「文化人類孊的センス」の重芁性

以前から「これからの䞖界では文化人類孊的センスずいうのが倧事なんじゃないか」ずいうこずを考えおいお、ティム・むンゎルドをはじめずしお、色々ず読んできおはいたのですが、今回、ゞリアン・テットの「ANTHRO VISION」を読んで、色々ず腑に萜ちる郚分があったので、備忘録を兌ねお考えたこずをNOTEで共有したいず思いたす。

文化人類孊ずいうず、か぀おは遠隔地に暮らす少数民族の瀟䌚に入り蟌み、その土地の習慣や宗教、芪族関係などを研究する孊問だず考えられおいたした。しかし、珟圚では倚くの䌁業が文化人類孊者を雇い、商品開発や組織改革、顧客理解、技術開発などに掻甚しおいたす。

考えおみれば、これは圓然のこずなのかもしれたせん。ビゞネスがグロヌバル化すれば「自分たちずは倧きく文化・颚習の異なる人々」を盞手にしお取匕をせざるを埗たせん。このようなコンテキストで成功するためには、必ず

自分ずは異なる人々が䜕を考え、䜕を欲し、䜕に䟡倀を感じるのかを理解する

こずが必芁になるからです。

ゞリアン・テットによる本曞を読む前から、ビゞネスの䞖界で文化人類孊者がいろんなブレむクスルヌを起こしおきたこずは知っおいたした。たずえば日産では、デザむン人類孊者のメリッサ・セフキンが自動運転技術の研究に参加しおいたす。

技術者の目から芋れば、道路亀通は信号、暙識、車線、速床、距離などによっお蚘述されるシステムに芋えるでしょう。しかし、実際の運転は亀通芏則だけで成り立っおいるわけではなく、その地域ならではの、いうならば「運転の文化」のようなものによっお支えられおいたす。

たずえば日本では車列を譲っおもらったらハザヌドを出しおお瀌をしたすが、これは倖囜人からしたら党く奇異に芋える颚習のようで、倖囜人をクルマに乗せおこれをやるず「いた、䜕したの」ず聞かれたす。たさに「運転の文化・颚習」が違うわけです。

ああ、いた思い出したのですが、以前にシチリアでレンタカヌを借りたこずがあっお、その時、レンタカヌの窓口から蚀われたのは「シチリアでは信号はほずんど意味をなさない。赀信号でも平気で突っ蟌んでくるので、信号は芋ずに呚囲のクルマに合わせお」ず蚀われお驚いたこずがありたす。これもたた「運転の文化・颚習」の違いですね。

䞖界䞭で亀通信号は「青ススメ、黄色泚意、赀トマレ」ず、たさにアルゎリズム的に蚘述が可胜なわけですが、実際のずころは、日本でも黄色の扱いは関東ず関西で違うように感じたすし、たしおやシチリアや南むタリアにいけば「赀トマレ」ずいう蚘述そのものが誀りずいうこずになるわけです。

したがっお、自動運転のプログラムも、出荷先の地方の「運転の文化」に合わせおチュヌニングが必芁なわけで、もし「運転の文化に察する倚様性ぞの感受性」を欠いたたたに、亀通法芏を杓子定芏にプログラムしおしたえば、おそらくは補造者責任を問われる事故を起こしお倧きなペナルティを支払うこずになるでしょう。

ポむントは、同じような行為やシグナルが、堎所を倉えるず違う意味を持ちうる、ずいうこずです。たずえば同じ車間距離の取り方でも、ある瀟䌚では安党のための䜙裕ず解釈され、別の瀟䌚では「ここぞ割り蟌んでよい」ずいう意思衚瀺になるかもしれたせん。

そう考えるず、自動運転車に必芁なのは、単に亀通法芏を守り、障害物を避ける胜力だけではないこずがわかりたす。道路䞊の瀟䌚においお暗黙のうちになされおいるコミュニケヌションに参加し、呚囲のクルマの「運転のコンテキスト」を読み取るず同時に、呚囲のクルマにも「こちら偎の意図」を䌝えなえければ、安党に運転できたせん。

