愚者からの手紙pt18「目の下に非ず」
自分の起こした事件が、自分以外の人間にどの様な影響を及ぼしてしまったのか。
今まで、このことについてあれこれと考えてきたのだけど、最近になって「もしかすると、“根本”を見つめ直してみるべきなのかもしれない」と、そんな風に感じることが増えた。
「考えるのをやめる」とか、そういうことではない。ただ、「自分の犯した罪によって苦しめられている相手方の心を理解しようとする」といった“起点”に疑問を抱いている自分がいて、それをこのまま無視して良い(そうすることが正しい)とも思えないのだ。
こんな言い方をすると石が飛んできそうだけど、結論だけ言えば、僕が「自分の事件で影響を与えてしまった相手の心情」を“自分のもの”として実感するなんて、当たり前に不可能なのだろう。
この見方が良いか悪いか以前に、それが現実であるということは変えられない。
僕は”僕の目線“でしか相手の気持ちを計れず、どこまで考えてもそれは「類推」でしかなく、何を言っても「共感」や「知ったか振り」の内側からは出られない。
そんな現実を目の当たりにする度、「果たして、この個人的な想像を追求した先に”罪の意識が特別な形で“存在し続けられるのだろうか」だとか「装いを続けていれば、いつかそれを理解と呼べる様になるのだろうか」といった具合に違和を感じ、首を傾げずにはいられなくなる。
だから「仮に石を投げられたとして、それを恐れて現実から目を逸らしてはいけない」というか、「石をぶつけられてもかまわないから、現実の厳しさに向き合うべきだ」と考え、そんな自分を否定しようとも思えない。
僕に殺されかけた被害者方の”いま“を想像して「きっとあんなことを感じていて、こんな生活をしているのだろう」と訳知り顔をしてみたり、順番待ちの「氏名欄」に偽の苗字を記入しているといった話を聞いて、「僕の家族はこれぐらい苦しんでいるのだろう」なんて安易な憶測を立てる。
考えれば考える程、そうした行為の実が「幼稚で浅はかな自己満足」でしかなかったのではないかと、そんな風に思えてならないのだ。
もちろん、これは僕の主観以外の何でもないし、あるいは偏見ともともとれる観念なのかもしれない。とはいえ「この私意が”相手の心情を理解して(できて)いると勘違いしてしまわない程度“には機能している」と言えるのも事実であって。
「知ったか振る」か「自分の無力さを認める」かのどちらを選ぶかと問われれば、悩むまでもない(僕の場合は)。
相手の実情を理解することはできないと知った上で、相手の心を理解できる様に考える。
この「永遠に答えの出ない逆説」と向き合い続けていくことは、僕の中にある「償いの本質」から切り離せない。いや、切り離すことが許されない責任なのだろう。
なぜなら、たとえ後悔や反省をしていても、軸にあるのが「もしも自分が同じ目に遭ったとしたら」なんて”たかが個人的な空想“でしかない状態を見てみれば、それを「現実的である」と言うことは到底できてないのだから。
他者の実情やそこに生まれる心を知った風に振舞い、相手を理解した気になる。
汚れたものの影に水をかけられてみても、汚れは落ちない。それどころか、時間が経った毎に汚さは累積されていくはずなのに、加害者がそんな自己完結をして良いわけがな
い。
どうして僕の罪が「一生償うべきものであるのか」と自問した時、自分の犯した罪とは「凡そ一人では処理し切れない現実」であり「他者に及ぼした影響を”実感する“ことが不可能な無責任さ」であり、「しかしそれらの現実について考え、行動していかなければならない責任」であるからだと表現すれば、今までよりかは腑に落ちる。
地面に額を打ちつけても、自分のなかで「償い」と思える行動をしていても、どれだけ自分自身の愚かさを自覚して相手の心中を推し量ってみても、やはり所詮は「個人的見解」に過ぎず、「誰にでも出来ること」のひとつでしかない訳で。
意味が無いとは思わない。
むしろ「私意的にも反省し続けるべきだ」と思うし、今でも僕は被害者感情についての”類推“を続けている。しかし、それは「要因」であって「要諦」とまでは言えない。
それだけ”だけ“で「自分の出所する意義」が生まれるとも思えない。
個人的な反省をするだけなら、別に塀の外に出す必要もないというか、一人だけの価値観で罪と向き合う(向き合える)つもりでいるのなら、ずっと一人で居れば良いのだ。
「刑務所に収容されている時点で、もう”自分一人“では何も解決できていない」という現実から目を逸らし続けて。
衣食も住も”他者“に賄われている環境でそんな勘違いに浸れる様な奴は、人間の屑だ。「人間の屑だった僕」が言うのだから、このことに間違いない。
そして自分を「屑」から「端くれ」だと思える様にしてくれた人達の為にも、僕は「普通」を目指して現実を歩いていかなければならない。当然、先に述べた類の人間に戻ることを、自身に許容してはいけないのだ。絶対に。
加害者には「加害者だからこそ背負うべき業があって、けれどもそこに「私意が含まれていたとしても、恣意的なものであってはならない」という前提条件がある。
僕の尺度だけで罪について考えたり、影響を及ぼしてしまった相手の数や心を想定したり、その程度で償える過ちなら、一体どの辺りが「一生を懸けて」なのか。
そういった”問い“を立てる度に、自分が犯した罪の重さを実感できる。逆を言えば、「そうしていないと罪の重さについて考えられない程度の人間」なのだと思う、僕は。
「他者に与えている苦痛を測り、仮定する」のか「他者に与えてる苦痛が”想像する“ことしかできない程度に重く、深いものであるという現実を直視する」のかなんて、考えるまでもない。しかし、その「考えるまでもないこと」に気がつけるまでに何年も時間をつかい、行動し、失敗してきたのが僕という人間な訳で。自分の中にある常識と向かい合うと、沸々と恐怖がこみ上げてくる。
けれど、その「自分の見ていた常識」との乖離は、間違いなく、僕の犯した過ちの大きさを語っているのだ。
令和八年七月十八日 囚人A
