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英語アレルギーの64歳、マニラに留学する

定年退職後、平穏ながらもどこか物足りない日々を送っていた64歳の元営業マン。外国人を見るだけで緊張するほどの「英語アレルギー」を抱えながらも、東京オリンピックのボランティアに挑戦したいという思いから英語学習を開始する。オンライン英会話で失敗を重ね、周囲に支えられながら少しずつ自信を取り戻した彼は、ついにフィリピン・マニラへの語学留学を決意する。愛犬ソックスや家族との絆、異文化との出会い、そして数々の挫折と成長をユーモアたっぷりに描いた、シニア世代への応援歌。何歳からでも人生は変えられる――そんな勇気を与えてくれる実話風フィクションです。

内容

プロローグ.. 3
第一章... 9
かみさんの取扱説明書.. 9
第二章... 28
英語イップス.. 28
第三章... 36
オンライン英会話.. 36
第四章... 66
ANOC総会.. 66
第五章... 99
かみさん、大反対する.. 99
第六章... 108
出発準備.. 108
第七章... 118
成田空港.. 118
第八章... 136
初めての海外一人旅.. 136
第九章... 145
マニラ到着.. 145
第十章... 154
語学学校.. 154
第十一章.. 165
初授業... 165
第十二章.. 175
英語アレルギー再発... 175
第十三章.. 183
ジープニー.. 183
第十四章.. 192
マクドナルド事件.. 192
第十五章.. 200
微魔女たち.. 200
第十六章.. 208
英語より大切なもの.. 208
第十七章.. 215
ホームシック.. 215
第十八章.. 223
“Whatcha doing?” の衝撃... 223
第十九章.. 230
俺、英語で笑わせる.. 230
第二十章.. 238
帰りたくない.. 238
第二十一章... 245
卒業式... 245
第二十二章... 253
帰国... 253
エピローグ.. 261
プロフィール... 273

プロローグ
 六十四歳で、マニラに語学留学した。
 こう書くと、なんだか意識の高いシニアみたいだが、実際の俺はまるで違う。
 俺は重度の“英語アレルギー”だった。
 外国人を見ると、喉が締めつけられる。
 英語で話しかけられると、頭が真っ白になる。
 電車で西洋人に道を聞かれ、固まったこともある。
 混雑した車内で、周囲の視線が一気に自分へ集まった気がした。
 口を開こうとしても声が出ない。
 冷や汗だけが流れた。
 あの時の息苦しさは、今でも忘れられない。
 それ以来、俺は外国人を見ると身構えるようになった。
 英語は、怖いものだった。
 間違えてはいけないもの。
 笑われるもの。
 恥をかくもの。
 だから逃げてきた。
 ずっと。
 そんな俺が、フィリピンのマニラへ一か月の語学留学をすることになった。
 人生、何が起こるか分からない。
 きっかけは、かみさんの一言だった。
「毎日ゴロゴロしてないで、何か始めたら?」
 その瞬間、胸に小さなトゲが刺さった。
 定年退職して四年。
 朝は犬の散歩。
 昼はスーパー。
 夜は時代劇。
 それなりに平和だった。
 だが、“生きている”というより、“老けている”毎日だった。
 俺は昔、大手家電メーカーの営業だった。
 数字だけは強かった。
 接待ゴルフ。
 休日出勤。
 深夜帰宅。
 家より会社にいる時間の方が長かった。
 その頃は、自分が定年後にこうなるなんて想像もしなかった。
 かみさんの後ろをカートを押して歩き、
「トイレットペーパー買ってきて」
 と言われて喜んでいる。
 昔の俺なら鼻で笑っていたタイプの老人である。
 だが、実際になってみると悪くなかった。
 いや、悪くないと思い込もうとしていたのかもしれない。
 そんな俺の人生を変えたのが、一匹の犬と、英語だった。
 愛犬ソックス。
 黒いボーダーコリーの雑種で、足先だけ白い。
 まるで靴下みたいだったから、次女が“ソックス”と名付けた。
 食いしん坊で、人懐っこくて、空気を読む天才だった。
 かみさんが怒ると、真っ先に俺のところへ避難してくる。
 結婚35年。
 夫婦円満に必要なのは愛情ではない。
 “余計なことを言わない技術”である。
 俺は、その技術を命懸けで磨いてきた。
 そして、もうひとつ。
 俺の人生を変えたのが、東京オリンピックだった。
 ニュースでボランティア募集を見た時、不思議と胸が熱くなった。
 外国人観光客を案内する。
 英語で困っている人を助ける。
 若い頃なら絶対に避けていた世界だった。
 だが、その頃の俺は、どこか焦っていた。
 このまま人生が終わるのか。
 本当にこれで終わりなのか。
 気づけば俺は、オンライン英会話へ申し込んでいた。
 最初は悲惨だった。
「Rice」と言ったつもりが、「Lice」。
 米ではなく、シラミだった。
 フィリピン人の先生が苦笑いしている。
 いい年したおっさんが画面の向こうで必死に“シラミ”を連呼しているのである。
 今思い出しても恥ずかしい。
 それでも、毎日続けた。
 25分だけ。
 たった25分。
 だが、その時間が少しずつ俺を変えていった。
 ある日、先生が言った。
「日本人は、間違うことを怖がりすぎです」
 その言葉が胸に刺さった。
 英語はテストじゃない。
 伝えるための道具なのだ。
 その頃からだった。
 俺の中で、何かが変わり始めたのは。
 そして2019年1月。
 俺は成田空港にいた。
 リュックにはウクレレ。
 キャリーケースには大量の胃薬。
 英語力は、中学生以下。
 度胸もない。
 自信もない。
 それでも俺は、フィリピン・マニラ行きの飛行機へ乗ろうとしていた。
 人生最後の大冒険だった。
第一章
かみさんの取扱説明書
 その朝も、俺は愛犬ソックスと散歩していた。
 1月の朝8時。
 空気は刺すように冷たい。
 吐く息は白く、田んぼには霜が降りていた。
 ソックスは寒いのが嫌いだ。
 玄関を開けても、なかなか外へ出ようとしない。
 だが、一度歩き始めると楽しそうに尻尾を振る。
 田んぼのあぜ道を抜け、小さな公園へ向かう。
 そこがソックスのお気に入りだった。
 子供たちが寄ってきてくれるからだ。
 小学校へ向かう途中の子供たちが、
「ソックスちゃーん!」
 と駆け寄ってくる。
 ソックスは嬉しそうに寝転がり、腹を見せる。
 完全にアイドルだった。
 その横で俺は、花粉症用マスクを二重につけ、帽子を深く被っている。
 傍から見れば、犬の散歩をしている不審者である。
「春っぽい空気ねぇ」
 隣を歩いていたかみさんが言った。
 俺は鼻をすすった。
「俺には分からん」
「気持ちいいじゃない」
「スギ花粉のにおいしかしない」
 かみさんは笑った。
 昔から、この人は季節を楽しむのが上手かった。
 桜。
 新緑。
 紅葉。
 雪景色。
 俺はずっと仕事ばかりしていたから、そんなものをゆっくり見る余裕がなかった。
 現役時代、春は“営業数字が動く季節”だった。
 花を見ても、
 ――今年はエアコン売れるかな。
 そんなことしか考えていなかった。
 今思えば、ずいぶん味気ない人生だった。
 散歩から帰ると、ソックスは足を拭かれるのを待ち、そのまま2階へ駆け上がった。
 かみさんへ足を拭いてもらったよと報告に行くのである。
 俺はウンチ袋を専用ボックスへ捨て、リビングのソファへ寝転がった。
 テレビをつける。
 朝の情報番組は、どこも同じだった。
 値上げ。
 増税。
 老後不安。
 年金。
 暗い話ばかりである。
 定年退職してからというもの、こういうニュースが妙に胸へ刺さるようになった。
 現役時代は、
 ――ふーん。
 くらいにしか思わなかったのに。
 人間、自分事になると急に真剣になる。
 その時だった。
 グルルル……。
 低い唸り声を上げながら、ソックスが階段を駆け下りてきた。
 耳が完全に寝ている。
 尻尾も下がっていた。
 ――あ、これはヤバいやつだ。
 長年一緒に暮らしていると分かる。
 ソックスは、“かみさんが怒っている時の空気”を察知する天才だった。
「どうしたソックス、お母さんに怒られたのか?」
 俺はソファへ座り直し、ソックスを抱き寄せた。
 すると二階から、
 ドスン。
 ドスン。
 重い足音が響いてきた。
 ――激おこだ。
 俺は無意識に背筋を伸ばした。
 営業部長時代、クレーム対応で鍛えた危機察知能力が反応している。
 階段を下りてきたかみさんは、掃除機を抱えていた。
「お父さん!」
 ドスの効いた声が飛ぶ。
「はいっ!」
 条件反射だった。
「ニュース見た?」
「え?」
「また値上げですって」
「ああ……」
「トイレットペーパーまで上がるんだって」
 かみさんは掃除機のコードを勢いよく引っ張った。
 バシンッ、と音が鳴る。
 ――危険レベル3。
「年金は増えないのに、なんでも高くなるのよ!」
「そうだねぇ」
 まずは共感。
 これが基本である。
 ここで、
「でも政府も頑張ってるんじゃない?」
 などと言おうものなら戦争になる。
 35年の結婚生活で学んだ。
 夫婦円満に必要なのは、正論ではない。
 共感と沈黙である。
「毎日ゴロゴロしてる人は気楽でいいわよね」
 来た。
 俺は笑顔を作った。
「いやぁ、忙しいよ?」
「何が?」
「……ソックスの散歩とか」
「一日2回でしょ」
 正論だった。
 ぐうの音も出ない。
 ソックスが「知らない」と言いたげな顔で俺を見上げている。
 裏切り者である。
 かみさんは掃除機を“標準”から“ターボ”へ切り替えた。
 ゴォォォォッ!と爆音が響く。
 ――最終形態だ。
 俺は慎重に言葉を選んだ。
「そ、そういえばさ」
「なに?」
「東京オリンピックのボランティア募集、始まるらしいよ」
 掃除機の音が、一瞬だけ止まった。
「へぇ」
 興味はありそうだった。
 俺は続けた。
「外国人の案内とかするんだって」
「お父さんが?」
「いや、まあ……」
「英語しゃべれないじゃない」
 ド正論である。
 だが、なぜかその時、俺の胸は少し熱くなった。
 若い頃、オリンピックには特別な憧れがあった。
 世界中の人が集まる。
 知らない国の言葉が飛び交う。
 笑顔。
 熱気。
 あの空気が好きだった。
 テレビの前で観ているだけだったけれど。
「でもさ」
 俺は小さく言った。
「人生で一回くらい、挑戦してみてもいいかなって」
 かみさんは黙った。
 掃除機の音だけが部屋へ響く。
 失敗したかなと思った、その時だった。
「……応募してみれば……」
 俺は顔を上げた。
「え?」
「どうせ暇なんでしょ」
 口は悪い。
 だが、これはこの人なりの“応援”だった。
 長年夫婦をやっていると分かる。
 反対する時は、もっと怖い。
 俺は思わず笑った。
「ありがとう」
「別に」
 かみさんは照れ隠しみたいに掃除機を掛け始めた。
 その横で、ソックスがしっぽを振っている。
 まるで、
 ――よかったな。
 と言っているみたいだった。
 その日の午後。
 俺は一人でパソコンの前に座っていた。
 東京オリンピック。
 ボランティア。
 検索欄へ入力すると、募集ページが表示された。
 画面には、笑顔の若者たちが映っている。
 外国人へ道案内をしている写真。
 車椅子を押している女性。
 ハイタッチしているスタッフ。
 まぶしかった。
 ――俺みたいなおやじ、場違いじゃないか?
 最初に浮かんだのは、その感情だった。
 応募条件を見る。
 18歳以上。
 英語力歓迎。
 笑顔で対応できる方。
 健康な方。
 “健康な方”のところで、俺は少し胸を張った。
 花粉症以外は元気である。
 問題は、その次だった。
 英語。
 その文字を見ただけで、胃のあたりが重くなる。
 俺はマウスを置き、コーヒーを飲んだ。
 現役時代、営業会議でプレゼンする時は緊張しなかった。
 大人数の前で話すのも平気だった。
 クレーム対応だってやってきた。
 だが、“英語”だけは駄目だった。
 学生時代から苦手だった。
 英語の授業になると、腹が痛くなる。
 教科書を読まされる。
 発音を笑われる。
 単語テストは赤点。
 高校時代、一度だけ“ビューティフル”を噛んで、
「ブリーフル」
 と言ってしまったことがある。
 教室が爆笑になった。
 あの瞬間からだ。
 英語が怖くなったのは。
 今思えば、たかがそんなことだ。
 だが十代の俺には、大事件だった。
 しかも日本人は、人前で間違えることに異常に厳しい。
 ネイティブみたいに発音すると、
「カッコつけてる」
 と笑われる。
 逆にカタカナ発音だと、
「通じねぇよ」
 と言われる。
 どっちなんだよ、と思う。
 俺はキーボードへ手を置いた。
 応募フォームが開いている。
 名前―谷村真一
 住所―埼玉県
 生年―1954
 希望活動―道案内
 記入して、そこで指が止まった。
“外国語対応可能”
 YESか、NOか。
 俺はしばらく画面を見つめた。
 英語なんて、まともに話せない。
 海外旅行経験もほとんどない。
 それでも――。
 俺は、“YES”を押した。
 その瞬間、心臓がドクンと鳴った。
 ――何やってんだ俺。
 自分でも笑った。
 だが不思議だった。
 怖いのに、少しワクワクしていた。
 まるで若い頃、新規営業へ向かう前みたいだった。
 断られるかもしれない。
 恥をかくかもしれない。
 でも、何かが始まりそうな感覚がある。
 定年後、そんな気持ちになることはほとんどなかった。
 俺は深呼吸して、応募ボタンを押した。
 送信完了。
 画面へその文字が表示された瞬間、急に現実感が湧いてきた。
 ――しまった。
 ――本当に応募しちゃった。
 その時だった。
 ソックスが俺の膝へ前足を乗せてきた。
「なんだよ」
 頭を撫でると、嬉しそうに尻尾を振る。
 犬はいい。
 未来の不安なんて考えない。
 今、嬉しいか。
 今、楽しいか。
 それだけで生きている。
 俺も昔はそうだった気がする。
 数字を追いかけ。
 酒を飲み。
 ゴルフをして。
 失敗しても、また次の日が来た。
 いつからだろう。
 失敗しないことばかり考えるようになったのは。
 気づけば俺は、
「もう60過ぎだから」
 が口癖になっていた。
 新しいことを避ける。
 恥を避ける。
 挑戦を避ける。
 そうやって少しずつ、“年寄り”になっていくのかもしれない。
 ソックスが俺の顔を舐めた。
「わかったよ」
 俺は苦笑した。
「やるだけやってみる」
 その夜、かみさんへ応募したことを話した。
「へぇ、ほんとにやったんだ」
「まあな」
「受かるといいわね」
 意外だった。
 もっと笑われると思っていた。
「でも英語、大丈夫なの?」
「……そこなんだよな」
「勉強すれば?」
 俺は味噌汁を飲みながら固まった。
「今さら?」
「今さらだからじゃない?」
 かみさんは平然と言った。
「ボケ防止にもなるし」
 ひどい言い方だった。
 だが、その一言が妙に胸へ残った。
 勉強。
 60を過ぎてから、そんな言葉とは無縁だった。
 資格試験も終わった。
 昇進競争も終わった。
 もう頑張らなくていいと思っていた。
 なのに――。
 なぜだろう。
 俺は今、少しだけ前を向いていた。
第二章
英語イップス
 数日後。
 俺は小学校時代からの友人、堀内浩二と喫茶店にいた。
 浩二は小児科医だった。
 昔は野球部の4番キャッチャー。
 女子にモテ、勉強もでき、先生からも好かれるタイプ。
 一方の俺は、地味な8番ライトだった。
 人生、なにが起こるか分からない。
 還暦を過ぎた今、なぜか俺の方が少しだけ“シュッとしている”。
 かみさんの厳しい食事管理のおかげだ。
 浩二は完全に放し飼いだった。
 腹が出ている。
 頭もだいぶ寂しくなっている。
 本人へ言うと怒るので言わないが、布袋様に似てきた。
 浩二はホットコーヒーをすすりながら俺を見た。
「で? 本当に英語やるの?」
「まあな」
「続くのか?」
「それ、かみさんにも言われた」
 浩二は笑った。
「真ちゃん、三日坊主だからな」
「失礼だな。一週間くらいは続くわ」
「威張るなよ」
 昔から、こいつといると気を使わなくていい。
 医者と元営業部長。
 社会的にはずいぶん違う人生になった。
 それでも会えば、小学生へ戻る。
「でも意外だな」
 浩二が言った。
「お前が英語やるなんて」
「俺もそう思う」
「外国人見ると固まってたもんな」
「今でも固まるわ」
 俺は苦笑した。
 浩二は少し真面目な顔になった。
「でも、それだけ苦手意識あるなら、逆に変われるかもな」
「そういうもんなのか?」
「英語って、結局“慣れ”だから」
 浩二はテーブルの上へ指を置いた。
「真ちゃん、日本語なら初対面の営業でも平気だったろ?」
「まあな」
「でも英語になると、“間違えちゃいけない”って思うんだよ」
 その言葉が胸へ刺さった。
 まさに、その通りだった。
 日本人は英語を“試験科目”として習う。
 だから間違えるのが怖い。
 減点されるのが怖い。
 笑われるのが怖い。
 だが、本来の言葉ってそうじゃない。
 伝わればいいのだ。
 浩二は続けた。
「外国人が、“昨日電車を飲みました”って言っても、お前理解できるだろ?」
「まあ、“乗りました”って意味だろうな」
「そういうこと」
 浩二は笑った。
「会話なんて、その程度で成立するんだよ」
 俺は黙った。
 なんだか肩の力が抜ける話だった。
 だが同時に、不安もある。
「でも発音とかあるだろ?」
「あー、日本人はそこ気にしすぎ」
 浩二はあっさり言った。
「ネイティブっぽく話すと、“カッコつけてる”って笑われるし、カタカナ英語だと“通じない”って言われるし、日本の英語教育って変なんだよ」
「ほんとそれ」
 俺は深くうなずいた。
 昔、“Thank you”をちょっとネイティブっぽく発音しただけで、
「うわ、ルー大柴みたい」
 と笑われたことがある。
 あれ以来、人前で英語を発音するのが恥ずかしくなった。
 浩二はコーヒーカップを置いた。