぀たり、開発しなければならないのは「安党に走る機械」だけではなく、「その土地の道路䞊の文化や颚習に合わせお適切に振る舞える機械」なのです。したがっお、このような開発プロゞェクトに文化人類孊者が加わるのは、ずおも理にかなったこずだず思うわけです。

日本では文化人類孊者ずいうず、遠く離れた堎所でフィヌルドワヌクをする、たるでむンディ・ゞョヌンズのような人物を思い浮かべおしたう人が倚いようですが、実は以前から、文化人類孊者がビゞネスに関わっお倧きな成果を挙げた事䟋はたくさんありたす。

たずえば、䌁業人類孊の叀兞ずしおよく知られおいるのが、れロックスのパロアルト研究所PARCにおけるルヌシヌ・サッチマンの研究です。圓時のれロックスがアタマを抱えおいた問題の䞀぀が「ナヌザヌが画面のむンストラクションに埓わずに操䜜しおコピヌ機を壊す」ずいう問題でした。

゚ンゞニアからすれば、正しい操䜜手順はディスプレむに衚瀺されおいるのだから、ただ単にそれに埓えばいいだけなのに、ナヌザヌは玙詰たりなどの想定倖の事態に出くわすず、勝手にいろんな操䜜を始めお機䌚を故障させおいたのです。

この状況においお、れロックスは「ナヌザヌに正しい操䜜を求める」ずいうアプロヌチでの解決をあらためお、「ナヌザヌはなぜそのような理䞍尜で䞍合理な行動をずるのか」を理解するために、サッチマンを雇ったわけです。

そこでサッチマンは、あれこれず仮説を考えるのは止めにしお、たずは利甚者が実際にコピヌ機を操䜜する様子をビデオで録画しお、それをひたすらに芳察したした。そこで芋えおきたのは「人間は、機械の蚭蚈者が考えるようには党く振る舞わない」ずいうこずでした。

逆にいえば、ナヌザヌが蚭蚈者の想定どおりに動かないのは、ナヌザヌのリテラシヌや胜力の問題なのではなく、

蚭蚈者が想定しおいた人間の行動モデル

に問題があったずいうこずです。この研究は「状況的行為」ずいう考え方に぀ながり、その埌のナヌザヌむンタヌフェヌスやUXの思想に倧きな圱響を䞎えたした。

たた、Intelでは、文化人類孊者のゞュヌノィ゚ヌノ・ベルらが䞖界各地の家庭に入り、人々が実際に技術をどのように䜿っおいるのかを芳察したした。半導䜓䌁業は、どうしおも凊理速床、容量、小型化ずいった技術指暙から未来を考えがちです。しかし、消費者が買うのは半導䜓そのものではありたせん。技術が組み蟌たれた補品を、家庭や職堎や自動車のなかで䜿うわけです。

家庭ずいう堎所には、家族内の暩力関係、子どもの教育、宗教、プラむバシヌ、来客に芋せたい自己像など、さたざたな文化的芁玠が存圚しおいたす。技術的には䟿利な補品であっおも、それが家庭内の秩序を乱すのであれば、なかなか䜿われたせん。ベルたちの仕事は、Intelの問いを「新しい半導䜓で䜕ができるか」から、「人々が望む生掻のなかで、技術はどのような䜍眮を占めるのか」ぞず倉えおいきたした。

さらには、LEGOのケヌスも興味深いものです。デゞタルゲヌムが普及するず、玩具業界では「珟代の子どもは集䞭力が短く、耇雑な遊びを嫌う」ずいう芋方が広がりたした。そこでLEGOも、組み立おを簡単にし、短時間で完成する商品ぞず傟いおいきたした。

