愚者からの手紙pt17「前略、半年前の君へ」
「あの人は天才だ」とか、
「持っている才能が違う」だとか、
そういう諦め(言葉のつかい方)が嫌いだ。「努力している」か「努力が足りていない」かで分類しようとすふ考え方にも、興味が湧かない。
エジソンが残した言葉と半年くらい向き合っていたら、いつの間にかそんな風になっていた。そしてそんな風になってしまってから、
努力の過不足の基準値ってなに?
才能が有るか無いかの境界線ってどこ?
と過去の自分に聞いてみたくなり、今こうして届くはずもない手紙を書いている。
1人として同じではないはずなのに、どうして君は「他人」を物差しにして「自分」の才能(努力)を計り続けていたのだろう。
展開とは1%の閃きと
99%の努力である。
半年前までの君は、この言葉を
「天才になる為には努力が必要なんだ」
「努力していれば、いつか報われるんだ」
と捉えて生きていたよね。
確かに、物事に向き合う姿勢次第で結果は大きく変わるし、その過程を通して「努力」を知れなかった人は成長もしない。
とはいえ、考えてみれば「報われない努力」なんてものはザラにある訳で、結果に反映されるのは「努力」よりも「環境」であることの方が多い。自然の気紛れとか、時世の流れとか、努力というのは割と簡単に踏みつぶされてしまうものだ。
世の中を動かしているのが自分だけではない以上、その辺りを「仕方がない」と割り切れる力も必要なのだと思う。
それに、「やりたいことが見つかって必死に努力したのに上手くいかない時」第一条件に“努力”や“才能”を置いてしまっていたら、「才能が無い」「努力不足」といった悲観的な答えしか残されていない、なんて事態を招きかねない。
そもそも、「やりたい(好きだ)」と思えることを“やれるようになる”あるいは“やれる決心をする”までの間に、君はどれだけの“今できる限界”に歯噛みして乗り越えてきたのかって話で。
「努力不足」なんて、そんな一言で片付けられるはずがない。かといって、そこで「才能が無かった」と認めてしまうのなら、これから自分はどこに(なに)を目指していけばいいのだろうかと、想像しただけで具合が悪くなってくる。
転んで、痛い思いをして、それで別のところに才能を見いだせる場合もある。けれど「そこから全員がもう一度立ち上げれるのか」という話になれば、決して(少なくとも僕は)頷くことはできない。
「努力は報われる」
「努力すれば才能は開花する」
走り続けている間は背中を押してくれる言葉(考え方)でも、その勢いが強ければ強いほど、転んだ時の怪我を重くしたりもする。
倒れた自分にとって立ち上がれないほどの強風になるのなら、「追い風」も「その場凌ぎの詭弁」でしかないのではないか。
なんて疑問を覚えたから、僕は「1%の閃き」の方に焦点をあててみようと思った。
「いや、1%の閃きってなんなの?」
君はそう言うかもしれないし、僕もそう思った。だからまず、「閃き」の前提条件をひとつだけ思い浮かべてみた訳なのだけど。
前提として、「閃き」とは“未知”だ。
自分の中に無かった発想(概念)を前にした時、そこに「なんだ、これは」といった疑問(驚き)が生まれる。その先にあるのは「興味」かもしれないし「嫌悪」かもしれない。
どちらにせよ、時間が進むと「疑問」に「希望」や「不安」「活用」「打算」などの“かなり私的な感情”が介入し、どのようにして目の前の未知を口に入れるべきかと思案し始める。
咀嚼している内に、自分の人生に取入れるべきものと相容れないものとを分別していく。最終的な取捨選択に至るまでの過程でもまた、自分は一体“自分のどこ(なに)を元に”それを見つめているのだろうかなどと、更なる疑問を覚える。
そうして物事と自分との間に生まれていく分岐を辿っていたら、
「もしかして、全ての人は“天才”と呼べるのではないか」なんて着想が頭を掠めた。
考え過ぎて訳が分からなくなった訳ではない(というか、考えていない時から僕は訳の分からない人間だ)。
なんとなく「世の中に1%しかないものの源泉」が「個性」なのではないかと“閃いた”のだ。
たとえば葛飾北斎は天才だ。
ドストエフスキーも、天才だ。
それは本物の『富嶽三十六景』は葛飾北斎にしか描けなくて、『カラマーゾフの兄弟』もドストエフスキーにしか書けないからに他ならない。真似ることは出来ても、その発想を君のものにするなんて、到底不可能な話。二人とも、世界に一人しかいないのだから。
なら“世界に一人しかいない”のは、この二人だけなのだろうか。もちろん、そんなことはない。行きつけの美容室の店員も、向かいの部屋で生活している長澤くんも、母も兄も、そして君も、この世に一人だけしか存在していない。
誰かが君になることもまた、不可能な話なのだ。
君になりたいと思う人がいるかいないかは置いておいて、君には「君からしか生み出せない絵や文章(発想)」や「君にしかとれない責任」があるという事実に目を向けてみてほしい。良し悪しも別にして、性格も考え方も、字の書き方も口調も誰とも違うという、ただそれだけを見つめてみてほしい。
「凡人」だ「天才」だ「努力」だなんだと言う前に、自分(他者)にしかない“それだけ”をどう捉えるべきか。そうやって分岐を辿ってみたら、僕の場合は「個性」という源泉が湧き出てきたという、それだけの話だ。
思い返してみれば、自分は一人だけ(それだけ)しか存在していない他者(個性)と出会い、関わり、気付かされてきた(いる)ではないか。
半年後の君は、今、そんな風に考えている訳で、「閃き」とは「未知」で「身近な未知」とは「他者」で「他者」とは「個性」で「個性」とは「閃き」を与えてくれて「閃き」とは、、、なんて思い込みを周回しているのだ。
ちなみに、エジソンの言葉
Genius is 1percent inspiration and 99percent perspiiation.
を直訳するのなら、
「天才とは1%の霊感と、99%の発汗」だ。
どうして「閃き」と「努力」に訳したのか、僕は知らない。読者にとってはその方が腑に落ちたのかもしれないし、誰が見ても解り易い言葉を選んだだけなのかもしれない。
なんであれ、その人は「閃き」と「努力」を、僕は「個性」と「探究」を当て嵌めた。これは僕の偏見なのかもしれないが、時代を超えて心を繋ぐ言葉にはいつも「自分なりの定義」を落とし込める余白が残されている気がしてならない。
裏を返せば(裏を返しても僕の偏見であることに変わりはないけれど)、言葉に対して生まれた“誰かの解釈”を鵜呑みにしている内は、自分の発するその言葉は無価値である可能性が高いということになる。
別に僕は「天才」と呼ばれたい訳でもなければ、自分をそうだと思いたい訳でもない。単純に、自分の周りに居てくれる人達が持っている個性の素晴らしさについて、僕の言葉で語れるようになりたいのだ。
「あなたが“あなたとして”僕と接してくれるから、僕も“僕で”在れる。」
そう伝えた時に自分なりの根拠を示せなければ、言葉はいつまでも空虚なままだ。
歴史に残る偉業を成し遂げた人を「天才」と呼ぶのなら、あなたは「僕」という歴史において、間違いなく「天才」である。
たとえ数十年で幕を閉じる歴史であってもこの事実に変わりはないのだから、君はまず“目の前の天才たち”野目を見るべきだ。もしかしなくても、全ての人は本来ならば「天才」と呼べるのだ。
今の君は、そんな偏りを見つめているよ。
令和八年六月十二日 囚人A