「実は俺も、人前で英語しゃべるの苦手なんだ」
「は?」
 思わず声が出た。
「お前、英語ペラペラだろ」
「いや、“英語イップス”なんだよ」
「なんだそれ」
 浩二は苦笑した。
「海外の学会でさ、論文みたいに英語しゃべっちゃったことがあるんだ」
「論文みたい?」
「“早春の候、皆様におかれましては……”みたいな感じ」
 俺は吹き出した。
「なんだそれ!」
「会話なのに硬すぎて、“論文かよ”って笑われた」
 浩二は頭をかいた。
「そのあと、しばらく英語しゃべるの怖くなった」
 意外だった。
 東大卒の医者でも、そんなことで悩むのか。
 俺は少し安心した。
 英語が怖いのは、自分だけじゃないんだ。
「だから真ちゃん」
 浩二が言った。
「まずは“慣れる”ことだな」
「どうやって?」
「オンライン英会話」
 俺は顔をしかめた。
「いやぁ……」
「毎日25分でいい」
「25分?」
「筋トレみたいなもんだよ。毎日やると耳が変わる」
 耳が変わる。
 そんなこと、本当にあるんだろうか。
 浩二はスマホを取り出した。
「フィリピン系がいいと思う」
「なんで?」
「日本人慣れしてるし、優しい」
 浩二は笑った。
「真ちゃん、メンタル弱いからな」
「うるせぇ」
 だが、その日の帰り道。
 俺は気づけば、“オンライン英会話 初心者”と検索していた。
第三章
オンライン英会話
 数日後。
 俺は本当に、オンライン英会話へ申し込んでいた。
 自分でも驚いた。
 昔の俺なら、絶対にやらなかった。
 英語教材を買って三日で飽きる。
 NHK英会話を録画して満足する。
 そんな人間だったからだ。
 だが今回は少し違った。
 オリンピック。
 外国人ボランティア。
 その言葉が妙に俺を動かしていた。
 申し込んだのは、フィリピン系のオンライン英会話だった。
 24時間受講可能。
 料金は月5千円くらい。
 退職後の財布にも優しい。
 先生は全員フィリピン人女性だった。
 プロフィール写真がずらっと並ぶ。
 年齢。
 趣味。
 講師歴。
 レビュー。
 最初の俺は、完全に顔で選んでいた。
 ――英語は続かなくても、目の保養にはなる。
 最低な動機である。
 だが、意外とそういう不純な理由の方が続いたりする。
 初レッスンの日。
 俺は異様に緊張していた。
 開始十分前からパソコンの前へ座っている。
 ヘッドセットを何度も確認する。
 マイクテスト。
 音量確認。
 トイレも済ませた。
 営業プレゼン前より緊張していた。
 画面に表示された講師は、二十代くらいの女性だった。
 笑顔が明るい。
「Hello!」
 その瞬間、俺の頭は真っ白になった。
 ――来た。
 心臓がバクバクする。
 喉が乾く。
 英語アレルギー発症である。
「H……Hello」
 やっと声が出た。
「Nice to meet you!」
「ナ、ナイス……」
 先生はニコニコしている。
 だが俺は、ほとんど事故現場だった。
 簡単な自己紹介すら出てこない。
 名前。
 年齢。
 住んでいる場所。
 全部飛んだ。
 営業時代、初対面の相手と話すのは得意だった。
 だが英語になると別人になる。
 先生は慣れているのだろう。
 ゆっくり話してくれた。
「It’s okay!」
 笑顔で親指を立てる。
 その瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。
 初心者コースは、アルファベットの発音から始まった。
「A」
「エイ」
「B」
「ビー」
 いい年したおっさんが、パソコンへ向かってABCを復唱している。
 冷静に考えると、なかなか悲しい光景だった。
 だが、もっと悲惨なのは発音だった。
「R」
「L」
 この二つが全然分からない。
 先生は笑顔で説明する。
「Rは舌を巻きます」
「Lは歯につけます」
 俺は鏡を見ながら必死に真似した。
 だが、違いが分からない。
 全部同じに聞こえる。
 先生は優しい。
 だが、その優しさが逆につらい。
 出来の悪い生徒を励ましている感がある。
 25分が終わる頃には、ぐったりしていた。
 レッスン終了ボタンを押した瞬間、深いため息が漏れた。
「疲れた……」
 本当に疲れた。
 たった25分なのに、頭をフル回転させている。
 英語って、こんなに体力を使うのか。
 その日の夕方。
 ソックスを散歩させながら、俺はぼんやり考えていた。
 やめようかな。
 正直、そう思った。
 向いていない。
 60過ぎて始めることじゃない。
 若い頃ならともかく、今さら英語なんて。
 だが不思議だった。
 完全にボコボコにされたのに、少し悔しい。
 もう一回やれば、もう少し出来る気がする。
 営業時代、新人の頃に似ていた。
 怒鳴られ。
 失敗し。
 落ち込み。
 それでも翌日また会社へ行く。
 あの感じだ。
 翌日。
 俺はまたパソコンの前へ座っていた。
 気づけば、三日続いた。
 一週間続いた。
 そして一か月後。
 俺は、すっかりオンライン英会話にハマっていた。
 だが、楽しいだけではなかった。
 2か月目に入った頃、俺は大きな壁へぶつかった。
 リスニングである。
 先生がゆっくり話している時は分かる。
 だが、少しスピードが上がると、一気に聞き取れなくなる。
“What are you doing?”
 そう言っているらしい。
 だが俺の耳には、
 ――ワラユードゥイン?
 としか聞こえない。
 別の言語だった。
“Did you eat it?”
 ――ディジュイーティッ?
“Kind of.”
 ――カインダ。
“I want to.”
 ――アイワナ。
 教科書の英語と、実際の英語が違いすぎる。
 ――反則だろ、これ。
 俺は本気でそう思った。
 しかも先生たちは、みんな笑顔で普通に話してくる。
 こっちは事故現場なのに。
 ある日のレッスンだった。
「Please say “rice.”」
 先生が笑顔で言った。
 俺は自信満々に答えた。
「Lice!」
 一瞬、先生が固まった。
 そして苦笑いした。
「Not lice……」
 先生は口元を押さえながら言った。
「それ、“シラミ”です」
 ――終わった。
 米を注文したつもりが、シラミになっていた。
 フィリピン人女性相手に“シラミ”を連呼しているのである。
 俺は顔から火が出そうだった。
「R……R……rice!」
 先生は笑いながら拍手した。
「Perfect!」
 全然パーフェクトじゃなかった。
 だが、その日から俺は、RとLの発音へ本気で取り組むようになった。
 鏡を見ながら舌を巻く。
 スマホで自分の発音を録音する。
 ソックスの前で、
「Right!」
「Light!」
 を繰り返す。
 完全に怪しい老人だった。
 ソックスも途中から興味を失っていた。
 さらに俺を苦しめたのが、“Th”だった。
「Think」
 と言ったつもりが、
「Sink」
 になる。
 先生からは、
「沈まないでください」
 と笑われた。
 最初の頃の俺は、とにかく間違えるのが恥ずかしかった。
 聞き返されるだけで心が折れる。
「Pardon?」
 と言われるたび、
 ――ああ、また通じなかった。
 と落ち込む。
 だが、不思議なことに、先生たちは絶対に笑わなかった。
 いや、笑う時はある。
 でも“バカにして”ではない。
 一緒に笑ってくれる感じだった。
 そこが、日本の英語教育と違った。
 日本では、間違えると空気が凍る。
 発音を笑われる。
 文法ミスを指摘される。
 だが、オンライン英会話では違った。
「Good challenge!」
「Nice try!」
 まず挑戦したことを褒めてくれる。
 それが、俺には新鮮だった。
 ある日のレッスンで、先生が言った。
「日本人は、とても怖がります」
「怖がる?」
「Yes。間違えること」
 俺は黙った。
 図星だった。
 先生は続けた。
「でも赤ちゃんも、最初は話せません」
「……まあな」
「たくさん間違えて、話せるようになります」
 その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かがほどけた。
 そうか。
 英語って、“勉強”じゃなくて“会話”なんだ。
 出来なくて当たり前なのだ。
 その日から、俺は少し変わった。
 分からなくても、とにかく返事をする。
 黙らない。
 間違っても止まらない。
“Well……”
“Maybe……”
“I think……”
 時間稼ぎでもいいから、口を動かす。
 すると不思議なことに、少しずつ会話が続くようになった。
 もちろん、完璧には程遠い。
 だが、通じる瞬間が増えてきた。
 その“小さな成功”が、たまらなく嬉しかった。
 六十四歳になってから、
「昨日より少し成長した」
 と思えることがあるなんて、想像もしていなかった。
 半年ほど経った頃だった。
 俺は、オンライン英会話の時間が楽しみになっていた。
 最初は“授業”だった。
 だが今は違う。
 “会話”になっていた。
 お気に入りの先生も何人かできた。
 日本のアニメが好きな先生。
 韓国ドラマにハマっている先生。
 犬を三匹飼っている先生。
 毎回、同じような話をしている。
 天気。
 食べ物。
 観光地。
 犬。
 週末の予定。
 それでも不思議と飽きなかった。
 むしろ、“同じ話が通じる”ことが嬉しかった。
 俺はレッスン後、ノートへその日話した内容を書き込むようになった。
“Favorite food”
“Volunteer”
“Direction”
“Actually”
 字は汚い。
 スペルも怪しい。
 だが、自分のノートだった。
 60を過ぎてから、こんなふうに勉強するとは思わなかった。
 ある日のフリートークだった。
「Why do you study English?」
 先生が聞いた。
 俺は少し考えた。
 最初の頃なら、
“Because Tokyo Olympics.”
 だけで終わっていたと思う。
 だがその日は、少し違った。
「I want to help foreign people in Japan.」
 先生の顔がパッと明るくなった。
「Wonderful!」
 その瞬間、俺は少し照れくさかった。
 若い頃の俺なら、絶対にこんなこと言わない。
 “外国人を助けたい”
 なんて、恥ずかしくて口にできなかった。
 だが本心だった。
 神社で困っていた外国人。
 駅で迷っていた旅行客。
 写真を撮って欲しそうにしていた家族。
 あの時、逃げた自分を覚えている。
 怖かったのだ。
 英語が。
 間違えるのが。
 笑われるのが。
 だが今は少し違う。
 完璧じゃなくても、なんとかなる気がしていた。
 先生が笑いながら言った。
「Your English is improving!」
 俺は苦笑した。
「Really?」
「Yes! More confident!」
 “自信が出てきた”。
 その言葉が妙に嬉しかった。
 英語力より、そっちの方が嬉しかった。
 人間、60を過ぎると褒められることが減る。
 会社では部長だった。
 営業成績も良かった。
 だが退職すると、一気に“ただのおじさん”になる。
 誰にも期待されない。
 怒られもしない。
 褒められもしない。
 それは気楽だ。
 だが、少し寂しい。
 だから先生の、
「Good job!」
 が、妙に胸へ沁みた。
 その日の夜。
 俺は珍しく機嫌が良かった。
 夕飯を食べながら鼻歌まで歌っていた。
 すると、かみさんが不思議そうな顔をした。
「なに? 気持ち悪い」
「ひどいな」
「なんかいいことあった?」
 俺は少し照れながら言った。
「英語、褒められた」
 かみさんは箸を止めた。
「へぇ」
「ちょっとは上達してるらしい」
「ほんとに?」
「その“ほんとに?”やめろ」
 かみさんは笑った。
 だが、その顔は少し嬉しそうだった。
「ちょっと聞かせてよ」
「え?」
「英語」
 急に言われると困る。
 頭が真っ白になる。
 さっきまで話せていたのに、全部飛んだ。
 英語アレルギー、家庭内でも発症である。
「……Hello?」
「観光客か」
「Welcome to Japan!」
 かみさんが吹き出した。
「なんか駅員さんみたい」
「うるさいな」
 だが、笑いながら聞いてくれるのが嬉しかった。
 ソックスも俺たちの間へ割り込んできて、尻尾を振っている。
 その時だった。
 スマホへ通知が入った。
 東京オリンピックボランティア事務局。
 俺は思わず固まった。
 手が止まる。
 心臓がドクンと鳴った。
「どうしたの?」
 かみさんが覗き込む。
 俺は震える指でメールを開いた。
 そして、息を呑んだ。
「……採用された」
「えっ?」
「オリンピックボランティア……受かった」
 その瞬間、頭が真っ白になった。
 嬉しい。
 いや、違う。
 最初に来たのは“不安”だった。
 ――マジかよ。
 本当に受かるとは思っていなかった。
 応募だけして、
「まあ記念だな」
 くらいの気持ちだったのだ。
 それが本当に採用されてしまった。
 しかも、外国人対応の“シティキャスト”。
 英語で道案内をするボランティアだった。
 俺はスマホを持ったまま固まっていた。
 かみさんが画面を覗き込む。
「すごいじゃない!」
「いや……すごくない」
「なんで?」
「英語しゃべれないんだぞ俺」
 かみさんは笑った。
「今さら気づいたの?」
 正論だった。
 だが問題はそこではない。
 本当に現場へ出るのである。
 外国人が目の前へ来る。
 話しかけられる。
 逃げられない。
 想像しただけで胃が痛くなった。
「辞退する?」
 かみさんが聞いた。
 俺はすぐ答えられなかった。
 怖い。
 ものすごく怖い。
 でも同時に――。
 ここで逃げたら、一生後悔する気もした。
 64歳。
 もう人生で、大きな挑戦なんてそう何度もない。
 もし今逃げたら、俺はまた、
「どうせ俺なんか」
 と言いながら老けていく気がした。
 ソックスが俺の膝へ顔を乗せた。
 温かい。
 俺はゆっくり息を吐いた。
「……やる」
 かみさんは少し驚いた顔をした。
「ほんとに?」
「せっかく受かったんだから」
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
 俺は即答した。
「めちゃくちゃ怖い」
 すると、かみさんが吹き出した。
「正直ねぇ」
「怖いもんは怖い」
 だが、その時の俺は少しだけ昔の自分に戻っていた。
 営業時代。
 初めて大口取引先を任された時。
 新規店舗を立ち上げた時。
 海外事業部へ異動した時。
 いつだって怖かった。
 でも、怖いからこそ面白かった。
 最近、そんな感覚を忘れていた。
 その夜、俺は浩二へ電話した。
「おい」
「なんだ?」
「受かった」
「何が?」
「オリンピックボランティア」
 一瞬、沈黙。
 そして、
「マジかよ!」
 浩二の笑い声が響いた。
「すげぇじゃん!」
「いや、すごくない。怖ぇよ」
「だから面白いんだろ」
 浩二は楽しそうだった。
「真ちゃん、今が一番若いんだぞ」
「なんだその宗教みたいな言葉」
「今日が、人生で一番若い」
 俺は黙った。
 その言葉が妙に胸へ残った。
 浩二は続けた。
「英語なんて、間違えていいんだよ」
「お前、簡単に言うなぁ」
「外国人だって、日本語間違えてるだろ?」
「まあな」
「でも真ちゃん、笑わないだろ?」
 たしかにそうだった。
 片言の日本語を話す外国人を見ると、むしろ頑張ってるなと思う。
 なのに、自分の英語には異常に厳しい。
 日本人は不思議だ。
「とにかく慣れろ」
 浩二が言った。
「外国人と話す回数を増やせ」
「そんな機会ないだろ」
「じゃあオンライン英会話続けろ」
 俺はため息をついた。
「最近さ」
「ん?」
「ちょっとだけ楽しいんだよ」
 言いながら、自分で驚いた。
 英語を“楽しい”なんて思う日が来るとは。
 浩二は笑った。
「それが一番大事」
 電話を切ったあと、俺はしばらく天井を見上げていた。
 英語。
 オリンピック。
 外国人。
 全部、昔の俺なら避けていたものだ。
 だが今は違う。
 怖い。
 でも、前へ進みたい。
 そんな感情が、胸の奥で静かに燃え始めていた。
第四章
ANOC総会
 オリンピックボランティアへ採用されてから、俺はさらに英語へ力を入れるようになった。
 毎日25分。
 たったそれだけだ。
 だが、その積み重ねは思った以上に大きかった。
 耳が少しずつ慣れてくる。
 聞き取れる単語が増える。
 何より、“英語を聞く恐怖”が少しずつ薄れてきた。
 そんな頃だった。
 シティキャスト向けの勉強会で、ある募集が紹介された。
「ANOC総会のボランティアを募集しています」
 世界中のオリンピック関係者が集まる国際会議らしい。
 開催場所は、品川プリンスホテル。
 仕事内容は、
 受付。
 案内。
 外国人対応。
 ――外国人対応。
 その言葉に、胃がキュッとなった。
 だが同時に、心も動いた。
 実践経験になる。
 オリンピック本番前の練習になる。
 そう思った。
 気づけば俺は応募ボタンを押していた。
 数日後。
 あっさり採用通知が届いた。
 人気がなかったのかもしれない。
 報酬は弁当と交通費千円。
 だが俺には、それ以上の価値があった。
 本物の外国人相手に英語を使う。
 逃げられない場所。
 今思えば、よく応募したと思う。
 当日。
 俺は品川プリンスホテルの前で深呼吸していた。
 スーツ姿の外国人たちが次々とホテルへ入っていく。
 白人。
 黒人。
 中東系。
 今までテレビの中でしか見たことのない世界だった。
 しかも全員、英語を話している。
 当たり前だ。
 だが、その当たり前が怖かった。
 受付会場へ入ると、さらに緊張した。
 スタッフがみんな優秀そうなのだ。
 英語ペラペラ感が漂っている。
 俺だけ完全に場違いだった。
 すると、赤いメガネの女性が近づいてきた。
「赤井です。よろしくお願いします」
 五十代くらいだろうか。
 ショートカットで、いかにも仕事ができそうだった。
「英語と韓国語、あと少しドイツ語を担当します」
 ――え?