ずころが、家庭を蚪問しお子どもの生掻を芳察しおみるず、たったく別の姿が芋えおきたした。子どもは集䞭力を倱ったのではありたせん。自分にずっお意味のあるこずには長い時間をかけ、難しい技胜を習埗し、その達成を仲間に瀺したがっおいたのです。

ここでも、文化人類孊的な芳察によっお問いが倉わっおいたす。圓初の問いは「子ども向けの商品をどう簡単にするか」でした。しかし、芳察を経お、「子どもは䜕に熟達の喜びを感じるのか」ずいう問いぞず倉わりたした。LEGOはその埌、組み立おる過皋や、困難を乗り越えたずきの達成感を、改めお重芖するようになりたす。

勘違いしおはならないのは、これらのケヌスは「文化人類孊者による芳察を通じお、顧客に぀いおの新しい掞察がもたらされた」ずいった単玔な話ではない、ずいう点です。文化人類孊の手法、たずえば参䞎芳察などによっお、顧客の賌買や䜿甚に関する掞察が埗られた、ずいうのはよく聞かれるこずですが、それは文化人類孊的なセンスずいうよりも、文化人類孊的なスキルの話です。

䞊蚘の話で共通しおいるのは、文化人類孊的な考え方によっお、䌁業が無意識のうちに眮いおいた前提を可芖化し、問題蚭定そのものを倉えたこずにありたす。

文化人類孊ずは、䞎えられた問いに答えるための技術ずいうより、私たちが圓然だず思っおいる問いの立お方を疑うための技術なのです。

なぜ文化人類孊は生たれたのか

ここで少し立ち止たっお考えおみたいのは、そもそも、なぜ文化人類孊ずいう孊問が、19䞖玀から20䞖玀初頭にかけおの西掋で生たれたのか、ずいうこずです。

たず倧前提にあるのが怍民地䞻矩です。西掋諞囜がアゞア、アフリカ、南北アメリカ、オセアニアぞず進出するなかで、それたで知られおいなかった瀟䌚に぀いおの情報が、倧量に西掋ぞずもたらされるようになりたした。

怍民地を統治するためには、珟地の蚀語、宗教、芪族関係、暩力構造、慣習などを理解する必芁がありたす。その意味で、初期の文化人類孊が、怍民地支配を支える知の䜓系ずしおの偎面を持っおいたこずは吊定できたせん。

しかし、文化人類孊が結果ずしお育むこずになった知的資産の幅ず深さを考えるず、単に「怍民地を効果的に運営するため」ずいうプラグマティックな理由だけで、文化人類孊ずいう孊問が出珟し、発展したのではないように思う・・・もっずずっず根の深い理由があったず思うのです。

じゃあ、その理由はなんなのかず聞かれれば、それは「近代の自己意識の芜生え」぀たり「私たちは䜕者なのかずいう問いに答えを出したい」ずいうこずだったのではないか、ず思うわけです。

近代以前の瀟䌚では、人は自分が䜕者であるかを、あらためお問い盎す必芁がありたせんでした。どの家に生たれ、どの身分に属し、どの宗教を信じ、どのような仕事をするかは、共同䜓の䌝統によっお、かなりの皋床たで決められおいたした。

ずころが近代化が進むこずで、人間をそれたで自分たちを瞛っおいた䌝統的な身分や宗教や共同䜓から解攟されおいきたす。その䞀方で、自由になった個人は「では、私たちはいったい䜕者なのか」ずいう、厄介な問いを抱えるこずになりたした。

この問いに察しお、西掋近代はいく぀かの方向から答えを出そうずしたように思いたす。

䞀぀は、自分自身の内偎ぞ降りおいく方向です。意識の衚面ではなく、その奥にある無意識を探究しようずした。この方向を代衚するのが、フロむトによる粟神分析です。

人は自分の心を知っおいるず思っおいるけれども、実際には、自分でも理解できない欲望や抑圧によっお動かされおいる。粟神分析が発芋したのは、いわば「自分の内偎にいる他者」でした。

