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 「昔の老人」と「今の老人」

 「昔の老人」と「今の老人」


「昔の老人」と「今の老人」は、肉体的な加齢のプロセスこそ同じだが、その内実は全く異なる生き物である。私たちが漠然と抱いている「老人」のイメージ——思慮深く、酸いも甘いも噛み分け、共同体の行く末を静かに見守る智者——は、かつての農村型、すなわち「稲作共同体」が育んだ「長老」の姿である。それに対して、いま街に溢れる現代の老人たちは、そうした土着の知恵を継承した長老などでは決してない。彼らはただ、高度経済成長期という巨大なマシーンの歯車として最適化され、そのまま老化しただけの「産業社会人」に過ぎない。この残酷なまでの構造的変化を理解しないまま、現代の老人に「長老」としての振る舞いや風格を期待することは、お互いにとって不幸なミスマッチを生むだけである。
かつての共同体において、老人は生存に直結する生きたデータベースだった。天候のわずかな変化を読み取り、治水や土木の歴史を記憶し、種蒔きの最適な時期を判断する。文字やシステムに依存しないローカルな知恵は、長年その土地で生きてきた者にしか蓄積されず、若者にとって老人の言葉は文字通り「サバイバル(生存)のためのライフライン」だった。だからこそ、若者は老人に敬意を払い、老人は共同体の存続と調和に責任を持つという、確固たるギブ・アンド・テイクの「敬老」が成立していた。
しかし、現代の「産業社会人」としての老人が抱える知識はどうだろうか。彼らが現役時代に命を削って培った専門知や手続きは、その大半が社内政治の力学や、特定の組織内でのみ通用するマナー、あるいはファックスの送り方といった、システム依存の一時的なルールである。技術のパラダイムシフトが激しい現代において、これらの知識は退職した瞬間に凄まじい速度で陳腐化し、社会のゴミ箱へと消え去る。生命を維持するための知恵ではなく、ただの「マシーンの操作マニュアル」しか持たない彼らは、システムから切り離された瞬間、自律して生きる術を失ってしまうのである。
結果として、現代の老人は「与える者(長老)」ではなく、徹底的な「消費者・受益者」のポジションに置かれる。年金、医療、介護といった精緻な国家システムに生命線を握られ、若者世代からのリソース移転を一方的に享受する立場だ。かつてのように、若者に自らの知恵や資源を「分け与え、導く」という責任を負う必要もなければ、その能力もない。それどころか、かつての企業社会で得ていた「肩書きによる承認」を失った喪失感を埋めるため、公共の場や、自律性のない自治会といった狭い世界で「かつての上下関係」を無意識に再現しようと暴走する。駅や店舗で理不尽に激昂するクレーマーの姿は、産業社会の機能から排除された者が、自らの存在証明を求めてあがく歪んだ残響なのだろう。
私たちはいい加減、彼らを「長老」として祀り上げる幻想を捨てるべきだ。彼らは豊かな大自然や長い歴史をサバイブしてきた智者ではない。高度成長期という、世界でも稀に見る「右肩上がりの奇跡的なシステム」の中で、自らの個性を消して従順に働き、そのシステムの恩恵を最大限に受けて逃げ切ろうとしている、ただの「元・サラリーマン」であり「元・労働者」なのだ。彼らに大局的な視点や、若者への利他的な配慮を期待するのは、構造的に酷というものである。彼らのことを「システムを引退した同胞」として、良くも悪くもドライに、そしてフラットに見つめ直すこと。それこそが、過剰な期待から生じる世代間の憎悪を和らげる、唯一の現実的なアプローチなのである。

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