 さらに別の女性が言った。
「水木です。英語、中国語とスペイン語をやっています」
 ――化け物か。
 細身の女性も笑顔で頭を下げた。
「細井です。英語、フランス語と韓国語です」
 俺は帰りたくなった。
 俺だけ、“Hello”で緊張しているレベルである。
 するとスタッフが言った。
「男性一人なので、谷村さんリーダーお願いします」
 ――なんでだよ。
 本気でそう思った。
 だが断れる空気ではなかった。
 こういう時、営業人生で鍛えた“とりあえず笑顔で返事する能力”が発動する。
「よ、よろしくお願いします」
 完全に声が裏返っていた。
 その日から四日間、俺は地獄を見ることになる。
 いや――。
 人生が少し変わることになる。
 一日目。
 俺は受付カウンターへ立っていた。
 外国人が来るたび心臓が跳ねる。
「Good morning.」
 たったそれだけ言うのに、口が乾く。
 だが微魔女たちは違った。
 笑顔。
 自然な英語。
 余裕。
 まるで空気みたいに外国語を使っている。
 俺は圧倒された。
 その時だった。
 白人女性が受付へやってきた。
“Is there anyone who can speak French?”
 俺の脳が停止した。
 ――フレンチ?
 ――フライドポテト?
 完全に事故である。
 だが、その瞬間。
「私が対応します」
 細井さんが自然に前へ出た。
 流れるようなフランス語。
 白人女性が安心した顔になる。
 その光景を見ながら、俺は思った。
 ――かっけぇ……。
 だが同時に、悔しくもあった。
 俺には何もできない。
 受付へ立っているだけ。
 置物みたいなものだ。
 その時だった。
 赤井さんが小声で言った。
「谷村さん」
「はい!」
「笑顔、忘れてる」
 俺はハッとした。
 緊張しすぎて顔が固まっていたのだ。
「外国人は、笑顔だけでも安心するわよ」
 その言葉を聞いた瞬間、少し肩の力が抜けた。
 そうか。
 完璧な英語じゃなくてもいい。
 まずは、感じよくする。
 それだけでも役に立てるのかもしれない。
 その日、俺は一つだけ決めた。
 逃げない。
 外国人が来たら、自分から声をかける。
 たとえ英語がボロボロでも。
 それが英語アレルギーおやじの戦いの始まりだった。
 二日目になると、少しだけ余裕が出てきた。
 もちろん、英語が急に上達したわけじゃない。
 相変わらず聞き取れない。
 相変わらず緊張する。
 だが、人間は不思議なもので、同じ地獄へ二回入ると少し慣れる。
 受付の流れも分かってきた。
 笑顔。
 アイコンタクト。
 ゆっくり話す。
 分からなければ聞き返す。
 微魔女たちは、それを自然にやっていた。
 特に驚いたのは、“完璧を目指していない”ことだった。
 ある時、俺は細井さんへ聞いた。
「前置詞って、やっぱり大事ですよね?」
「ん?」
「“on the bus”なのか、“in the bus”なのか、すぐ分からなくなるんです」
 すると細井さんは笑った。
「そんなの、迷ったら飲み込んじゃえばいいのよ」
「え?」
「“Please take……bus.”で十分通じるから」
 俺は目を丸くした。
「そんな適当でいいんですか?」
「適当じゃなくて、“伝わる優先”」
 赤井さんも笑いながら加わった。
「細かいこと気にしてたら、外国語なんてしゃべれないわよ」
「でも間違えたら……」
「誰も死なないわ」
 全員が笑った。
 その空気が、妙に心地よかった。
 日本の英語教育とは真逆だった。
 学校では、
“will”と“be going to”の違い。
 三単現のS。
 前置詞。
 時制。
 減点。
 減点。
 また減点。
 まるで“間違えない競技”だった。
 だが、この人たちは違う。
 まず“伝える”。
 細かいことは、そのあと。
 その感覚が、俺には新鮮だった。
 昼休み。
 俺たちは控室で弁当を食べていた。
 微魔女たちは、本当に面白かった。
 韓国ドラマの話。
 海外旅行の失敗談。
 外国人ガイドの裏話。
 笑いが絶えない。
 しかも全員、毎年のように海外へ行っている。
「三か月くらい海外で暮らしながら勉強するのが一番よ」
 水木さんが当たり前みたいに言った。
 ――三か月?
 俺には想像もできなかった。
 一週間の海外旅行ですら大冒険だったのに。
「谷村さんは、海外行ったことある?」
「台湾とバリくらいです」
「あら、いいじゃない」
「でも英語全然ダメです」
 すると赤井さんが笑った。
「十分よ」
「え?」
「海外って、“なんとかなる経験”を積む場所なの」
 その言葉が胸へ残った。
 たしかに台湾でも、バリでも、なんとかなった。
 身振り手振り。
 笑顔。
 翻訳アプリ。
 単語。
 それでも人は助けてくれた。
 俺はずっと、
“英語ができない=海外は無理”
 だと思い込んでいた。
 だが、本当は違うのかもしれない。
 午後。
 事件が起きた。
 南国系の男性が受付へ来た。
 汗だくで、少し困った顔をしている。
“I want to buy summer clothes for my grandchild.”
 孫へ夏服を買いたいらしい。
 だが日本は冬。
 どこへ行っても冬服しかない。
 俺たちは総出でスマホ検索を始めた。
 子供服。
 半袖。
 営業中。
 在庫あり。
 電話。
 タクシー手配。
 まるで小さな作戦会議だった。
 数時間後。
 その男性が戻ってきた。
 両手いっぱいに子供服を抱えている。
「Thank you!」
 満面の笑みだった。
 その瞬間。
 微魔女たちが一斉にハイタッチした。
 俺もつられて手を上げた。
 なんだろう、この感じ。
 営業で契約を取った時とも違う。
 ボランティアなのに、妙に嬉しい。
 人に喜んでもらう。
 ただ、それだけ。
 でも、その笑顔が胸に沁みた。
 その日の帰り道。
 俺は品川駅のホームでぼんやり立っていた。
 疲れている。
 だが、不思議と気持ちは軽かった。
 英語は相変わらずボロボロだ。
 聞き返してばかり。
 単語も出てこない。
 それでも今日、逃げなかった。
 それだけで、自分を少し褒めたかった。
 電車がホームへ滑り込んでくる。
 その窓へ映った自分を見て、俺は少し驚いた。
 笑っていたのだ。
 最近、こんな顔をしたことがあっただろうか。
 三日目。
 俺は少し早めにホテルへ着いた。
 理由は単純だ。
 英語フレーズを復習したかった。
 前日の夜、ノートへ必死に書き込んだのだ。
“Would you follow me?”
“This way, please.”
“I could take you there.”
 たったそれだけ。
 だが、俺には大冒険だった。
 ロビーの片隅で小声で練習していると、
「真面目ねぇ」
 赤井さんが笑いながら現れた。
 今日はグレーのスーツだった。
 昨日よりさらに仕事ができそうに見える。
「いや、覚えないと不安で……」
「その気持ちは分かるわ」
 赤井さんはコーヒーを飲みながら言った。
「でもね、谷村さん」
「はい?」
「英語より、“安心感”の方が大事よ」
「安心感?」
「外国人って、日本へ来ると意外と緊張してるの」
 赤井さんはホテルロビーを見回した。
「言葉が通じない。文化が違う。電車も複雑。だから、笑顔で対応されるだけで安心するのよ」
 その言葉を聞いた瞬間、俺はハッとした。
 俺はずっと、
“英語を間違えないこと”
 ばかり考えていた。
 だが、本当に必要なのは、
“この人なら助けてくれる”
 と思ってもらうことなのかもしれない。
 営業も同じだった。
 商品知識より、
「この人から買いたい」
 と思われる営業が強い。
 英語も、人間関係なのだ。
 その時だった。
 アメリカ人らしい夫婦が困った顔で近づいてきた。
 旦那さんが地図を広げている。
“Excuse me.”
 俺の心臓がドクンと鳴った。
 だが逃げなかった。
「Yes?」
 声は少し震えていた。
“Which train goes to Asakusa?”
 浅草への行き方を聞いているらしい。
 俺は頭の中が真っ白になった。
 浅草。
 銀座線?
 都営浅草線?
 あれ、どっちだ?
 焦る。
 完全に焦る。
 だが、その時。
 微魔女たちの言葉が頭へ浮かんだ。
 ――完璧じゃなくていい。
 俺は路線図を指差した。
「This line!」
 そして必死に続けた。
「Please……take……Ginza Line!」
 文法はボロボロだった。
 だが夫婦は顔を見合わせ、
“Oh!Thank you!”
 笑顔になった。
 旦那さんが親指を立てる。
 奥さんも、
“You are very kind.”
 と言ってくれた。
 たったそれだけ。
 なのに胸が熱くなった。
 通じた。
 ちゃんと伝わった。
 俺はしばらく、その場から動けなかった。
 赤井さんが小さく拍手した。
「いいじゃない」
「……今の、合ってました?」
「気持ちは百点」
 俺は吹き出した。
 気持ち百点。
 なんだそれ。
 でも、その言葉が嬉しかった。
 午後になると、さらに外国人が増えた。
 英語だけじゃない。
 フランス語。
 中国語。
 スペイン語。
 ホテルのロビーは、まるで世界地図みたいだった。
 俺は相変わらず英語しか分からない。
 いや、その英語すら怪しい。
 それでも、自分から声を掛けるようになっていた。
“May I help you?”
 最初の頃は、この一言だけで心拍数が上がっていた。
 だが今は違う。
 怖い。
 でも、言える。
 それが大きかった。
 夕方。
 少し時間が空いた時だった。
 俺は暇つぶしに折り紙で鶴を折っていた。
 すると、外国人たちが集まってきた。
“Oh!”
“Beautiful!”
 スマホで写真を撮り始める。
 気づけば、小さな折り紙教室になっていた。
 俺は片言の英語で説明する。
「Fold here.」
「Like this!」
 みんな笑っている。
 微魔女たちまで参加してきた。
「谷村さん、先生みたい」
 細井さんが笑う。
 その瞬間、俺は思った。
 ――英語だけじゃないんだな。
 人と繋がる方法は。
 完璧な発音じゃなくてもいい。
 難しい単語を知らなくてもいい。
 笑顔。
 折り紙。
 気配り。
 そういう“小さな日本”でも、人は喜んでくれる。
 その日の帰り道。
 俺は品川駅のガラスへ映る自分を見た。
 三日前とは、少し顔が違っていた。
 自信――。
 そこまで大げさじゃない。
 でも、
「俺でも、なんとかなるかもしれない」
 そんな顔をしていた。
 四日目。
 ANOC総会、最終日だった。
 最初の日は、ホテルへ入るだけで胃が痛かった。
 外国人を見るたび緊張した。
 英語を聞くだけで頭が真っ白になった。
 だが四日目の朝。
 俺は少しだけ自然に受付へ立っていた。
「Good morning!」
 自分から声が出る。
 それだけで、自分でも驚いた。
 もちろん、英語が急に上達したわけじゃない。
 聞き取れないことは山ほどある。
 単語も出てこない。
 それでも、“逃げたい”とは思わなくなっていた。
 その日、俺はあることへ気づいた。
 外国人たちは、完璧な英語なんて求めていない。
 困った時に、
「助けようとしてくれる人」
 を探しているだけなのだ。
 その感覚が、ようやく分かってきた。
 昼過ぎ。
 ロビーで年配の外国人男性が困った顔をしていた。
 胸には関係者パス。
 手にはスマホ。
 だが、どうやらWi-Fiが繋がらないらしい。
 俺は思い切って声を掛けた。
“May I help you?”
 男性が安心した顔をした。
 だが次の瞬間、猛烈なスピードの英語が飛んできた。
 半分以上分からない。
 いや、七割分からない。
 俺は必死に単語を拾った。
“Wi-Fi”
“Password”
“Connection”
 なんとなく意味が見えてくる。
 営業時代、客の話を全部理解できなくても、“何を求めているか”を読む癖がついていた。
 英語も同じだった。
 完璧に聞き取れなくても、表情と単語でなんとかなる。
 俺はメモ用紙へWi-Fiパスワードを書いた。
「Try this!」
 男性はスマホを操作した。
 数秒後。
“Oh!!”