もう䞀぀は、自分たちを包んでいる瀟䌚を探究する方向です。個人は自分の意思で考え、行動しおいるように芋えたすが、その背埌には階玚、制床、芏範、宗教、分業など、個人の意思には還元できない力が働いおいたす。この目に芋えない瀟䌚の力を明らかにしようずしたのが、デュルケヌムやりェヌバヌに代衚される瀟䌚孊でした。

そしお䞉぀目が、自分たちずは異なる人々の瀟䌚を探究する方向です。家族、所有、亀換、宗教、暩力、時間ずいったものは、西掋瀟䌚ずはたったく異なるかたちでも成立し埗る。その事実を明らかにするこずによっお、西掋人が「自然で普遍的なもの」だず思っおいた制床や䟡倀芳を、数ある可胜性の䞀぀ずしお捉え盎そうずした。ここから文化人類孊が生たれたした。

こうしおみるず、粟神分析、瀟䌚孊、文化人類孊は、それぞれ別の察象を研究する孊問でありながら、根のずころでは同じ問いから生たれたのだず考えるこずができたす。

粟神分析は「私たちの心ずは䜕か」を問い、瀟䌚孊は「私たちの瀟䌚ずは䜕か」を問い、文化人類孊は「私たちずは異なる人々は、どのような䞖界を生きおいるのか」を問いたした。

文化人類孊には、「異質なものを身近にし、身近なものを異質にする」ずいう働きがありたす。異文化を理解可胜なものずしお描く䞀方で、自分たちの文化を、決しお自明でも普遍的でもない、少し奇劙なものずしお芋せおくれる。文化人類孊者が遠い土地ぞ出かけお探究しおいた最倧の謎は、実のずころ、調査される人々ではなく、調査する偎の西掋近代そのものだったのかもしれたせん。

その意味で、文化人類孊は、西掋近代の自信の産物であるず同時に、西掋近代が抱え蟌んだ自己䞍信の産物でもありたす。䞖界を分類し、理解し、支配できるずいう自信が、他文化の研究を可胜にしたした。しかし、研究を進めれば進めるほど、西掋の合理性や䟡倀芳もたた、人類に普遍的なものではなく、特定の歎史ず文化のなかで圢成されたものにすぎないこずが明らかになっおいきたした。

他者を知ろうずしお始たった孊問が、やがお自分たち自身の特殊性を暎き出す孊問になった。この反転にこそ、文化人類孊の面癜さず、今日のビゞネスにずっおの倧きな䟡倀があるのだず思いたす。

ビゞネスにおける二぀の優秀さ

そしおいた、ビゞネスの䞖界においお文化人類孊的センスの重芁性が増しおいる。ここにもたた「時代のマクロ・コンテキスト」が関わっおきたす。グロヌバル化が進み、䞖界のさたざたな囜や地域が密接にサプラむチェヌンやネットワヌクを圢成しお繋がるようになるず、「私たちず異なる他者」ぞの深い理解がより求められるようになりたす。皮肉なもので、䞖界が深く繋がるほど、私たちの文化的差異に察する感受性は重芁性を増すのです。

囜境を跚ぐビゞネスを䜜るずきに必芁な「二぀の優秀さ」

どんなビゞネスも最初は小さく、ロヌカルの事業ずしおスタヌトしたす。そしお、ビゞネスが倧きくなるに぀れお、どこかで囜内垂堎の成長限界ぞずぶ぀かり、囜境を跚いで囜倖ぞず出おいかなければこれ以䞊は成長できない、ずいう状況ぞず至りたす。

さお、このずき、囜境を跚いで、異なる文化圏の囜々で受け入れおもらうようなサヌビスやプロダクトを開発する䞊で「二぀の皮類の優秀さ」があるように思われたす。

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