見出し画像

いまさら映画感想(74)『国宝』を見て考えたこと――血と継承、そして不器用な愛情について

映画『国宝』を見て、私はこの作品を単なる歌舞伎役者の成功物語や芸道の物語としては受け取ることができなかった。むしろ最後まで見終えた後に強く残ったのは、「血」とは何なのか、「親から子へ受け継がれるもの」とは何なのかという問いであった。

作品の中では、歌舞伎という伝統芸能の世界が描かれている。当然ながら、そこでは血筋が大きな意味を持つ。生まれた時から芸に囲まれ、作法や人間関係を自然に身につけることができる者と、そうではない者とでは出発点が大きく異なる。私はその姿を見ながら、血のつながりの持つ力や伝統の継承における重要性を改めて感じた。

しかし同時に、この映画は血筋があることが必ずしも幸福をもたらすわけではないことも描いているように思う。人は才能だけを受け継ぐわけではない。病気や性格、宿命のようなものまで引き継いでしまうことがある。現実の世界でも糖尿病など遺伝的要素の強い病気は親から子へ受け継がれることがあるし、人間の生き方そのものにもどこか見えない継承が存在しているように感じる。

作中で描かれる親子の姿にも、そうした因果のようなものが流れていた。父も息子も同じように舞台の上で生き、同じように何かに取り憑かれたように芸へ向かっていく。その姿を見ていると、人間は自由に生きているようでいて、実は自分でも気づかない何かに導かれているのではないかという気持ちになった。

主人公・喜久雄もまた、自らの血を引きずりながら生きた人物だったように思う。任侠の家に生まれ、その過去を背負いながら芸の世界へ入っていく。しかし彼は最後まで自分の出自から完全に自由になることはできなかった。歌舞伎役者として頂点を目指しながらも、常に自分の中に流れる血と向き合い続けていたように見えた。

その中で私が最も印象に残ったのは神社での場面だった。

喜久雄は神に対して、芸を極める代わりに他のものは何もいらないと「悪魔の取引」をする。その場には自分の子どももいる。多くの人はこの場面を見て、「子どもより芸を選んだ」「家族を犠牲にした」と感じるかもしれない。しかし私は少し違う受け取り方をした。

彼は家族を捨てようとしていたのではなく、むしろ守ろうとしていたのではないかと思ったのである。

その後、子どもが「お父ちゃん」と呼びながら車を追いかける場面がある。しかし喜久雄は振り返らない。その姿は冷酷にも見える。けれども私は、あの場面に彼なりの愛情を感じた。

人は愛しているからこそ距離を置くことがある。

特に何かを極限まで追求する人間は、自分の持つ執念や欲望が周囲を傷つけることを知っている。実際、私の知っている経営者の中にも、自分の仕事や生き方が家族に悪影響を及ぼすことを恐れ、意識的に家庭と距離を置いて生きている人がいる。また伝統的な家系や大きな財産を持つ家庭でも、思いがけない病気や障害を抱えた子どもが生まれることがある。そうした現実を見ていると、人は成功や才能だけでなく、様々なものを家族へ引き継いでしまう存在なのだと感じる。

喜久雄もまた、自分の持つ何かを子どもに背負わせたくなかったのではないだろうか。そこには恐れもあったかもしれない。しかしそれは決して愛情の欠如ではなく、むしろ不器用な愛情の表れだったように思う。

そして映画の終盤、その解釈を裏付けるような場面が訪れる。

人間国宝となった喜久雄を娘が取材する場面である。

娘は「父親だと思ったことはない」と語る。しかしその一方で、父の舞台を見ると正月のような幸せな気持ちになるとも語る。

私はこの言葉に深く心を動かされた。

正月というのは、本来家族が集まり、穏やかな時間を過ごす象徴である。その感覚を父の舞台に重ねているということは、娘の中で父親という存在が完全に失われていたわけではないということだろう。

一緒に暮らした時間は少なかったかもしれない。理想的な父親ではなかったかもしれない。しかし彼は娘の中に確かに生き続けていた。

だから私は、この映画は血のつながりの物語であると同時に、血だけでは説明できない親子の物語だったのだと思う。

親子とは何か。継承とは何か。愛情とは何か。

『国宝』はその答えを語らない。しかし作品を見終えた今、私は親子の関係とは一緒にいる時間の長さだけでは測れないのだと感じている。

喜久雄は決して理想的な父親ではなかった。しかし最後まで父親であることをやめなかった。不器用で遠回りな形ではあったが、自分なりの方法で家族を愛し続けた人だったのではないだろうか。

だからこそ『国宝』は、芸の物語でありながら、人間の血と宿命、そして親子の愛情を描いた作品として、多くの人の心に残るのだと思う。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集