 満面の笑み。
 そして突然、俺の肩をバンバン叩いた。
「Thank you, my friend!」
 ――マイフレンド。
 その言葉に、胸が熱くなった。
 これまでの人生で“英語は怖いもの”だった。
 その英語で、今、外国人に感謝されている。
 不思議だった。
 人生って、本当に分からない。
 夕方。
 閉会が近づくと、ロビーは少しずつ静かになっていった。
 スタッフたちも、どこかホッとした顔をしている。
 赤井さんが伸びをした。
「終わったわねぇ」
「疲れました……」
「でも谷村さん、最初より全然よくなったわよ」
「ほんとですか?」
「外国人から逃げなくなった」
 俺は苦笑した。
 たしかにそうだった。
 最初は、
 ――誰か来るな。
 ――頼む、俺に話しかけないでくれ。
 本気でそう思っていた。
 だが今は違う。
 困っている人を見ると、自然に体が動く。
 もちろん英語は拙い。
 でも、“なんとかしたい”と思えるようになっていた。
 すると水木さんが笑った。
「谷村さん、海外向いてるかもね」
「いやいや、無理ですよ」
「そういう人ほど行くのよ」
 細井さんもうなずいた。
「語学留学とか合いそう」
 その瞬間だった。
 俺の頭へ、“マニラ”という言葉が浮かんだ。
 オンライン英会話の先生たち。
 フィリピン。
 マンツーマン授業。
 留学。
 もちろん、現実的じゃない。
 六十四歳だ。
 今さら語学留学なんて。
 だが――。
 心のどこかが動いた。
 帰宅後。
 俺はソファへ座り、ぼんやりスマホを見ていた。
“フィリピン留学 シニア”
 気づけば検索していた。
 すると、意外なほど沢山出てくる。
 マンツーマン。
 初心者向け。
 短期留学。
 日本人経営。
 しかも、思ったより安い。
 俺は画面を見つめたまま固まっていた。
 その時だった。
「なに見てるの?」
 風呂上がりのかみさんが、後ろから覗き込んできた。
 俺は一瞬迷った。
 だが、隠しても仕方ない。
「……フィリピン」
「え?」
「語学留学」
 数秒、沈黙。
 かみさんがゆっくり俺を見た。
「……お父さん」
「ん?」
「ついに頭おかしくなった?」
 俺は吹き出した。
 だが、その夜。
 俺は本気で考えていた。
 六十四歳。
 英語アレルギー。
 海外経験ほぼなし。
 そんな男が、フィリピンへ一人で語学留学する。
 普通に考えれば、無茶苦茶だった。
 でも――。
 なぜだろう。
 怖いのに、行きたかった。
 人生が、もう一度動き始める気がしていた。
第五章
かみさん、大反対する
 翌朝。
 俺は、なかなか切り出せずにいた。
 フィリピン留学。
 言葉にすると、自分でも頭がおかしいと思う。
 いい年したおっさんが、一人で海外へ語学留学。
 しかも行き先はマニラ。
 ニュースでは、
“危険”
“スラム”
“犯罪”
 そんな言葉ばかり流れている。
 普通の妻なら止める。
 いや、うちのかみさんは“普通以上に止める”。
 朝食は鮭だった。
 味噌汁。
 納豆。
 漬物。
 日本の平和な朝である。
 その空気の中へ、
「フィリピンへ留学したい」
 を投げ込むのは、かなり危険だった。
 俺はタイミングを探っていた。
 営業時代、“クレーム客へ新提案を切り出す空気”に似ている。
 慎重さが必要だ。
 すると、かみさんが言った。
「今日、トイレットペーパー安いから買ってきて」
「わかった」
「あと玉ねぎも」
「了解」
 今ならいける気がした。
 俺は味噌汁をすすりながら、できるだけ自然に言った。
「そういえばさ」
「なに?」
「フィリピンって、マンツーマン授業らしい」
 かみさんの箸が止まった。
「……は?」
 危険信号である。
 俺は続けた。
「オンライン英会話の先生たち、すごく親切なんだよ」
「うん」
「英語初心者向けの学校もあるらしくて」
「うん」
「一か月くらい」
 完全に空気が止まった。
 ソックスまで俺を見ている。
 やばい。
「……誰が?」
 低い声だった。
「俺」
 沈黙。
 味噌汁の湯気だけが静かに上がっている。
 そのあと。
「はぁぁぁ!?」
 来た。
 大噴火である。
「ちょっと待って!」
 かみさんが箸を置いた。
「フィリピン!? 一人で!?」
「いや、学校だから」
「学校の問題じゃないでしょ!」
 正論だった。
 だが、俺も引けなかった。
「英語、もっと勉強したいんだよ」
「日本でやればいいじゃない!」
「実際に外国で生活したいんだ」
「なんで!?」
「……分からない」
 俺は正直に言った。
「でも、行ってみたい」
 その瞬間、かみさんが黙った。
 怒ると思った。
 だが違った。
 呆れた顔だった。
「お父さんさぁ」
「うん」
「最近、なんか変わったよね」
 俺は少し考えた。
 たしかにそうかもしれない。
 以前の俺なら、
“危ない”
“無理”
“失敗したら恥ずかしい”
 そう考えて、やらなかった。
 だが今は違う。
 怖い。
 でも、やってみたい。
 そんな気持ちが勝っていた。
 かみさんは大きくため息をついた。
「で、いくらかかるの」
 俺は少しホッとした。
 金額の話になった時点で、“完全拒否”ではない。
「20万くらい」
「高っ!」
「でも欧米より全然安い」
「比較対象がおかしいのよ」
 その通りだった。
 だが俺は止まらなかった。
「マンツーマン授業なんだって」
「へぇ」
「日本食も出るらしい」
「そこ大事ね」
「個室もある」
「相部屋じゃないの?」
「この年で相部屋は無理」
 かみさんが吹き出した。
「たしかに」
 少し空気が柔らかくなった。
 俺はその隙を逃さなかった。
「一回くらいさ」
「……」
「人生で、大冒険してもいいかなって」
 かみさんは黙った。
 そして、ゆっくりソックスを撫でた。
「ソックス、寂しがるわね」
 その一言が胸へ刺さった。
 俺も、それが一番気になっていた。
 長期間家を空けたことなんてない。
 ソックスは、俺がキャリーケースを出すだけで不安そうな顔をする。
 犬って、本当に空気を読む。
「毎日LINEする」
「ソックスに?」
「お前にも」
「別にいいわよ」
 そう言いながら、少し寂しそうだった。
 長年夫婦をやっていると分かる。
 この人は今、
“半分怒っていて、半分応援している”
 状態だった。
 俺は静かにご飯を食べた。
 心臓はまだバクバクしている。
 でも、その奥で。
 小さな期待が膨らみ始めていた。
 ――俺、本当に行くかもしれない。
 
第六章
出発準備
 留学すると決めてからの俺は、自分でも笑うくらい浮かれていた。
 いや、“浮かれていた”というより、
 ――本当に行くのか俺。
 その現実感が、少しずつ湧いてきた感じだった。
 まず始めたのは、パスポート確認だった。
 期限。
 残存期間。
 海外保険。
 クレジットカード。
 変換プラグ。
 胃薬。
 正露丸。
 虫よけ。
 荷物を並べていると、自分が“海外へ行く人間”になった気がした。
 その横で、ソックスが不安そうに見ている。
 キャリーケースを出すと、犬は察するのだ。
 旅行。
 長時間の外出。
 空気で分かるらしい。
 俺が荷物を詰めていると、ソックスはずっと後ろをついて回っていた。
「大丈夫だよ」
 頭を撫でる。
 すると、ソックスは俺の手をぺろっと舐めた。
 その感触が妙に胸へ沁みた。
 かみさんは、最初こそ反対していたが、日が近づくにつれて“現実対応モード”へ変わっていった。
「薬、多めに持って行きなさい」
「はい」
「水は絶対ミネラルウォーターね」
「はい」
「生野菜は危ないんじゃない?」
「たぶん」
「たぶんって何よ」
 完全に“海外へ送り出す母親”になっていた。
 俺は少し笑った。
「心配してくれてる?」
「別に」
 昔から、この人は素直じゃない。
 だが長年一緒にいると分かる。
 本当に興味がない時は、もっと冷たい。
 今はちゃんと心配している。
 その頃、オンライン英会話の先生たちは大騒ぎだった。
「Really!?」
「You will come to Manila!?」
 画面越しでも伝わるくらい盛り上がっている。
 俺は少し照れくさかった。
 こんなおっさんが、海外留学で歓迎されるとは思わなかった。
 先生たちは口々に言った。
「You will love Philippines!」
「Filipino people are friendly!」
「Don’t worry!」
 “Don’t worry”。
 みんな簡単に言う。
 だが、こっちは不安だらけだった。
 英語。
 治安。
 食事。
 病気。
 一人暮らし。
 全部未知の世界である。
 それでも、不思議と行きたかった。
 怖い。
 でも、その怖さが少し楽しい。
 まるで若い頃、初めて海外出張へ行く前みたいだった。
 いや。
 あの頃より、ずっと怖いかもしれない。
 年を取ると、“慣れないこと”への耐性が落ちる。
 だからこそ、一歩踏み出すのに勇気がいる。
 ある日のレッスンだった。
 お気に入りの先生が言った。
「Please bring Japanese snacks!」
「Japanese snacks?」
「Yes! KitKat! Matcha!」
 他の先生も乱入してくる。
「柿の種!」
「Origami!」
「Cute magnets!」
 完全にお土産大会だった。
 俺は笑いながらメモを取った。
 百円ショップ。
 ドン・キホーテ。
 スーパー。
 気づけば俺は、本気でお土産選びを始めていた。
 折り紙。
 キットカット抹茶味。
 柿の種。
 冷蔵庫マグネット。
 筆ペン。
 その中で、俺は妙なことを思いついた。
 ――漢字を書いてプレゼントしたら喜ぶんじゃないか?
 “夢”。
 “愛”。
 “友情”。
 外国人は漢字が好きらしい。
 俺は百円ショップで筆ペンを買いながら、一人でニヤニヤしていた。
 完全に浮かれている。
 だが、そんな自分が少し嬉しかった。
 退職後。
 毎日が同じだった。
 朝。
 犬の散歩。
 スーパー。
 昼寝。
 時代劇。
 その繰り返し。
 もちろん平和だった。
 だが、“ワクワク”はなかった。
 今の俺には、それがある。
 この年でまさか“遠足前の子供”みたいになるとは思わなかった。
 出発一週間前。
 浩二が餞別を持ってきた。
「頑張れよ」
 そう言って渡してきた袋を見て、俺は固まった。
 避妊具だった。
「お前なぁ!」
 浩二は腹を抱えて笑っている。
「マニラは誘惑多いからな」
「俺は英語勉強しに行くんだよ!」
「はいはい」
 完全に信じていない顔だった。
 だが、そのくだらない会話が妙に嬉しかった。
 挑戦する人間として扱われている気がした。
 その夜。
 俺は一人で荷物を見直していた。
 パスポート。
 財布。
 スマホ。
 薬。
 英語ノート。
 そして、ウクレレ。
 ふと、手が止まった。
 本当に行くんだ。
 もう後戻りはできない。
 怖い。
 でも――。
 胸の奥で、何かが静かに燃えていた。
 
第七章
成田空港
 2019年1月20日。
 出発の日が来た。
 その朝、俺はいつもより早く目が覚めた。
 まだ外は暗い。
 静かな冬の朝だった。
 隣では、かみさんが寝息を立てている。
 ソックスは布団の横で丸くなっていた。
 俺はしばらく天井を見上げていた。
 ――本当に行くんだな。
 ようやく実感が湧いてきた。
 “海外留学”なんて自分とは無縁の世界だと思っていた。
 それが今、フィリピンへ向かおうとしている。
 人生は分からない。
 朝7時。
 俺はソックスを散歩へ連れ出した。
 気温はマイナス一度。
 寒い。
 ソックスは案の定、外へ出た瞬間に嫌そうな顔をした。
「今日は特別だぞ」
 俺は笑いながらリードを引いた。
 ソックスは渋々歩き始める。
 田んぼ道。
 小さな公園。
 いつもの散歩コース。
 だが今日は、景色が少し違って見えた。
 しばらく、この時間がなくなる。
 そう思うだけで胸が締めつけられる。
 ソックスは何も知らない顔で歩いている。
 時々こちらを見上げて尻尾を振る。
 犬はいい。
 未来の不安なんて考えない。
 “今”を生きている。
 俺も、そうなれたらいいのにと思った。
 帰宅すると、かみさんが朝食を準備していた。
「忘れ物ない?」
「たぶん」
「“たぶん”が一番怖いのよ」
 かみさんは何度も荷物を確認している。
 薬。
 保険証。
 パスポート。
 胃薬。
 正露丸。
 もはや海外旅行というより、“高齢者遠征”だった。
 俺は黄色いジャンパーを羽織った。
 かみさんは厚手の緑のコートを着ている。
 ――緑のたぬきだな。
 そう思ったが、もちろん口には出さない。
 夫婦円満には、“言わない技術”が必要である。
 成田空港へ向かう途中。
 車の窓から見える景色を、俺はぼんやり眺めていた。
 見慣れた埼玉の景色。
 コンビニ。
 ファミレス。
 ガソリンスタンド。
 田んぼ。
 この当たり前の景色が、急に愛おしく見える。
 成田山新勝寺へ寄って、旅の安全祈願をした。
 参道でうなぎを食べる。
 かみさんは、
「海外行く前にうなぎってどうなの」
 と言いながら、しっかり半分以上食べていた。
 午後1時。
 成田空港第三ターミナル。
 LCC特有の簡素な空気。
 若者。
 外国人。
 バックパッカー。
 いろんな人が行き交っている。
 その中でおやじがウクレレを背負って立っている。
 完全に場違いだった。
 フライトまでは、まだ時間があった。
 俺はスマホで空港アナウンスを録音した。
 英語教材にするつもりだった。
 帰国する頃には、聞き取れるようになっていたい。
 それが俺なりの目標だった。
「もう少し一緒にいる?」
 かみさんが言った。
 少し寂しそうだった。
 だが帰宅時間が遅くなるのも心配だった。
「大丈夫」
 俺は空弁を買って渡した。
「娘家族と食べて」
「ありがとう」
 改札前。
 ついに別れる時間が来た。
「毎日LINEする」
「無理しなくていいからね」
 その声が、少し震えていた。
 俺は胸が熱くなった。
 結婚して35年。
 若い頃みたいな恋愛感情はない。
 だが、この人はずっと俺の人生にいる。
 文句を言いながら。
 怒りながら。
 支えながら。
 改札へ向かう前。
 俺はふと思った。
 ――ソックス、今ごろ何してるかな。
 朝、キャリーケースを見た時。
 ソックスは落ち着かない様子で家の中を歩き回っていた。
 犬って、本当に分かるのだ。
 長く家を空ける空気を。
「すぐ帰ってくるからな」
 頭を撫でると、ソックスは俺の手を舐めた。
 あの感触が、まだ手に残っている気がした。
 俺は深呼吸した。
 そして、キャリーケースを引きながら第3ターミナルへ向かった。
 その時だった。
「どちらまでですか?」
 後ろから声を掛けられた。
 振り向くと、スキンヘッドの大男が立っていた。
 黒い服。
 鋭い目。
 がっしりした体格。
 完全に“そっち系”だった。
 俺は一瞬、固まった。
 だが、その男との出会いが。
 この旅を、大きく変えることになる。
 男は低い声で言った。
「マニラですか?」
 俺は少し警戒しながらうなずいた。
「はい」
「お仕事?」
「いえ、語学留学です」
 そう答えた瞬間、自分でも少し恥ずかしくなった。
 いい年したおっさんが“語学留学”。
 改めて口にすると、かなり変である。
 だが男は笑わなかった。
「へぇ、いいですね」
 その声は意外と穏やかだった。
 俺は少しだけ警戒を解いた。
「そちらは?」
「まあ、仕事みたいなもんです」
 曖昧な答えだった。
 だが、それ以上は聞かなかった。
 世の中には、“深く聞かない方がいい人”というのがいる。
 営業時代に学んだ。
 その男も、どこかそういう空気を持っていた。
 だが不思議と嫌な感じはしない。
 むしろ落ち着いていた。
 俺たちは並んでチェックインカウンターへ向かった。
 その時だった。
 俺の背中へ、嫌な汗が流れた。
 係員が秤を持って立っている。
 手荷物検査だった。
 ジェットスターは厳しい。
 機内持ち込みは7キロまで。
 俺は追加料金を払って10キロへ変更していた。
 だが――。
 最後にどうしてもウクレレを持って行きたくなった。
 結果、微妙に重量オーバーしている気がする。
 いや、たぶん確実にオーバーしている。
 前の客が次々と引っかかっていた。
 追加料金。
 荷物整理。
 長蛇の列。
 ――やばい。
 俺は本気で逃げたくなった。
 だが、その時。
「お荷物お願いします」
 係員と目が合った。
 終わった。
 俺は観念してリュックを秤へ載せた。
 数字が表示される。
 係員が微笑んだ。
「一キロオーバーです」
 やっぱりだった。
 俺は頭を抱えた。
 追加カウンターへ並び直したら、寿司を食う時間がなくなる。
 成田へ来たら、最後に寿司を食べると決めていたのだ。
 すると後ろから声がした。
「この人、僕と一緒です」
 振り向くと、あのスキンヘッドの男だった。
「私の荷物と合算してください」
 係員が男を見る。
 一瞬、空気が変わった。
 そして、
「……かしこまりました」
 まさかの通過だった。
 俺は呆然とした。
「え?」
 男は軽く笑った。
「間に合いましたね」
 俺は慌てて頭を下げた。
「ありがとうございます!」
 本気で助かった。
 もし追加料金の列へ並んでいたら、寿司タイムが消滅していた。
 男は俺の顔を見て笑った。
「寿司、好きなんですね」
「え?」
「顔に書いてあります」
 俺は吹き出した。
 営業時代、“顔に出るタイプ”と言われ続けてきた。
 年を重ねても治っていないらしい。
「よかったら、一緒に食べます?」
 男が言った。
 ――危険。
 頭の中で警報が鳴る。
 だが断るのも不自然だった。
「じゃあ……少しだけ」
 俺たちは空港の寿司屋へ入った。
 カウンター席。
 目の前で職人が握っている。
 俺はとりあえずビールを頼んだ。
 一口飲んだ瞬間、身体の力が抜けた。
「生き返る……」
 男が笑う。
「緊張してますね」
「そりゃしますよ」
「初海外ですか?」
「留学は初めてです」
 男はマグロをつまみながら言った。
