敗者の系譜 ― 福井から会津、そして北海道へ。
もし、あなたの家の墓に、
意味深な古い小さな石が
当たり前のように並べられていたら、
どう思うだろう。
それは墓石ではない。
名前も刻まれていない。
ただ、苔むした縦長の石が
静かにそこに立っている。
なぜそこにあるのか、
いつからあるのか、
誰もはっきりとは知らない。
けれど家には、こんな話が残っている。
「先祖が福井から持ってきた」
「幕末に京都にいた」
「会津と関係があったらしい」
やがて戦争が終わり、
家は北へ移った。
会津。
斗南。
そして北海道へ。
これは、歴史の表には残らなかった
敗者の物語である。
京都から始まる物語
幕末の京都は、日本で一番危険な都市だった。
尊王攘夷派、幕府側、各藩の武士、浪士。
さまざまな勢力が入り乱れ、夜ごと暗殺や戦闘が起きていた。
その治安を任されていたのが
会津藩主 松平容保 だった。
京都守護職として、会津藩は京都の秩序を守る役割を担う。その周囲には多くの武士や剣客が集まった。
有名なのは 新選組 だが、
実際にはそれ以外にも多くの剣士や浪人が活動していた。
彼らの中には、表の隊士ではなく
密命を帯びた人物もいたと言われる。
油小路の夜
1867年。
京都で一つの大きな衝突が起きる。
油小路事件
新選組と、そこから分裂した御陵衛士の戦いだった。
この事件は、
幕末京都の剣士たちが直接刃を交えた
最後の大きな戦闘の一つと言われている。
この時代の京都には、
新選組側
御陵衛士
会津関係者
他藩の剣客
など、さまざまな武士が関わっていた。
そのため、後の時代に
「どちらにも関わった人物」が伝承に残ることもある。
戦争と敗北
翌年、日本は内戦に入る。
戊辰戦争
そして会津は、激しい戦場となる。
会津戦争
この戦いで、会津は敗北する。
多くの武士が命を落とし、
生き残った者たちは厳しい処分を受けた。
斗南という流刑地
敗れた会津の武士たちは
青森北部に移される。
それが
斗南藩
だった。
寒冷で、土地もやせている。
米も十分に育たない。
当時、日本一貧しい藩だった。
会津の武士たちは
そこで貧困と寒さに苦しんだ。
北へ
やがて明治になると、
さらに北へ移住する人たちが現れる。
北海道だ。
新しい土地で
彼らは
開拓者
警察官
官吏
として生き直していく。
武士だった家が
静かに新しい社会に溶けていった。
失われる名前
この過程で、あることが起きる。
家の歴史から
一部の人物が消える。
理由はさまざまだ。
敗軍側だった
脱藩していた
密命を帯びていた
政治的に不利だった
明治の時代、
敗者の記録は残りにくかった。
そのため家系図には
別の祖先の名前が残ることもある。
それでも残るもの
名前は消えても、
家の記憶は別の形で残る。
例えば
家紋
刀
古い石
墓の配置
家風
それらは言葉より長く残る。
ある家では
丸に梅鉢
の家紋が伝わり、
別の家では
丸に五三桐
が分家の紋として残る。
福井から持ってきたという
縦長の石が、墓の横に置かれている家もある。
それは
故郷を忘れないための象徴かもしれない。
家風として残るもの
もう一つ残るものがある。
それは、性格や価値観だ。
寡黙
正義感が強い
曲がったことが嫌い
剣が強かったという伝承
こうした家風は、
何世代も経て受け継がれることがある。
水と禊ぎ
そして時々、子孫の誰かが
ある感覚を思い出す。
滝や川の前に立ったとき、
静かで透明な感覚が訪れる。
それは
日本の古い精神文化で言う
禊
に近いものかもしれない。
余計なものが流れ、
本来の自分に戻る感覚。
敗者の歴史
歴史は、
そうやって静かに受け継がれていく。
歴史は、勝者の側から語られることが多い。
けれど、もちろん、
敗れた側の家にも物語がある。
名前が消された祖先。
失われた刀。
どこから来たのかわからない石。
それでも、何かは残る。
家紋。
土地の記憶。
そして、家に伝わる静かな気配。
そして時々、
子孫の誰かがそれに気づく。
それを拾う。
福井から京都へ。
会津から斗南へ。
そして北海道へ。
北へ流れたその歴史は、
今も静かに続いている。
名前は消えても、
石や水や家紋の中に、
その記憶は静かに残っている。
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