラ。
春のパスタ。
オーナーは山菜を丁寧に洗っていた。
タラの芽。
コシアブラ。
わらび。
うるい。
春キャベツ。
スナップエンドウ。
色だけでも春だった。
ミカは聞く。
「プリマヴェーラって何ですか?」
オーナーは答える。
「春」
それだけだった。
フライパンへオリーブオイル。
にんにく。
少しだけ音がする。
山菜が入る。
鮮やかな緑。
最後にレモン。
厨房に春の匂いが広がる。
ミカは不思議だった。
花の匂いじゃない。
でも春だった。
草の匂い。
土の匂い。
新しい葉の匂い。
全部混ざっていた。
その日、ミカは少し落ち込んでいた。
大学の課題。
友達の就活準備。
資格試験。
SNSを見れば、みんな何かを始めているように見える。
自分だけ遅れている気がした。
何かを始めないといけない。
急がないといけない。
そんな気持ちが、ずっと胸のどこかにあった。
だからかもしれない。
山菜を見ていて思った。
「もっと早く食べたかったな。」
するとオーナーが言った。
「無理」
ミカは顔を上げる。
オーナーは山菜を混ぜながら続けた。
「春だからある」
少し間。
「冬にはない」
それから少し笑う。
「早い春ってないだろ」
ミカは思わず笑った。
確かにそうだった。
三月の桜はない。
十二月のタラの芽もない。
急げと言っても、春は急がない。
来るときに来る。
それだけだ。
昼営業が終わる。
客席には誰もいない。
阿木川の音が戻ってくる。
鳥の声。
風。
少し遠くで草刈り機の音。
オーナーが小さな皿を置いた。
賄いだった。
プリマヴェーラ。
ミカはフォークを入れる。
タラの芽。
少し苦い。
でも嫌じゃない。
コシアブラ。
独特の香り。
口の中に山が広がる。
わらび。
少しぬめる。
春キャベツ。
甘い。
全部違う。
でも全部春だった。
「春の味って」
オーナーが言う。
「少し苦い」
ミカは頷く。
確かにそうだった。
「なんでですか」
オーナーは少し考える。
それから言った。
「冬が終わる味だから」
ミカは黙る。
窓の外を見る。
阿木川。
新しい葉。
少し暖かい風。
冬が終わる。
春が来る。
その途中の味。
だから少し苦いのかもしれない。
帰宅すると、ツムギは窓際で寝ていた。
暖かい日には陽だまりができる、お気に入りの場所で丸くなっている。
ミカが座ると、ゆっくり起きる。
そして隣へ来る。
撫でる。
温かい。
春みたいだと思った。
急がなくてもいいのかもしれない。
春は、誰かに追い立てられて来るわけじゃない。
来る時に来る。
だから毎年ちゃんと嬉しい。
窓の外を見る。
夜の風が少しだけ柔らかかった。
今日も季節は、静かに進んでいた。
いいなと思ったら応援しよう!
いつも応援ありがとうございます🐇お預かりしたチップは創作活動に活用させていただき、余剰分は募金させていただいています。