「名前、本名じゃなくていいですか?」
「え?」
「和尚って呼んでください」
 俺は吹き出しそうになった。
 見た目と名前が一致しすぎている。
「谷村です」
「和尚です」
 怪しい。
 怪しすぎる。
 だが不思議と嫌ではなかった。
「語学留学、いいですね」
「いや、怖いですよ」
「怖いから行くんでしょう?」
 その言葉に、俺は少し黙った。
 たしかにそうだった。
 若い頃なら、怖くても突っ込めた。
 だが年を取ると、人は“安全”を選ぶようになる。
 失敗しない道。
 恥をかかない道。
 怪我しない道。
 気づけば人生が、小さくまとまっていく。
 和尚はビールを飲みながら言った。
「でも、日本人にしかできないことってあるんですよ」
「例えば?」
「おもてなしです」
 その言葉に、俺は少し驚いた。
 和尚は続けた。
「英語ペラペラの外国人なんて、世界中にいます」
「まあ……」
「でも、日本人の気配りは特別です」
 俺は黙って聞いていた。
「英語は“手段”です。でも“武器”じゃない」
 和尚は笑った。
「人間の魅力の方が大事です」
 その言葉が、不思議なくらい胸へ残った。
 俺はずっと、
 発音。
 文法。
 聞き取り。
 そんなことばかり気にしていた。
 だが、本当に大事なのは別なのかもしれない。
 笑顔。
 気配り。
 優しさ。
 そういうものでも、人は繋がれる。
 ANOC総会で感じたことと同じだった。
 和尚は最後に言った。
「谷村さん」
「はい?」
「人生、面白くなるのは“怖い方”を選んだ時ですよ」
 搭乗アナウンスが流れた。
 マニラ行き。
 俺は深呼吸した。
 人生で一番、“生きている感じ”がしていた。
第八章
初めての海外一人旅
 搭乗口の前へ座った瞬間、急に現実感が押し寄せてきた。
 ――俺、本当にフィリピン行くんだ。
 周囲を見回す。
 若いバックパッカー。
 フィリピン人家族。
 仕事帰りらしい日本人。
 みんな慣れた顔をしている。
 俺だけ完全に初心者だった。
 しかも、ひとり。
 今まで海外旅行は、全部かみさんと一緒だった。
 飛行機の乗り換えも、
 ホテルチェックインも、
 電車移動も、
 全部どこかで頼っていた。
 だが今日は違う。
 全部、自分でやらなければならない。
 それが急に怖くなった。
 搭乗開始のアナウンスが流れる。
 英語。
 日本語。
 そしてまた英語。
 以前なら“雑音”にしか聞こえなかった。
 だが今は違う。
 少しだけ単語が拾える。
“boarding”
“passport”
“gate”
 全部ではない。
 でも、“音”だった英語が、少しずつ“意味”へ変わり始めていた。
 俺はリュックを背負い、搭乗列へ並んだ。
 和尚は俺の少し後ろにいた。
「じゃあ、のちほどマニラで」
「ありがとうございました」
「good luck ! 」
 と言って和尚は親指を立てた。
 飛行機へ乗り込む。
 LCC特有の狭い座席。
 薄いシート。
 若者たちは平気そうだが、六十四歳の腰には厳しい。
 俺は最前列の窓側席だった。
 和尚は、後方の席だった。
 飛行機が動き出す。
 夜の滑走路。
 窓の外で、青い誘導灯が流れていく。
 胸が高鳴った。
 怖い。
 でもワクワクする。
 まるで若い頃、初めて営業車を任された日のようだった。
 飛行機が加速する。
 ドン、と身体が押しつけられる。
 そして、ふわっと地面が離れた。
 日本が小さくなっていく。
 俺は窓の外を見ながら思った。
 人生でこんな気持ちになるとは思わなかった。
 機内アナウンスが流れる。
 英語だ。
 以前なら完全に聞き流していた。
 だが今は違う。
“seat belt”
“emergency”
“thank you”
 少しだけ聞き取れる。
 俺はスマホを取り出し、こっそり録音した。
 あとで先生に聞いてもらうつもりだった。
 その時だった。
 隣の席の若いフィリピン人女性が、俺を見て微笑んだ。
「First time in Manila?」
 俺は一瞬固まった。
 来た。
 機内英会話である。
 逃げられない。
 だが今回は、逃げなかった。
「Yes!」
 女性が笑う。
「Travel?」
「Study English!」
「Oh! Wonderful!」
 たったそれだけの会話。
 なのに嬉しかった。
 しかも、“Study English”が一発で通じた。
 以前の俺なら、
 ――発音大丈夫だったかな。
 ――文法間違えたかな。
 そこばかり気にしていた。
 だが今は違う。
 通じた。
 それで十分だった。
 女性はスマホでマニラの写真を見せてくれた。
 高層ビル。
 巨大ショッピングモール。
 海。
 夜景。
 俺が想像していた“危険な街”とは少し違った。
「Beautiful city」
 女性が誇らしそうに言う。
 俺はうなずいた。
「I’m nervous」
 すると女性は笑った。
「Don’t worry! Filipino people are friendly!」
 その言葉は、オンライン英会話の先生たちと同じだった。
 不思議だった。
 みんな同じことを言う。
 それだけ“人の優しさ”に自信がある国なのかもしれない。
 機内が暗くなる。
 周囲の乗客たちが眠り始めた。
 だが俺は眠れなかった。
 緊張。
 興奮。
 不安。
 全部混ざっている。
 そして、少しだけ思った。
 ――もし、この挑戦がなかったら。
 俺は今ごろ、自宅で時代劇を観ていたかもしれない。
 ソックスを撫でながら。
 それも悪くない人生だ。
 だが今の俺は、飛行機の中にいる。
 英語アレルギーのおやじが、一人で海外へ向かっている。
 それだけで、少し誇らしかった。
 数時間後。
 機長のアナウンスが流れた。
“We will arrive in Manila shortly.”
 その言葉を聞いた瞬間。
 胸がドクンと鳴った。
 ――ついに来た。
 俺の“第二の青春”が、始まろうとしていた。
第九章
マニラ到着
 飛行機が着陸した瞬間、機内に拍手が起きた。
 俺は少し驚いた。
 日本では、あまり見ない光景だった。
 周囲のフィリピン人たちは笑顔で話している。
 久しぶりの帰国なのかもしれない。
 その空気が、どこか温かかった。
 窓の外を見る。
 夜のマニラ。
 滑走路の向こうに、オレンジ色の灯りが広がっている。
 湿った空気がガラス越しにも伝わってきそうだった。
 ――本当に来ちゃったな。
 今、東南アジアにいる。
 自分でもまだ信じられなかった。
 飛行機を降りる。
 ムワッとした空気が身体へまとわりついた。
 暑い。
 一月なのに、日本の夏みたいだった。
 周囲から英語とタガログ語が飛び交う。
 空港スタッフの声。
 子供の笑い声。
 スマホ通話。
 全部が日本と違う。
 俺は少し緊張しながら入国審査の列へ並んだ。
 ここが最初の関門だった。
 以前の俺なら、この時点で呼吸困難になっていたかもしれない。
 だが今は違う。
 怖い。
 でも、逃げたくはなかった。
 列が進む。
 前の人たちは英語でスラスラ会話している。
 俺の心拍数が上がった。
 順番が来た。
 入国審査官は若い男性だった。
 無表情。
 ちょっと怖い。
“Purpose?”
 来た。
 俺は一瞬固まった。
 だが、オンライン英会話で何度も練習したフレーズを思い出す。
「Study English」
 審査官が顔を上げた。
“You study English?”
 少し驚いた顔だった。
 そりゃそうだ。
 六十四歳のおやじが、英語留学。
 フィリピン人から見ても珍しいらしい。
「Yes!」
 俺は笑顔でうなずいた。
 すると審査官も少し笑った。
“Good luck.”
 パスポートへスタンプが押される。
 ドン。
 その音が、妙に胸へ響いた。
 ――入国できた。
 たったそれだけなのに、ものすごい達成感だった。
 荷物受取所へ向かう。
 ターンテーブルの周りには人がぎっしりいたが、和尚の姿はなかった。
彼は手荷物を預けていないのだから当然だった。
 カートを押す人。
 大声で話す家族。
 子供を抱えた母親。
 エネルギーが強い。
 日本の空港より、ずっと騒がしかった。
 俺は自分のキャリーケースを見つけ、ホッとした。
 その時だった。
「タニムラサン?」
 後ろから声がした。
 振り向くと、小柄なフィリピン人男性が笑顔で立っていた。
 紙に、
“TANIMURA SHINICHI”
 と書いてある。
 学校の送迎スタッフだった。
「Welcome to Manila!」
 その笑顔を見た瞬間、身体の力が抜けた。
 助かった。
 本当に助かった。
 もし誰もいなかったら、たぶん俺は空港で遭難していた。
「Thank you……」
 俺は本気で感謝した。
 外へ出る。
 その瞬間。
 熱気と喧騒が一気に襲ってきた。
 クラクション。
 排気ガス。
 人混み。
 車。
 バイク。
 呼び込み。
 全部が激しい。
 日本の“静かな整列文化”とは真逆だった。
 俺は呆然と立ち尽くした。
 その時。
 スタッフが笑いながら言った。
「Traffic is terrible!」
 そして大笑いした。
 俺もつられて笑った。
 たしかにひどかった。
 車がまったく進まない。
 クラクションが鳴りっぱなしである。
 だが不思議だった。
 嫌じゃない。
 むしろ、“外国へ来た”実感があった。
 送迎車へ乗り込む。
 窓の外には、高層ビルと屋台が混ざった不思議な景色が広がっていた。
 豪華なショッピングモール。
 古びた建物。
 ネオン。
 ジープニー。
 人。
 人。
 人。
 全部がごちゃ混ぜだった。
 俺は窓へ顔を近づけた。
 まるで映画の中みたいだった。
 その時、スマホが震えた。
 かみさんからLINEだった。
『着いた?』
 俺は少し笑った。
『なんとか生きてる』
 すぐ返信が来る。
『変な物食べないでね』
 その文章を見た瞬間。
 急に、日本が恋しくなった。
 ソックス。
 かみさん。
 静かな夜。
 味噌汁。
 全部遠い。
 だが同時に、胸の奥が熱くなっていた。
 俺は今、“知らない世界”の中にいる。
 六十四歳にして。
 人生で一番、冒険していた。
第十章
語学学校
 車は一時間近く走り続けた。
 いや、“走った”というより、“少し進んでは止まる”を繰り返していた。
 マニラの渋滞は、本当にすごかった。
 クラクションが鳴りっぱなしである。
 しかも誰も怒っていない。
 日本なら完全にケンカになるレベルだ。
 俺は窓の外を見ながら呆れていた。
 ジープニー。
 バイク。
 屋台。
 ショッピングモール。
 巨大な広告看板。
 高層ビルの隣に古い建物が並んでいる。
 豊かさと雑多さが、ごちゃ混ぜだった。
 だが、不思議と活気がある。
 街が生きていた。
 日本の地方都市では、最近こういう“熱気”を感じなくなった。
 若者も少ない。
 シャッター商店街。
 静かな駅前。
 それに比べると、マニラはエネルギーがむき出しだった。
 送迎スタッフが笑いながら言った。
「Filipino people love horn!」
 クラクションのことらしい。
 たしかに鳴らしすぎである。
 俺は吹き出した。
 英語は完璧には聞き取れない。
 だが、“雰囲気”は分かる。
 それだけで、少し嬉しかった。
 やがて車は、大きなマンションのような建物の前で止まった。
「School!」
 ついに到着した。
 俺はキャリーケースを降ろし、建物を見上げた。
 思ったより立派だった。
 もっと古びた学校を想像していた。
 入口には警備員が立っている。
 ライフルまで持っていた。
 ――やっぱり海外だな。
 少し緊張する。
 エレベーターへ乗る。
 心臓がドキドキしていた。
 そして扉が開いた瞬間。
「Welcome!!」
 突然、大きな声が響いた。
 俺は本気で飛び上がった。
 目の前に、フィリピン人スタッフたちが並んでいた。
 拍手。
 笑顔。
 歓迎モード全開である。
 俺は完全に圧倒された。
「タニムラサン!」
「Welcome to the Philippines!」
「Long flight?」
 英語が一気に飛んでくる。
 脳みそが追いつかない。
 だが、みんな笑顔だった。
 その笑顔に救われた。
 日本人スタッフの女性が近づいてきた。
「お疲れさまでした!」
 その瞬間、俺は本気でホッとした。
 日本語が、こんなにありがたいとは。
「初海外一人旅、大丈夫でした?」
「なんとか……」
「みなさん最初そう言います」
 女性は笑った。
 俺は簡単な説明を受け、部屋へ案内された。
 個室だった。
 ベッド。
 机。
 シャワー。
 エアコン。
 思ったよりちゃんとしている。
 いや、日本のビジネスホテルより広いかもしれない。
 俺は荷物を置き、ベッドへ座った。
 急に静かになる。
 その瞬間。
 強烈な孤独感が押し寄せてきた。
 ――俺、本当に海外にいるんだ。
 家じゃない。
 日本じゃない。
 誰も知らない。
 ソックスもいない。
 かみさんもいない。
 急に不安になった。
 その時だった。
 コンコン。
 ドアがノックされた。
 開けると、フィリピン人スタッフが立っていた。
「Dinner!」
 夕食の時間らしい。
 時差がマイナス1時間だから現地時間は午後7時。
 食堂へ向かう。
 そこには若い日本人たちがいた。
 二十代。
 三十代。
 大学生っぽい男の子。
 女性。
 カップル。
 みんな若い。
 俺だけ完全に保護者だった。
 その瞬間。
 猛烈に帰りたくなった。
 ――場違いだ。
 本気でそう思った。
 若者たちは英語の話をしている。
「TOEICが」
「ワーホリが」
「オーストラリアが」
 レベルが違う。
 俺は小さくなりながら席へ座った。
 すると隣の若い男が話しかけてきた。
「留学ですか?」
「うん」
「仕事で英語必要なんですか?」
 俺は少し考えてから答えた。
「オリンピックのボランティアやりたくて」
「えっ、すごい!」
 その瞬間、少し空気が変わった。
 若者が笑顔になる。
「かっこいいですね!」
 その言葉に、俺は照れくさくなった。
 この年になって、“かっこいい”なんて言われるとは思わなかった。
 夕食は、日本食に近かった。
 味噌汁。
 ご飯。
 肉料理。
 少し甘い味付けだったが、思ったより普通に食べられる。
 俺はホッとした。
 食事が合わなかったら、本気で詰んでいた。
 部屋へ戻る。
 シャワーを浴びる。
 ベッドへ寝転がる。
 その時だった。
 急に静かになった。
 日本では、午後8時だろう。
 ソックスは散歩へ行っただろうか。
 かみさんはテレビを観ているだろう。
 遠い。
 全部遠い。
 俺はスマホを開いた。
 LINE。
 ソックスの写真が送られてきていた。
 いつものソファで寝ている。
『全然寂しがってない』
 かみさんからのメッセージだった。
 俺は吹き出した。
 そして少しだけ安心した。
 その夜。
 異国のベッドの上で、俺は天井を見上げながら思った。
 怖い。
 やっぱり怖い。
 でも――。
 人生でこんなに“明日”が楽しみなのは、久しぶりだった。
第十一章
初授業
 翌朝。
 俺は時差ボケで朝4時に目が覚めた。
 外はまだ暗い。
 エアコンの音だけが静かに響いている。
 一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
 白い天井。
 見慣れない部屋。
 そして急に思い出す。
 ――マニラだ。
 俺はゆっくり起き上がった。
 身体は少し重い。
 だが、不思議と気持ちは悪くなかった。
 窓の外を見る。
 高層ビルの灯りが、まだちらほら残っている。
 遠くでクラクションが聞こえた。
 マニラは朝からうるさい。
 いや、たぶん一日中うるさい。
 そこが、少し面白かった。
 朝食は七時からだった。
 食堂へ行くと、すでに何人か学生が座っている。
 若い。
 やっぱり若い。
 二十代前半くらいだろうか。
 英語の教科書を開いている子もいる。
 意識が高い。
 俺は少し肩身が狭かった。
 すると昨日の男の子が手を振った。
「おはようございます!」
「あ、おはよう」
「緊張してます?」
「めちゃくちゃ」
 男の子が笑う。
「最初みんなそうですよ」
 そう言われると、少し安心した。
 朝食後、オリエンテーションが始まった。
 校則。
 授業時間。
 外出ルール。
 洗濯。
 Wi-Fi。
 全部英語と日本語で説明される。
 俺は必死にメモを取った。
 学生時代より真面目かもしれない。
 その後、レベルチェックテストがあった。
 これが地獄だった。
 リスニング。
 スピーキング。
 文法。
 全部ボロボロ。
 特にスピーキングは悲惨だった。
「Why did you come to the Philippines?」
 簡単な質問なのに、頭が真っ白になる。
「I……study……English……」
 やっと出た。
 先生は優しい笑顔だった。
 だが、その優しさが逆に刺さる。
 ――なって何やってんだ俺。
 少し落ち込んだ。
 テスト後、日本人スタッフが言った。
「谷村さんは初心者クラスですね」
 俺は苦笑した。
 そりゃそうだ。
 むしろ上級だったら怖い。
 そして、ついに初授業。
 マンツーマン教室へ入る。
 小さな部屋だった。
 机。
 ホワイトボード。
 扇風機。
 そして、笑顔の女性講師。
「Hello! I’m Jenny!」
 オンライン英会話と違う。
 目の前に本物の外国人がいる。
 逃げ場がない。
 心臓がバクバクする。
「I’m……Shinichi……」
 声が震えていた。
 ジェニー先生はニコニコしながら言った。
「Don’t worry!」
 またそれだ。
 フィリピン人は、本当に“Don’t worry”が好きらしい。
 授業が始まる。
 だが、全然聞き取れない。
 ジェニー先生は優しく話してくれている。
 それは分かる。
 でも英語が速い。
 頭の中がパニックだった。
「How was your flight?」
 フライト?
