現代に生きる渋沢栄一_■5〈国政への批判〉(全17)
平成二四年十月二六日(金)リーガロイヤルホテル
第五回石門心学講演会
公益財団法人 渋沢栄一記念財団 渋沢史料館
館長 井上 潤 氏
石門心学文集(三)「こころをみがく」2013年発刊より抜粋
■5〈国政への批判〉
当時の警察権力から目をつけられた渋沢は、しばらく身を隠すため、喜作とともに伊勢参宮を名目に旅に出ます。そして京都に辿り着き、徳川御三家の一家である一橋家の側用人の平岡円四郎を訪ねます。
平岡は、渋沢が江戸に遊学していた時から、非常に優秀な人物であると目をかけ、一橋家への仕官を勧めていましたが、渋沢は武士身分になることに抵抗があり、断り続けていました。
しかし、いざ自分が根なし草のような立場になってみると、体制の中で生き長らえていこうにも、生活すらできません。
そこで、少し思想の転換を図り、今一度、平岡に頼んで当主の慶喜の許しを得て、元治元年(一八六四)、一橋家の家臣になります。
慶喜、後の徳川慶喜は、京都御所にいる天皇を警備する「禁裏御守衛総督」という役割を担っていました。慶喜は家を増強するため、用地内から農兵を募集して来るよう渋沢に命じます。
渋沢は現在の岡山、兵庫、関東一円の村々を歩き、困難も乗り越えて、何とかうまく農兵を集めてきます。
単に与えられた役割を全うするだけなら他の人と変わりませんが、渋沢は各地を回る際に、色んな情報を収集してきます。
例えば、播磨の国は木綿が非常に多く採れる地域でした。しかし、一橋領地内では、それぞれの農家が直接大阪へ行って商人と取引するので、安く買い叩かれることもあり、なかなか領地内の財政が潤うところまでいきません。
栽培も各農家に任せきりで、生産量も上がりません。一方、隣の姫路藩では、藩が各農家から収穫を集めて売る一定のルートを確立しています。渋沢は、一橋家もそれに倣って政策を立てることを慶喜に進言します。
渋沢は、領地内で通用する藩札の発行も提案します。
また、領地内では非常に質のいい米がとれるので、江戸に流すのではなく、領地内に数多くいる西宮や灘などの酒造家に売れば、財政が潤うのではないかと考えます。
火薬の素になる硝石も多くとれたので、商品化して藩の財政を潤すように、製造の工程まで示して進言します。こうして渋沢は、一橋家の中にあっても、優秀な人材として重んじられるようになっていきます。
6〈使節団での渡欧体験〉●インフラの重要性を知る につづく
