タイ編19. 全財産250バーツ。トゥクトゥクの運ちゃんが見せた不器用な優しさ。|7日目 中編
手元に残ったお金を数えて、僕は固まった。
空港使用料を引くと、250バーツ(約750円)しかない。
雨も降っている。タクシーに乗るには最低500バーツは必要だ。
「この金額じゃ無理だ」と断られ続けた、雨のバンコクの夜の話。
日記:2002年8月24日 ラン島〜バンコク、夕方。
ラン島のビーチでパラソルを借りて、溜まっていた日記を書きながら、うとうとする。
斜め前では、日本人の年配男性が、タイ人の売り子に「外国人なまり風の日本語」で話しかけていた。「コレイクラデスカ〜?」「ニホンハー、フケイキダカラ〜」
……いや、日本語じゃ通じないだろと心の中でツッコむ。
でも、そのおじさんがカモになってくれたおかげで、僕は売り子の勧誘に邪魔されず、のんびりとした時間を過ごせた。
印象的だったのは、売り子のおばさんのセリフだ。
「ワタシ、ショウバイ、イッポンハダ」
…一本派だ? …一本肌?
その不思議な日本語だけが、波音と共に妙に頭に残った。
夕方、塩風でベタベタの体のまま、バンコクへ戻る。
ファランポーン駅のTATに寄り、またいつものように水をいただく。彼らの笑顔も、もう見納めだ。当たり前だと思っていた親切が、急に尊く思えて「またいつか来よう」と心に誓った。
最後の買い物にと、再びカオサン通りへ。
お土産を買い込み、いざ空港へ!
……というところで事件発生。
空港使用料を引くと、手元には250バーツしかない。雨も降っている。タクシーに乗るには最低500バーツは必要だ。
「この金額じゃ無理だ!」
と断られ続けていると、数台のトゥクトゥクが集まってきて、運転手たちが何やら話し合いを始めた。
そして、一人の運ちゃんがハズレクジを引いたような顔で、「乗れよ」と顎をしゃくった。
土砂降りの雨の中、トゥクトゥクで空港へ向かう客なんて他にいない。
スピードメーターもなく、ガソリンゲージだけが揺れる小さな三輪車。
猛スピードの乱暴な運転と、鼻を突く排気ガスの匂い。
「ああ、これが最後なんだな」
不器用な優しさで僕らを運んでくれる運ちゃんの背中が、雨の中で最高にカッコよく見えた。
44歳の今、振り返って。
「ショウバイ、イッポンハダ」のおばさんも、赤字覚悟の運ちゃんも、どこか潔かった。
自分の利益を超えて、目の前の人間と真剣に向き合う。そんなタイの人々の強さが、この旅を通じて僕の心に深く刻まれた。
【ラッセル:『幸福論』より】
「幸福の秘訣は、自分の興味をできるだけ広くし、反応をできるだけ友好的にすることだ」
全財産でもたりない僕を乗せてくれた運転手さんは、商売としては「負け」だったかもしれない。でも彼は、目の前の人間を助けるという「友好的な反応」を選んだ。その瞬間、お金では買えない特別な繋がりが生まれた気がした。
【ヒルティ:『幸福論』より】
「愛とは、自分自身のことを忘れて、他人の必要に応じることである」
計算ではない「人の情け」。それがどれだけ人の心を動かすか、あの雨の夜に体で覚えた。
次回は「7日目 後編」、タイ旅行・完結編。
日本に着いた瞬間、思わず「Sorry」と言いかけた日の話。
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