 えーと……。
 飛行機?
「あ……very……sleepy」
 自分でも意味不明だった。
 だが先生は笑顔でうなずく。
「Ah! You are tired!」
 通じたらしい。
 なんで通じるのか分からない。
 だが少し嬉しかった。
 授業は続く。
 自己紹介。
 趣味。
 家族。
 犬。
 そこで俺はソックスの写真を見せた。
「Ohhhhh!! Cute!!」
 ジェニー先生のテンションが急に上がった。
 そこから犬トークが始まる。
 単語だけ。
 ジェスチャー。
 笑顔。
 でも、なぜか会話になっていた。
 その瞬間、俺は気づいた。
 ――英語って、“正解”じゃないんだ。
 学校ではずっと、
 文法。
 発音。
 減点。
 間違い探し。
 そんなものばかりだった。
 だが実際は違う。
 伝えたい。
 分かりたい。
 その気持ちが先にある。
 授業が終わる頃には、汗びっしょりだった。
 50分。
 なのにフルマラソン後みたいに疲れている。
 だが、同時に少し興奮していた。
 通じた。
 少しだけ。
 でも、確かに通じた。
 教室を出ると、日本人スタッフが笑った。
「どうでした?」
 俺は深いため息をついた。
「脳みそが筋肉痛です」
 スタッフが吹き出した。
 だが、本当にそうだった。
 英語って、スポーツに近いのかもしれない。
 頭だけじゃない。
 慣れ。
 反射。
 度胸。
 全部必要なのだ。
 その日の夜。
 俺はノートへびっしり単語を書き込んでいた。
“tired”
“cute”
“traffic”
“delicious”
 スペルは怪しい。
 字も汚い。
 だが、そのノートは確実に埋まっていく。
 こんなに必死に勉強するとは思わなかった。
 でも、不思議だった。
 嫌じゃない。
 むしろ――。
 少し楽しかった。
第十二章
英語アレルギー再発
 留学三日目。
 ついに事件が起きた。
 朝から調子は悪くなかった。
 授業にも少し慣れてきた。
 ジェニー先生の英語も、以前より聞き取れる気がする。
 もちろん気のせいかもしれない。
 だが“気のせい”でも、人間は前へ進める。
 問題は午後のグループ授業だった。
 俺は、この授業が苦手だった。
 マンツーマンはいい。
 相手は一人。
 ゆっくり話してくれる。
 間違えても助けてくれる。
 だがグループ授業は違う。
 若い日本人たちが、普通に英語をしゃべる。
 スピードも速い。
 しかも積極的だ。
 俺は完全についていけなかった。
 その日のテーマは、
“Dreams”
 夢。
 先生が順番に質問していく。
「What is your dream?」
 若い女の子が答える。
「I want to work in Canada!」
 別の男の子。
「I want to improve my TOEIC score!」
 みんなスラスラ話している。
 俺の番が近づく。
 心臓がドクドク鳴った。
 久しぶりだった。
 この感じ。
 学生時代、英語の授業で当てられる直前の恐怖。
 逃げたい。
 当たるな。
 頼む。
 そんなことばかり考える。
 そして――。
「Shinichi-san?」
 来た。
 頭が真っ白になる。
 夢?
 なんだっけ?
 英語が全部飛んだ。
 若い頃からそうだった。
 緊張すると、脳みそが停止する。
「I……」
 その先が出ない。
 教室が静かになる。
 みんな待っている。
 焦る。
 汗が出る。
 完全に“英語アレルギー”再発だった。
 すると先生が優しく言った。
「It’s okay. Slowly.」
 だが、その優しさが逆につらかった。
 情けない。
 六十四歳にもなって。
 俺はやっと言葉を絞り出した。
「I……want……to help foreign people……in Japan.」
 文法は怪しかった。
 発音もボロボロだったと思う。
 だが、その瞬間。
「Ohhhh!」
 教室が少し湧いた。
 先生が笑顔になる。
「Wonderful!」
 若い学生たちもうなずいていた。
「That’s cool!」
 その反応に、俺は少し驚いた。
 笑われると思っていた。
 だが違った。
 みんな、ちゃんと聞いてくれていた。
 授業後。
 俺は少し落ち込みながら廊下を歩いていた。
 その時、後ろから声がした。
「谷村さん!」
 振り向くと、若い男の子だった。
「さっき、かっこよかったです」
「え?」
「オリンピックボランティアの話」
 俺は苦笑した。
「いやぁ、全然しゃべれなかったよ」
「でも、自分の言葉で話してたじゃないですか」
 その瞬間、胸が少し熱くなった。
 自分の言葉。
 たしかにそうだった。
 上手い英語じゃない。
 完璧な文法でもない。
 でも、“自分が本当に思っていること”だった。
 だから伝わったのかもしれない。
 その夜。
 俺は一人で近くのコンビニへ行った。
 初めての単独外出だった。
 少し怖い。
 だが、挑戦したかった。
 店員の女の子が笑顔で言う。
“Plastic bag?”
 一瞬分からなかった。
 だが、すぐ気づく。
 袋いるか?だ。
「Yes!」
 それだけ。
 たったそれだけの会話。
 でも、以前の俺なら固まっていた。
 今は違う。
 少しずつ。
 本当に少しずつだが。
 “英語を怖がる自分”が変わり始めていた。
第十三章
ジープニー
 一週間が過ぎた頃。
 俺は少しずつ、マニラの空気に慣れ始めていた。
 もちろん英語は相変わらず怪しい。
 授業中、何を言っているのか分からなくなることもある。
 だが、“分からない状態”に慣れてきた。
 これが大きかった。
 以前の俺は、
 分からない
 ↓
 パニック
 ↓
 黙る
 だった。
 今は違う。
 分からない
 ↓
 聞き返す
 ↓
 なんとかする
 へ変わってきた。
 人間、慣れる生き物らしい。
 その日、学校スタッフが言った。
「今日はジープニー乗ってみましょう!」
 教室が少しざわついた。
 ジープニー。
 マニラ名物の乗り合いバスである。
 派手な色。
 爆音。
 ドアなし。
 フィリピンへ来る前、YouTubeで見た。
 正直、怖かった。
 だが同時に、少しワクワクもした。
 俺たちは数人で学校を出た。
 外は三十度近い暑さ。
 一月とは思えない。
 道路脇には屋台が並んでいる。
 焼き鳥みたいな匂い。
 甘い匂い。
 排気ガス。
 全部混ざっていた。
 スタッフが手を挙げる。
 すると派手なジープニーが急停止した。
 クラクション。
 爆音の音楽。
 車体には“Jesus Loves You”と書かれている。
 なんでもありだった。
「後ろから乗ります!」
 スタッフが笑う。
 俺は恐る恐る乗り込んだ。
 狭い。
 向かい合わせの長椅子。
 膝がぶつかる距離。
 現地の人たちが普通に座っている。
 子供。
 学生。
 サラリーマン。
 みんな自然だ。
 俺だけ観光客丸出しだった。
 車が急発進する。
 俺は本気で吹っ飛びそうになった。
 周囲が笑う。
 恥ずかしい。
 だが、その笑い方に嫌味がなかった。
 フィリピン人は、本当によく笑う。
 スタッフが小声で説明した。
「お金は手渡しです」
「え?」
「前までリレーします」
 見ると、乗客たちが料金を手渡しで前方へ回していた。
 おつりも戻ってくる。
 信じられなかった。
 日本なら絶対トラブルになる。
 だが、普通に成立している。
 俺も真似して料金を渡した。
 すると前の人が自然に回してくれる。
 なんだろう、この感じ。
 妙に人間臭い。
 その時だった。
 隣の子供が、俺をじっと見ていた。
 五歳くらいだろうか。
 目が合う。
 すると突然、ニコッと笑った。
「Hello!」
 俺は少し驚いた。
「Hello」
 子供は嬉しそうに母親を見る。
 その瞬間。
 車内の何人かまで笑った。
 たった“Hello”だけ。
 それだけで空気が柔らかくなる。
 不思議だった。
 日本では、知らない人へ話しかけることなんてほとんどない。
 だが、ここでは違う。
 人との距離が近い。
 少しうるさい。
 少し雑。
 でも温かい。
 降りる時、スタッフが壁をコンコンと叩いた。
 するとジープニーが止まる。
 俺は思わず笑った。
「アナログだなぁ」
 だが、そのアナログさが妙に楽しかった。
 学校へ戻る途中。
 俺は空を見上げた。
 南国特有の強い日差し。
 青空。
 巨大なヤシの木。
 日本とは、まるで違う世界だった。
 その時、ふと思った。
 ――俺、ちゃんと海外で生活してるんだな。
 旅行じゃない。
 観光でもない。
 “暮らしている”。
 その感覚が、少し嬉しかった。
 夜。
 オンライン英会話の先生と偶然すれ違った。
「Shinichi-san!!」
 先生が大声で手を振る。
 俺は一瞬分からなかった。
 だが次の瞬間、思い出した。
 何度かレッスンしてくれている先生だった。
「Oh!!」
 先生は大笑いしている。
「You are really here!!」
 俺も笑った。
「Yes! Really here!」
 その瞬間、不思議な感覚になった。
 画面の向こうにいた人が、今、目の前にいる。
 英語を始めた頃。
 俺は“外国人”そのものが怖かった。
 だが今は違う。
 怖さより、“嬉しい”が勝っていた。
 英語は、まだ全然できない。
 それでも。
 英語のおかげで、世界が少し広がり始めていた。
第十四章
マクドナルド事件
 マニラ生活二週間目。
 少しずつだが、俺は“海外生活”に慣れ始めていた。
 授業。
 食事。
 コンビニ。
 ジープニー。
 最初は全部が怖かった。
 だが人間、不思議なもので、毎日続くとそれが“日常”になる。
 もちろん失敗も山ほどあった。
 特に苦しんだのが、“聞き取り”だった。
 教科書英語と現実英語は、まるで別物なのである。
 ある日の昼休み。
 日本人学生の佐藤、岡田、鈴木と一緒に外へ出た。
「マック行きましょう!」
 若者たちは元気だった。
 俺は少し緊張した。
 実は、海外で一人注文するのがまだ怖かったのだ。
 レストランは指差しでなんとかなる。
 だがファストフードは速い。
 英語も速い。
 しかも店員が容赦ない。
 日本みたいに“察してくれる接客”ではない。
 マニラのマクドナルドは、人であふれていた。
 家族連れ。
 学生。
 カップル。
 みんな大声で笑っている。
 店員も元気だ。
 完全に“陽”の空間だった。
 俺たちはレジへ並んだ。
 若者たちは慣れている。
「One burger steak!」
「Large Coke!」
 スラスラ注文していく。
 俺だけ完全に初心者だった。
 順番が来る。
 若い女性店員が高速英語で話しかけてきた。
“Hi sirwhawanyam?”
 ――終わった。
 何ひとつ聞き取れない。
 俺は固まった。
 すると後ろから佐藤が小声で言った。
「サイズ聞いてます」
 助かった。
「M……medium!」
 店員がまた何か言う。
“Eeeaaorrteatheer?”
 全然分からない。
 だが今回は少し冷静だった。
 俺は聞き返した。
「Sorry?」
 すると店員がゆっくり言ってくれた。
「for here or to go?」
 ――ああ!
 店内か持ち帰りか。
 英語を始める前なら、たぶんパニックで逃げていた。
 だが今は違う。
 聞き返せる。
 それだけでも大進歩だった。
「for here!」
 店員が笑顔でうなずく。
 そして最後に言った。
“Receipt?”
 俺の耳には、
“レシピ?”
 と聞こえた。
 ――料理教えてくれるのか?
