なぜ、「生きてるだけ」では満足できないのか?
朝井リョウさんの、こちらの小説を読んだ。
ちょっと家族の前では読みづらいタイトルだけど、「自殺の話」等ではい。
私がこの本を読もうと思ったのは、「朝井リョウさんの作品だから」という事に加えて、書店で実物を手に取り巻末に収録されていた作品に関する著者のインタビュー記事を読んだからだ。
小説では物語の入口として、学校の運動会から攻撃性の高い種目がなくなり、テストの順位が非公開になっていく様子を書きました。
これは私の学生時代の記憶と重なる現象です。
教育方針として相対評価から絶対評価への移行があったわけですが、それは、世界から順位をつけられたりする苦しみを手放す代わりに、自分で自分を見つけなければならない終わりのない旅の始まりでもあります。
今回は、その旅の先に待っている自滅精神、さらにそれが転じて発生する社会や他者への攻撃性の爆発について書きたい気持ちが強くありました。
「対立」は見えなくなっただけで、ずっとそこにあり続けているんです。
私は「ゆとり世代」ではないけれど、著者の言う事が何となく分かる気がする。
「NO1にならなくても良い」と言われても。
「他人と比べるな」と言われても。
人は無意識に比較してしまうものだ。
小説に登場する「雄介」は、まさに他人との比較がエネルギー源。
小学校ではボス猿的な存在で、組立体操のピラミッドを記録更新させる事に燃えていたのに出鼻をくじかれる。
中学では他人との競争に勝ちたくて成績を上げてきたのに、テストの順位が貼り出されなくなって、成績貼り出し文化が残る「塾」で競争を始める。
大学生になってからは、学校の伝統である「ジンパ(ジンギスカンパーティー)」を復活させる為に署名活動をしたり、ローカル番組に出演して熱く語り始める。
常に「対立」を求めて、時には敵を捏造してまで戦う。
「ただ生きてるだけ」ができない性格。
ここまで極端ではないにしても、多様性とか個性が叫ばれるようになって、「私はコレやってます」と言えるものがないと生きにくい時代なのかも?と、感じた。
恐らく「自分軸」なんて言葉も、同じだと思うのだ。
「私はこういう人間です」
「〇〇の為に、活動しています」
「〇〇の実現に向けて、頑張っています」
そんなセリフが言えないと、何となく生きづらく感じてしまったりする。
小説そのものは、主人公2人の事を章ごとに別の人の視点から描かれていて、スラスラと読めるものではなかったけど、共感できるセリフが沢山あった。
きっとこの先、子ども達も「自分だけのオンリー1」を探す時が来る。
その時に何か1つでも力になれたら良いな…とも思った。
<あとがき>
これを読んだら無性に「桐島、部活やめるってよ」が読みたくなりました(笑)
学校の中にあるヒエラルキーが懐かしくも苦しくもあり、これから自分の子どもがそういう時期に入っていくかと思うと結構緊張します💦
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