愚者からの手紙pt11「本質を添える」
目が覚めて、天井を見つめる。
鳥の鳴声や雨音に耳を傾けながら、窓の外に目を向ける。
鉄格子の奥、二重窓から流れ込む季節の香りに目を閉じ、坊主頭を撫でて寝癖を懐かしんでは苦笑する。
小机の上に並べた食事に手を合わせ、味を感じる。
なぜ、毎日を五感で感じているにも関わらず自分が五体満足であるということを忘れてしまうのか。昨日までの日々の中に忘れてきてしまった“有り難さ”というのは、どれだけ振返り、手を伸ばしたとしても取り戻すことはできないはずなのに。
「ありがとう、ありがとう」って、一体なにに対して(どういった意味で)の“ありがとう”なのだろう。
ふと、そんなことを思った。
感謝と無縁な生き方をしてきたなんてことはなく、自分の周りに居てくれる人達には事ある毎に「ありがとう」と声に出して伝えてきた。感謝の気持を言葉にして、頭の中でも“自分が何に感謝しているのか”を確かに理解していた。
けれども、それは“自分目線での話”でしかなかったのだと、最近ではつくづくそう思う。というのも、“相手がどう捉えるか”よりも“自分はこう感じた”に重点を置きすぎている「ありがとう」に込められた思いというのは、所詮は自分にしか届いていない、煩いものでしかないのかもしれないと考える様になったからだ。
とはいえ、飽く迄も感謝は“自分の感動”を伝えるものでなくては成立しない。感謝を伝える度に受け手の捉え方ばかり気にしていれば、それは御機嫌取りに成り下がる。
そこで、僕は「ありがとう」の前後に自分の気持(感動)を添えることにした。
「◯◯してくれて助かったよ、ありがとう」
「ありがとう、お陰で△△する時間ができた」などと相手の行動の“どこに”自分は“なに”を感じ、その出来事を通して“どの様な”影響が生まれたのかを、できるだけきちんと言葉にして“添える”。
これは、至極“当り前”のことなのだろうけれど、“有り難さ”は当然ではない。
自分が誰かに感謝を伝えることができる日常には、必ずその有り難さを教えてくれる相手が存在している訳で、決してその“絶体条件”を忘れてはいけないのだと思う。
だから僕は「ありがとう」を主張するのではなく、相手の行動から生まれた感動を「ありがとう」に添えることにした。
文章を書きながら、読者さんから想像していた以上の反応を貰えていることに驚き、感動している。これは、本当に有り難いことだ。kosmos482さんが「気持を言葉にするとこうなるのか」と言葉にしてくれたから“自分の心を言葉にすることで表現の壁を崩す役に立てている”と感じることができたし、ユニコさんやLaLaLaさんが「あの部分を読んでこう思った」と教えてくれたから“自分の言葉はそう受取ってもらえたのか”と気付くことができた。
「投稿を待っている」と言ってくれる読者さんが居てくれるから“もっと書こう”と思え、さくら餅さんが自分の思いや感じたことを、時間を掛けて綴ってくれくれているから“人と人との対話から生まれるもの”が「概念」ではなく「事実」として可視化され、その深みを残せているのだと思う。
他にも多くの言葉を貰っていて、その全てを書くことはできていないのだけど、読者さんが“感じたことの根底”を表現してくれているからこそ、互いにその思いを正しく、思索しながら受取ることができているのだと、僕はそう考えている。
もちろんハチ(『独房の哲学』を管理してくれている友人)が居なければ、僕は読者さんと出会うことすらできていなかった訳で。
そうやって捉えていくと、自分と他者との関係はそのひとつひとつが“瞬間的な有り難さの連鎖”で形作られているのだと感じずにはいられない。
“無償の思い”は確かに存在していて、その思いに応えられるのは“純然たる感動”だけ。
その“純然たる感動”の表し方は人それぞれで、笑わせることやご飯を作ってあげることであったり、金銭の援助や名誉を与えることであったりと、そこには正解も間違いもない。強いて是非をつけるのなら、全て正解だ。
ただ、“それだけ(行為)”ではやはり“主張”でしかなくて、心の本質まで伝えられているとは限らない。
だからこそわ感謝を伝える上では“行動の根源”を明らかにすることも大切で、有り難うという言葉でそれを表現するのだと思う。
感動を言葉として添えることで、その素晴らしさは何倍もの価値を持って相手に届く。
何も言わずに贈り物だけを置いて帰るのも恰好良いとは思うし、正直やってみたい。だけど、そこで相手の顔を見て感動を伝えられたのなら、きっとそれ以上の幸せを生み出せるはずだ。
明日また会える保証なんてない。
それなら、僕は“粋”よりも“人間臭さ”を大切にしたい。
そして、感謝というのは他者だけではなく自分にも向けるべきだ。
僕は、冒頭で書いた様な思い(疑問)を抱ける自分に、当然という有り難さを感じられ自分に、一日一回を生きている自分に、深く感謝する。
今日を生きられている自分に感謝してみると、今日を支えてくれている他者や物事の有り難味を理解することができる。
「今日も一日、生きていてくれて有り難う」と自分に感謝して眠りにつけば、朝がくることも有り難いと思える。
“慣れ”で昨日と今日の区別を無くしてしまわない様に、今日も有り難さを噛み締める。
令和七年十月十三日 囚人A