 一瞬、本気でそう思った。
 だが後ろの鈴木が吹き出した。
「レシートっす!」
 俺も大笑いした。
「くそぉ……」
 店員まで笑っている。
 恥ずかしい。
 でも、なぜか嫌じゃなかった。
 以前の俺なら、
 間違えた
 ↓
 恥ずかしい
 ↓
 もう英語やりたくない
 だった。
 だが今は違う。
 間違えても、笑って終われる。
 それが大きかった。
 席へ座る。
 ハンバーガーを食べながら、若者たちが笑う。
「谷村さん、だいぶ慣れましたね」
「いや、毎日事故だよ」
「でも前より全然しゃべってますよ」
 俺は少し考えた。
 たしかにそうだった。
 完璧ではない。
 むしろボロボロだ。
 でも、“逃げなくなった”。
 それが一番大きい。
 その時だった。
 隣のテーブルの外国人家族が困っていた。
 子供がジュースをこぼしている。
 親が慌てている。
 俺は反射的に立ち上がった。
「Tissue?」
 店員から紙ナプキンをもらい、渡した。
 家族が笑顔になる。
「Thank you!」
 たったそれだけ。
 なのに胸が熱くなった。
 英語は拙い。
 文法も怪しい。
 でも、“助けたい”気持ちは伝わった。
 その瞬間、俺はふと思った。
 ――これでいいんだ。
 ネイティブみたいに話せなくてもいい。
 TOEIC満点じゃなくてもいい。
 大事なのは、
 “人と繋がろうとすること”。
 それだけなのかもしれない。
 帰り道。
 マニラの強い日差しの中を歩きながら、俺は少し笑っていた。
 英語アレルギーだったおやじが。
 今、海外のマクドナルドで笑っている。
 人生って、本当に分からない。
第十五章
微魔女たち
 留学生活も三週間目へ入っていた。
 マニラの暑さ。
 ジープニー。
 爆音クラクション。
 甘すぎるジュース。
 全部が少しずつ“普通”になっていく。
 人間の適応力はすごい。
 最初は怖かった街が、今では少し好きになっていた。
 その頃、俺には楽しみができていた。
 夜のラウンジだった。
 授業が終わると、日本人学生たちが自然に集まる。
 ビール。
 お菓子。
 英語の愚痴。
 恋愛話。
 転職相談。
 まるで学生寮みたいだった。
 その中でも特に目立っていたのが、“微魔女”たちだった。
 四十代から五十代くらいの日本人女性グループである。
 派手すぎない。
 でも若い。
 妙に元気。
 そして、よくしゃべる。
 俺は心の中で、品川プリンスホテルで出逢ったおばさん達と同じように“微魔女”と呼んでいた。
 美魔女ほど美しくない。
 でも、ものすごく生命力がある。
 その感じが面白かった。
 赤ワインを飲みながら、微魔女たちは本当によく笑う。
「うちの旦那なんてさぁ!」
「わかるー!」
「定年後ずっと家にいるの!」
 どこの国でも、定年おやじ問題は深刻らしい。
 俺は隅で静かにビールを飲んでいた。
 巻き込まれると危険な気がした。
 すると、一人の女性がこちらを見た。
「谷村さん、奥さんいるんでしょ?」
「いますよ」
「優しい?」
 俺は少し考えた。
「……怖いです」
 ラウンジが爆笑になった。
「正直!」
「でも、それくらいの方が長続きするのよ」
 微魔女たちは妙に人生経験が深かった。
 海外旅行。
 離婚。
 子育て。
 介護。
 転職。
 みんな色々あったらしい。
 だが共通していたのは、
“人生を楽しもうとしている”
 ことだった。
 それが眩しかった。
 日本にいた頃の俺は、
 年を取る
 ↓
 守りに入る
 ↓
 静かに老ける
 それが普通だと思っていた。
 だが、この人たちは違う。
 英語を勉強し。
 海外へ来て。
 笑っている。
 なんだか、“青春”みたいだった。
 その時だった。
 一人の微魔女が突然言った。
「谷村さんって、なんで留学したの?」
 ラウンジが少し静かになる。
 若い学生たちもこちらを見ていた。
 俺は少し照れながら言った。
「英語アレルギー治したくて」
「英語アレルギー?」
「外国人見ると固まるんです」
 また笑いが起きた。
 だが、笑われている感じじゃなかった。
 共感の笑いだった。
 俺は続けた。
「オリンピックのボランティアやって……」
「うんうん」
「ちょっとだけ、人生変えたいなって」
 言った瞬間。
 自分でも驚いた。
 こんなこと、以前の俺なら絶対口にしない。
 だが、ここでは自然に言えた。
 微魔女の一人が静かに言った。
「分かる」
 その声が妙に優しかった。
「私も、離婚してから何もなくなっちゃって」
 別の女性もうなずく。
「子供が独立すると、急に空っぽになるのよね」
 ラウンジの空気が少し変わった。
 みんな、それぞれ事情を抱えてここへ来ている。
 英語だけじゃない。
 人生を少し変えたくて。
 新しい空気を吸いたくて。
 だから、ここにいる。
 その瞬間。
 俺は急に、この場所が好きになった。
 年齢もバラバラ。
 職業もバラバラ。
 英語力もバラバラ。
 でもみんな、不器用に頑張っている。
 そこが良かった。
 その夜。
 部屋へ戻る途中、マニラの夜景が見えた。
 ネオン。
 車のライト。
 高層ビル。
 遠くでクラクションが鳴っている。
 俺は窓へ寄りかかりながら思った。
 この年になってから。
 まさか“仲間”みたいなものができるとは思わなかった。
 英語は、まだ全然できない。
 でも。
 英語のおかげで、人との距離が少し変わり始めていた。
第十六章
英語より大切なもの
 留学生活も後半へ入っていた。
 朝起きて、
 授業を受け、
 ひとりでジープニーへ乗り、
 コンビニで買い物し、
 夜はラウンジで笑う。
 最初は全部“冒険”だった。
 だが今は、それが日常になり始めている。
 人間って不思議だ。
 あれほど怖かった“外国人との会話”が、少し普通になってきた。
 もちろん、今でも聞き取れないことは山ほどある。
 授業中、先生の英語が急に早送りになることもある。
 若い学生たちの会話についていけず、置いていかれることもある。
 だが以前みたいに、
 ――もう無理だ。
 とは思わなくなっていた。
 ある日の午後。
 学校で特別授業が開かれることになった。
 講師は――和尚だった。
 成田空港で出会った、あのスキンヘッドの男である。
 校長先生とは旧知の仲だという。
 俺は、成田で寿司を食べながらこのスクールのことを話したことを思い出した。
 教室へ入ってきた瞬間、学生たちが少しざわついた。
 迫力がある。
 黒い服。
 大きな体。
 だが笑うと優しい。
「久しぶりです」
 和尚は俺を見ると軽く手を上げた。
「どうですか? マニラ」
「毎日カルチャーショックです」
 教室が笑う。
 和尚はホワイトボードへ大きく書いた。
【おもてなし】
 そして振り返った。
「今日は英語の話をしません」
 学生たちが少し驚く。
 和尚はゆっくり続けた。
「外国語って、“人間力”が出るんです」
 教室が静かになる。
「単語が少なくても、愛される人はいます」
「逆に、英語ペラペラでも嫌われる人もいる」
 俺は思わずうなずいた。
 ANOC総会でも感じた。
 結局、人は“感じのいい人”へ集まる。
 和尚は学生たちを見回した。
「日本人は、もっと自信を持っていい」
 その言葉が、妙に胸へ刺さった。
「時間を守る」
「空気を読む」
「気を配る」
「相手を不快にさせない」
「それ、日本人のすごい才能です」
 若い学生たちが真剣に聞いている。
 和尚は続けた。
「英語は道具です」
「でも、“おもてなし”は日本人にしかできない武器です」
 その瞬間。
 俺は、成田空港で和尚が言っていた意味をようやく理解した。
 俺はずっと、
 発音。
 文法。
 リスニング。
 そこばかり気にしていた。
 だが、本当に大事なのは別だった。
 笑顔。
 気配り。
 優しさ。
 相手を安心させること。
 それは、英語力とは別のものだった。
 授業後。
 和尚が俺へ言った。
「谷村さん、顔変わりましたね」
「え?」
「来た時より、ずっといい顔してる」
 俺は少し照れた。
「そうですかね」
「外国人、怖くなくなったでしょう?」
 俺は少し考えた。
 怖くないわけじゃない。
 今でも緊張する。
 だが以前とは違う。
 “逃げたい”とは思わなくなった。
「たぶん……人間って同じなんだなって」
 和尚が笑う。
「そういうことです」
 その日の夜。
 俺は一人で近くのカフェへ行った。
 店員へ自然に英語で注文する。
「Hot coffee, please.」
 以前なら、その一言だけで心拍数が上がっていた。
 だが今は違う。
 店員が笑顔で返してくる。
 俺も笑う。
 それだけ。
 それだけなのに、世界が少し変わって見えた。
 窓の外では、マニラの夜景が光っている。
 ジープニーが走る。
 人々が笑っている。
 俺はコーヒーを飲みながら、静かに思った。
 英語を学びに来たはずだった。
 でも、本当に変わったのは――。
 “英語力”じゃなく、
 “自分の心”なのかもしれなかった。
第十七章
ホームシック
 三週間を過ぎた頃だった。
 突然、気持ちが落ち込んだ。
 理由は自分でもよく分からない。
 授業も慣れてきた。
 先生たちも優しい。
 食事も食べられる。
 英語も少しずつ通じる。
 それなのに――。
 朝、起きた瞬間。
 猛烈に日本へ帰りたくなった。
 部屋の天井を見ながら、俺は深いため息をついた。
 疲れていたのかもしれない。
 毎日、英語。
 毎日、緊張。
 毎日、“分からない”の連続。
 脳みそがずっと戦っている感じだった。
 若い頃なら勢いで押し切れた。
 だが今の俺には、かなり負担だった。
 その日の授業。
 先生が何を言っているのか、全然入ってこなかった。
「Shinichi-san?」
 名前を呼ばれても反応が遅れる。
 ジェニー先生が心配そうな顔をした。
「Are you okay?」
「……a little tired」
 それが精一杯だった。
 昼休み。
 俺は食堂へ行かず、一人で部屋へ戻った。
 急に静かになった部屋。
 エアコンの音だけが響いている。
 俺はベッドへ寝転がった。
 その時だった。
 急に、ソックスのことを思い出した。
 散歩。
 田んぼ道。
 朝の冷たい空気。
 かみさんの掃除機。
 味噌汁の匂い。
 全部が恋しくなった。
 スマホを見る。
 LINEには、かみさんから写真が送られていた。
 ソックスが玄関で寝ている。
『最近、玄関で待ってる』
 その一文を見た瞬間。
 胸がギュッとなった。
 俺はしばらく画面を見つめていた。
 その時、初めて思った。
 ――帰りたい。
 本気でそう思った。
 英語なんか、もういい。
 日本へ帰って。
 ソックスを撫でて。
 味噌汁飲んで。
 時代劇見て。
 その方が幸せなんじゃないか。
 六十四歳にもなって、無理する必要あるのか。
 そんなことばかり考えていた。
 夕方。
 ラウンジへ行く気力もなく、俺はコンビニへ向かった。
 ぼんやり歩く。
 マニラの熱気が、今日は少ししんどかった。
 その時だった。
「谷村さん?」
 振り向くと、微魔女の一人だった。
「どうしたの? 元気ない」
「いやぁ……」
 俺は苦笑した。
「ちょっとホームシックかも」
 すると女性は笑った。
「あー、来た来た」
「え?」
「留学あるあるよ」
 その言い方が妙に面白くて、俺は少し笑った。
 女性はコンビニの前へ座り込んだ。
「私も最初、毎日泣いてたもん」
「え?」
「帰りたくて」
 意外だった。
 いつも明るく笑っている人だったから。
 女性は空を見上げた。
「でもね」
「……」
「ホームシックって、“ちゃんと頑張ってる証拠”なんだって」
 その言葉が胸へ残った。
「新しい環境って、想像以上に疲れるのよ」
「たしかに……」
「特に外国語は脳みそ使うし」
 女性は笑った。
「谷村さん、ずっと気を張ってるんじゃない?」
 図星だった。
 英語を聞き逃さないように。
 間違えないように。
 失礼にならないように。
 ずっと戦闘モードだった。
 女性は続けた。
「でもね、そのうち慣れる」
「ほんとですか?」
「うん。帰る頃には、“帰りたくない”って言い始めるから」
 俺は吹き出した。
「まさか」
「みんなそう言うのよ」
 その夜。
 俺は久しぶりに、ゆっくり風呂へ浸かった。
 フィリピンのシャワーはぬるい。
 だが今日は妙に気持ちよかった。
 部屋へ戻り、ノートを開く。
 最初のページには、ぐちゃぐちゃの英語が並んでいた。
“Hello.”
“My name is……”
“Rice.”
 懐かしかった。
 あの頃に比べれば、少しは前へ進んでいる。
 まだ全然ダメだ。
 でも――。
 逃げずに、ここまで来た。
 それだけは、自分を褒めてもいい気がした。
第十八章
“Whatcha doing?” の衝撃
 ホームシックの波は、数日で少し落ち着いた。
 いや、“慣れた”という方が正しいかもしれない。
 人間は不思議だ。
 どんな環境でも、少しずつ順応していく。
 朝起きて、
 英語を聞き、
 間違えて、
 笑われて、
 また話す。
 その繰り返しが、少しずつ“普通”になっていた。
 ある日の夜。
 ラウンジで若い学生たちと話していた時だった。
 韓国ドラマの話で盛り上がっている。
 俺は半分くらいしか分からなかったが、適当にうなずいていた。
 すると、フィリピン人スタッフの女の子が俺へ声を掛けた。
“Whatcha doing?”
 俺は固まった。
 ――え?
 今、なんて言った?
 頭の中で必死に巻き戻す。
 ワッチャドゥーイン?
 ワチャドゥン?
 全然分からない。
 だが、その瞬間だった。
 突然、頭の中で英語が“繋がった”。
 ――What are you doing?
 それが、くっついていたのだ。
 俺は思わず叫びそうになった。
 今まで教科書で見ていた英語と、現実の英語が初めて一致した瞬間だった。
「あっ……!」
 スタッフが不思議そうな顔をする。
「You okay?」
「今の!」
「え?」
「What are you doing?」
 スタッフが笑った。
「Yes!」
 その瞬間。
 俺は妙な興奮に包まれていた。
 リエゾン。
 英語が繋がって聞こえる現象。
 オンライン英会話でも何度も苦しめられた。
“Did you eat it?”

“Didja eatit?”
“I want to.”

“I wanna.”
 全部、“別の言語”に聞こえていた。
 だが今。
 初めて、それが“英語”として聞こえた。
 俺は本気で感動していた。
 たぶん若い人から見れば、小さなことだ。
 だが英語アレルギーおやじには、大事件だった。
 ラウンジへ戻る。
 俺は興奮気味に微魔女たちへ話した。
「今、“Whatcha doing”が分かった!」
 微魔女たちが笑う。
「おおー!」
「谷村さん覚醒した!」
 俺は本気で嬉しかった。
「今まで全部、“音”だったんだよ!」
「うんうん」
「でも今、“意味”で聞こえた!」
 若い学生たちも笑っている。
 だが、その笑いは温かかった。
 誰もバカにしない。
 むしろ一緒に喜んでくれる。
 そこが、この学校の好きなところだった。
 その夜。
 俺は部屋へ戻ってからも興奮していた。
 ノートを開き、必死に書き込む。
“Whatcha”
“Gonna”
“Kinda”
“Wanna”
 今まで“雑音”だったものが、少しずつ意味を持ち始めている。
 英語が、“教科”から“言葉”へ変わり始めていた。
 その時だった。
 スマホへLINEが入った。
 かみさんだった。
『ソックス、お父さんの布団で寝てる』
 写真付きだった。
 俺の布団の上で、ソックスが丸くなっている。
 その姿を見た瞬間。
 胸がギュッとなった。
 会いたい。
 今すぐ抱きしめたい。
 だが同時に、思った。
 ――帰ったら、少し違う自分になってるかもしれない。
 以前の俺なら、
 英語を聞くだけで逃げていた。
 外国人を見ると固まっていた。
 だが今は違う。
 まだ怖い。
 でも、“分かりたい”と思っている。
 それが大きかった。
 窓の外では、マニラの夜景が光っていた。
 クラクション。
 笑い声。
 遠くのネオン。
 俺は窓際へ立ちながら、静かに思った。
 人間って、ちゃんと変われるのかもしれない。
第十九章
俺、英語で笑わせる
 留学生活も終盤へ入っていた。
 最初は長く感じた一か月だった。
 だが慣れてくると、時間が急に早くなる。
 授業。
 復習。
 ラウンジ。
 週末の外出。
 気づけば、“マニラ生活”が当たり前になっていた。
 その頃の俺は、以前よりかなりしゃべるようになっていた。
 もちろん英語は拙い。
 文法もボロボロ。
 時制なんて適当。
 だが、不思議と会話は続く。
 相手の言葉を全部理解できなくても、なんとなく流れが分かる。
 それが大きかった。
 ある日の授業だった。
 テーマは、
“Funny experience”
 面白い体験。
 ジェニー先生が笑顔で言った。
「Shinichi-san, please!」
 俺は少し考えた。
 そして、あの“Lice事件”を話すことにした。
「I said……“Lice”……」
 先生が首をかしげる。
「Instead of……“Rice”」
 一瞬、静寂。
 そして次の瞬間。
「HAHAHAHA!!」
 教室が爆笑になった。
 ジェニー先生が机を叩いて笑っている。
「Oh my God!!」
 俺もつられて笑った。
 さらに俺は続けた。
「I said……many many lice!」
 また爆笑。
 別の先生まで覗きに来る。
 完全に教室が宴会状態だった。
 その瞬間、俺はふと思った。
 ――俺、英語で笑わせてる。
 以前の俺なら考えられなかった。
 英語は、“笑われるもの”だった。
 間違える。
 恥をかく。
 逃げたくなる。
 それが英語だった。
 だが今は違う。
 間違いを“笑い”へ変えられている。
 それが嬉しかった。
 授業後。
 ジェニー先生が言った。
「Your story is very funny!」
「Thank you」
「And your smile is better now」
 その言葉に、俺は少し黙った。
 笑顔。
 たしかに最近、自分でもよく笑っている気がした。
 留学前。
 俺はどんな顔で毎日を過ごしていただろう。
 朝起きて。
 散歩して。
 スーパーへ行って。
 時代劇見て。
 それも悪い人生じゃなかった。
 だが、“新しい刺激”はなかった。
 今は毎日が違う。
 失敗する。
 焦る。
 笑う。
 驚く。
 脳みそがずっと動いている。
 それが妙に楽しかった。
 夜。
 ラウンジで微魔女たちへその話をすると、また笑いが起きた。
「谷村さん、“many many lice”はやばい!」
「シラミ大量発生!」
 みんな腹を抱えて笑っている。
 俺も笑った。
 昔の俺なら、英語の失敗談なんて恥ずかしくて隠していた。
 だが今は違う。
 失敗を笑える。
 それが、自分でも大きな変化だった。
 すると微魔女の一人が言った。
「谷村さん、最初と全然違うよね」
「え?」
「来た時、顔ガチガチだったもん」
 みんなうなずく。
「外国人見ると固まってたし」
「今、普通にしゃべってる」
 俺は少し照れた。
「いや、まだ全然だよ」
「でも、“逃げなくなった”」
 その言葉が胸へ残った。
 逃げなくなった。
 たしかにそうだった。
 英語だけじゃない。
 人生そのものから、少し逃げなくなった気がする。
 普通なら、“守り”へ入る年齢だ。
 失敗しないように。
 怪我しないように。
 恥をかかないように。
 小さくまとまっていく。
 だが今の俺は違った。
 怖い。
 でも前へ行く。
 その感覚を、久しぶりに思い出していた。
 その夜。
 部屋へ戻る途中。
 俺は窓ガラスへ映る自分を見た。
 そこには、少しだけ若返った顔のおやじが立っていた。
第二十章
帰りたくない
 留学終了まで、あと三日。
 その現実が、急に寂しくなってきた。
 最初の頃は、
 ――早く帰りたい。
 本気でそう思っていたのに。
 人間って勝手である。
 朝、食堂へ行く。
 いつものスタッフが笑顔で手を振る。
「Good morning!」
 俺も自然に返す。
「Morning!」
 最初の頃なら、“Good morning”だけで緊張していた。
 今は違う。
 もう反射だった。
 授業中も、以前ほど固まらなくなっていた。
 もちろん、聞き取れないことはまだ多い。
 だが、“分からない状態”を怖がらなくなった。
「Could you say that again?」
 聞き返せる。
「I don’t understand」
 素直に言える。
 それだけで、世界はかなり変わる。
 その日の最後の授業。
 ジェニー先生が少し寂しそうに言った。
「You will go back Japan soon……」
「Yes……」
 俺も少し寂しかった。
 ジェニー先生は笑顔で言った。
「But your English is much better now!」
 俺は苦笑した。
「Really?」
「Yes!」
 先生は指を折りながら言った。
「You speak more」
「You smile more」
「And……you are not afraid now」
 最後の言葉が胸へ刺さった。
“You are not afraid now.”
 怖がっていない。
 たしかにそうだった。
 英語は、まだ下手だ。
 でも、“外国人と話すこと”自体は怖くなくなっていた。
 授業後。
 若い学生たちが寄ってきた。
「谷村さん、帰っちゃうんですね」
「うん」
「なんか寂しいっす」
 その言葉が嬉しかった。
 六十四歳のおやじが、二十代の若者たちと普通に笑っている。
 日本にいた頃には、なかった時間だった。
 夜。
 最後の週末ということで、みんなで食事へ行くことになった。
 韓国料理屋だった。
 焼肉。
 ビール。
 辛い鍋。
 ラウンジ以上に盛り上がる。
 微魔女たちは相変わらず元気だった。
「谷村さん、日本帰ったらどうするの?」
「オンライン英会話続ける」
「えらい!」
「オリンピックもあるし」
 すると若い学生が言った。
「絶対、外国人にモテますよ」
「なんでだよ」
「優しいから」
 俺は少し照れた。
 若い頃なら、そういう言葉を素直に受け取れなかった。
 だが今は違う。
 少しだけ、自分を認められるようになっていた。
 食事の帰り道。
 マニラの夜風が気持ちよかった。
 ネオン。
 ジープニー。
 クラクション。
 この騒がしい街が、少し好きになっている自分がいた。
 その時だった。
 微魔女の一人が笑いながら言った。
「谷村さん、帰る頃には“帰りたくない”って言うって言ったでしょ?」
 俺は苦笑した。
「……ほんとだった」
 みんな笑う。
 だが、その笑い声を聞きながら、俺は少しだけ胸が締めつけられていた。
 この時間は終わる。
 日本へ帰れば、また日常だ。
 散歩。
 スーパー。
 時代劇。
 もちろん、それも大事な人生だ。
 でも――。
 マニラで感じた、この“生きている感じ”を忘れたくなかった。
 ホテルへ戻る途中。
 俺はスマホを開いた。
 待ち受け画面は、ソックスだった。
 黒い顔。
 白い足。
 少し眠そうな目。
 会いたい。
 早く抱きしめたい。
 でも同時に、マニラを離れるのも寂しい。
 その矛盾が、なんだか嬉しかった。
 人は、“帰りたい場所”と“離れたくない場所”が増えると、少し豊かになるのかもしれない。
第二十一章
卒業式
 留学最後の日。
 朝、目が覚めた瞬間。
 最初に思ったのは、
 ――今日で終わりか。
 だった。
 窓の外は、いつものマニラだった。
 クラクション。
 排気ガス。
 暑い空気。
 最初は“異世界”だった景色が、今は少し懐かしく感じる。
 不思議だった。
 たった一か月。
 それなのに、この街が自分の中へ入り込んでいた。
 最後の授業。
 ジェニー先生は少し寂しそうだった。
「Today is final lesson……」
「Yes」
 俺も少し寂しかった。
 最初の頃は、先生の英語がほとんど聞き取れなかった。
 毎回パニックだった。
 だが今は違う。
 全部ではない。
 でも、“会話”になっている。
 それが嬉しかった。
 授業の最後。
 ジェニー先生が紙を差し出した。
 修了証だった。
“Certificate of Completion”
 俺はしばらく、その文字を見つめていた。
 まさかこの年で、“卒業証書”みたいなものを受け取るとは思わなかった。
「Congratulations!」
 先生が拍手する。
 俺は少し照れながら受け取った。
「Thank you……for everything」
 ジェニー先生が笑った。
「Your English will continue growing」
 そして、ゆっくり続けた。
「But more important……」
「?」
「You changed yourself」
 その瞬間。
 胸が熱くなった。
 変わった。
 たしかに、そうかもしれない。
 英語力だけじゃない。
 もっと別の何かが変わった。
 授業後。
 ラウンジで小さな送別会が開かれた。
 若い学生たち。
 微魔女たち。
 先生たち。
 みんな笑っている。
 誰かがビールを持ってきた。
「谷村さん、乾杯しましょう!」
 紙コップが配られる。
 俺は少し照れながら立ち上がった。
「えー……」
 みんなが笑う。
「スピーチ!」
「英語で!」
「無理無理!」
 ラウンジが笑いに包まれる。
 だが、その空気が温かかった。
 俺は少し考えてから、ゆっくり言った。
「I……」
 みんなが静かになる。
「I was afraid of English」
 その瞬間、何人かがうなずいた。
「Very afraid」
 俺は笑った。
「But now……」
 一呼吸置く。
「I like English」
 拍手が起きた。
 微魔女たちまで拍手している。
 俺は少し目が熱くなった。
「Thank you……everyone」
 それだけだった。
 文法も完璧じゃない。
 発音も怪しい。
 でも――。
 ちゃんと、自分の気持ちを伝えられた気がした。
 送別会が終わる頃。
 若い学生が言った。
「谷村さん、また来てくださいよ」
「うん」
「絶対また来ますよね」
 俺は少し笑った。
「……たぶん」
 本当は、もう一度来たいと思っていた。
 マニラ。
 英語。
 この学校。
 ここには、“挑戦している自分”がいた。
 日本では忘れかけていた感覚だった。
 夜。
 荷造りをしながら、俺は少し手を止めた。
 最初に来た時より、荷物が増えている。
 土産。
 ノート。
 折り紙。
 写真。
 そして、思い出。
 窓の外では、マニラの夜景が光っていた。
 俺は静かに思った。
 英語がペラペラになったわけじゃない。
 TOEICも大した点じゃないだろう。
 でも。
 “英語アレルギー”だったおやじが。
 外国人と笑って話している。
 それだけで、十分すごいことだった。
第二十二章
帰国
 帰国の日。
 朝から妙な気分だった。
 嬉しい。
 寂しい。
 その両方が混ざっている。
 日本へ帰れるのは嬉しい。
 ソックスにも会える。
 かみさんの味噌汁も飲める。
 だが同時に、マニラを離れるのが寂しかった。
 たった一か月。
 でも、この街は確実に俺の人生へ入り込んでいた。
 送迎車へ乗り込む。
 学校スタッフたちが手を振る。
「See you again!」
「Don’t forget us!」
 俺は窓を開け、大きく手を振った。
「Thank you!!」
 英語。
 最初は怖かった言葉。
 その英語で、今、自分は別れを惜しんでいる。
 人生って、本当に分からない。
 空港までの道。
 いつもの大渋滞。
 クラクション。
 ジープニー。
 屋台。
 全部が少し愛おしく見えた。
 送迎スタッフが笑う。
「You changed, Shinichi-san」
「え?」
「First day……very nervous」
 俺は吹き出した。
「Yes……very nervous」
「Now, smiling!」
 たしかにそうだった。
 最初の頃の俺は、完全に挙動不審だった。
 外国人を見るだけで緊張。
 英語を聞くと停止。
 まるで壊れたロボットだった。
 だが今は違う。
 もちろん英語は下手だ。
 でも、“人と話すこと”自体は怖くなくなっていた。
 空港へ到着する。
 チェックイン。
 荷物預け。
 出国審査。
 全部、一人でやれた。
 以前の俺なら、かみさんへ全部確認していたと思う。
 だが今回は違う。
 少しだけ、自分に自信がついていた。
 搭乗まで時間があった。
 俺は空港のカフェでコーヒーを飲んだ。
 その時だった。
 隣の席の外国人夫婦が、地図を広げて困っていた。
 以前なら、絶対に見て見ぬふりをしていた。
 英語が怖かったから。
 間違えるのが怖かったから。
 だが今の俺は、自然に立ち上がっていた。
「May I help you?」
 夫婦が顔を上げる。
 少し驚いた顔。
 だがすぐ笑顔になった。
 道を聞いているらしい。
 俺はスマホの地図を使いながら、必死に説明した。
 英語はボロボロだった。
 前置詞もたぶん間違っている。
 でも夫婦は何度もうなずき、
「Thank you!」
 と言ってくれた。
 その瞬間。
 胸の奥が熱くなった。
 俺は気づいた。
 これが、俺が本当に欲しかったものなんだと。
 “完璧な英語”じゃない。
 TOEICの点数でもない。
 外国人と、普通に笑って話せる自分。
 それが欲しかったのだ。
 飛行機へ乗り込む。
 窓の外で、マニラの夜景が遠ざかっていく。
 俺は静かに目を閉じた。
 この一か月。
 本当に色んなことがあった。
 怖かった。
 恥ずかしかった。
 ホームシックにもなった。
 でも――。
 人生で、こんなに“生きている”と感じた時間は久しぶりだった。
 数時間後。
 飛行機は成田空港へ着陸した。
 冬の空気が冷たい。
「寒っ……」
 思わず声が出た。
 周囲の日本人たちが少し笑う。
 その時だった。
 到着ロビーの向こうで、見慣れた姿が手を振っていた。
 緑のコート。
 かみさんだった。
 そして、その足元。
 ソックスが尻尾をちぎれそうなくらい振っている。
「ソックス!」
 俺は思わず駆け寄った。
 ソックスはキャンキャン鳴きながら飛びついてくる。
 顔を舐める。
 尻尾を振る。
 その瞬間。
 胸の奥で、何かがじんわり溶けた。
「おかえり」
 かみさんが笑う。
 俺は少し照れながら言った。
「ただいま」
 その時だった。
 近くで外国人旅行者が困った顔をしていた。
 スマホを見ながら、キョロキョロしている。
 以前の俺なら、絶対に目をそらしていた。
 だが今は違う。
 俺は自然に、その人へ歩み寄っていた。
「May I help you?」
 かみさんが少し驚いた顔をする。
 ソックスが尻尾を振る。
 外国人がホッとした顔で笑った。
 その瞬間。
 俺は静かに思った。
 英語アレルギーだった六十四歳のおやじの人生は。
 まだ、終わっていなかった。
エピローグ
 帰国して半年が過ぎた。
 俺の生活は、以前と少し変わっていた。
 朝。
 ソックスと散歩する。
 田んぼ道を歩く。
 空を見上げる。
 そこまでは同じだ。
 だが今は、イヤホンから英語が流れている。
 以前なら雑音にしか聞こえなかった英語。
 今は少しだけ、“言葉”として聞こえる。
 もちろん全部じゃない。
 ニュースなんて、まだ何を言っているのか分からない。
 だが、“怖く”はなくなった。
 それが大きかった。
 オンライン英会話も続いていた。
 先生たちは、相変わらず明るい。
「Shinichi-san!」
「When will you come back?」
 マニラ時代の先生たちとも、今でも話している。
 以前の俺なら考えられなかった。
 外国人と“日常的に会話する生活”。
 それが今は普通になっていた。
 東京オリンピックのボランティアは、コロナで活動中止になった。
 正直、かなり悔しかった。
 マニラで必死に勉強した。
 怖い思いもした。
 ホームシックにもなった。
 それでも頑張った。
 だから少しだけ、
 ――俺、役に立てるかもしれない。
 そう思っていたのだ。
 だが人生は、思い通りにならない。
 それでも、不思議だった。
 英語を学んだ時間は、無駄にならなかった。
 ある日。
 市の公民館で、“外国人向け日本語ボランティア募集”の張り紙を見つけた。
 俺は、その場で足を止めた。
 以前の俺なら、
 ――無理無理。
 そう思って通り過ぎていただろう。
 だが今は違った。
 気づけば申込書を書いていた。
 初日。
 教室には、いろんな国の人たちがいた。
 ベトナム。
 ネパール。
 フィリピン。
 中国。
 みんな、一生懸命日本語を勉強している。
 片言の日本語で、
「コンビニ、ムズカシイ」
「漢字、ワカラナイ」
 そう言いながら笑っていた。
 その瞬間。
 俺は、マニラの自分を思い出した。
 聞き取れない。
 言葉が出ない。
 間違えて恥ずかしい。
 でも、伝えたい。
 あの気持ちだった。
 俺は、ゆっくり笑いながら言った。
「大丈夫」
「日本人も漢字むずかしいから」
 教室が笑った。
 その瞬間、胸がじんわり熱くなった。
 英語を勉強したことで。
 初めて、“外国語を話す人の気持ち”が分かった気がした。
 今の俺は、相変わらず英語は下手だ。
 発音も悪い。
 文法も怪しい。
 それでも。
 外国人を見ると、自然に声を掛けられるようになった。
「May I help you?」
 以前の俺なら、絶対に言えなかった言葉だ。
 日本語ボランティアを始めてから、俺の生活は少し忙しくなった。
 週に一度、公民館へ通う。
 外国人たちと笑う。
 片言同士で会話する。
 間違えても笑う。
 その時間が、俺は好きだった。
 マニラでの経験が、ようやく日本で繋がり始めていた。
 そして、ソックスも年を取っていた。
 白い毛が増えた。
 散歩も少しゆっくりになった。
 階段を嫌がるようになった。
 それでも、俺がリードを持つと嬉しそうに尻尾を振る。
 冬の朝。
 俺たちは、相変わらず田んぼ道を歩いた。
 吐く息が白い。
 ソックスは寒いのが嫌いなのに、外へ出ると楽しそうだった。
 俺は時々、話しかけた。
「マニラ、暑かったぞ」
 ソックスはもちろん返事をしない。
 だが、ちゃんと聞いている顔をする。
 俺は、そんな時間が好きだった。
 六十九歳の夏。
 ソックスは急に弱った。
 食欲が落ちた。
 歩くのも遅くなった。
 病院の待合室で、俺はソックスを抱いていた。
 小さくなった。
 あんなに元気だったのに。
 獣医が静かに言った。
「年齢的にも……」
 その先は、あまり聞こえなかった。
 帰宅後。
 ソックスは俺の布団で眠った。
 マニラへ行く前、不安そうにキャリーケースを見ていた顔を思い出す。
 成田から帰った時、尻尾を振って飛びついてきた姿も。
 色んな思い出が、一気に押し寄せてきた。
 夜中。
 ソックスが小さく鳴いた。
 俺は慌てて起き上がった。
「ソックス?」
 頭を撫でる。
 ソックスは静かに俺を見た。
 その目が、妙に優しかった。
 かみさんも起きた。
 二人で、ずっと頭を撫でていた。
 そして――。
 ソックスは、静かに息を引き取った。
 まるで眠るみたいだった。
 部屋が静かになった。
 俺はしばらく動けなかった。
 涙が止まらない。
 60を過ぎた男が、声を上げて泣いていた。
 かみさんも泣いていた。
「いっぱい頑張ったね……」
 その声を聞きながら、俺はソックスの頭を撫で続けた。
 温かさが、少しずつ消えていく。
 それがつらかった。
 しばらくして。
 俺は一人で散歩道を歩いた。
 隣にソックスはいない。
 リードもない。
 田んぼ道だけが、静かに続いている。
 その時だった。
 ふと、マニラのことを思い出した。
 怖かった英語。
 外国人へ声を掛けられなかった自分。
 そして、六十四歳で飛び込んだ留学。
 あの挑戦を、ずっと支えてくれていたのは――。
 帰る場所があったからだ。
 ソックス。
 かみさん。
 いつもの家。
 それがあったから、俺は外へ出られた。
 スマホには、今でもマニラの先生たちから連絡が来る。
「How are you?」
「Come back Manila!」
 俺は笑いながら返事をする。
「I’m fine」
 英語は、今でも下手だ。
 発音も悪い。
 文法も怪しい。
 それでも、もう怖くない。
 ソックスが教えてくれた。
 言葉より大事なのは、
 “そばにいたい”
 という気持ちなのだと。
 夕暮れの田んぼ道。
 風が吹く。
 俺は空を見上げながら、小さく笑った。
「なあ、ソックス」
 英語アレルギーだったおやじの人生。
 なかなか、悪くなかったよ。
プロフィール
著者  岩宗 繁樹(いわむね しげき)
埼玉県さいたま市岩槻区在住
職歴  積水ハウス株式会社
     株式会社ライフステージらしく 代表
著書 
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