太神楽曲芸|「祝い」を届け、芸を世界へつなぐ──太神楽曲芸師・鏡味味千代氏

あごの上に台茶碗(柄の長い茶碗)を立て、板や茶碗などを積み上げていく。2026年8月26日の「8月国立演芸場寄席」。太神楽曲芸師・鏡味味千代氏が、この日最初に披露した演目「五階茶碗」である(国立劇場・国立演芸場は建替えのため閉場中で、公演はすみだトリフォニーホールをはじめ各会場で続けられている)。
この日の番組は、笑福亭鶴光一門による上方落語、色物(主となる演芸のいろどりとなる演芸)は漫才と曲芸。
本記事では、太神楽曲芸を中心にこの日の高座の様子を伝えるとともに、公演後の茶話会でうかがった、舞台裏や鏡味さんの太神楽曲芸師としての歩みをお届けする。
東京では貴重な、上方落語の高座
実を申せば、私は上方落語を観るのはこの日が初めて。江戸落語とはことなり、上方落語では高座に「見台」という小さな机と「膝隠し」という衝立を据える。噺の途中には見台の上の「小拍子」という拍子木を打ち、三味線や太鼓による「ハメモノ(鳴り物)」が入る。鳴り物のうち太鼓や鉦は前座が受け持ち、この日は鏡味さんが笛を奏でた。
「上方」がその名のとおり関西を指すように、本格的な上方落語を関東で観られる機会は多くない。噺家の間合いは速く、音曲はにぎやかで華やか。都内の演芸場で聞き慣れた江戸落語のとは違った時の流れを味わうことができた。
神事から寄席へ──太神楽がたどった道
曲芸というと「寄席の色物を担当するパフォーマー」を思い浮かべる人も多いかと思われるが、正式には「太神楽曲芸」。長い歴史を持ち、神事芸能と民俗芸能としての要素をもつ。神事芸能としての神楽は、天照大神に披露した舞が起源だとされている。民俗芸能としては、能と同じ室町時代の猿楽にルーツがある。
現在「太神楽曲芸師」によって演じられているのは、5~600年前に誕生した「大神楽」を継承したもの。伊勢神宮や熱田神宮が始まりだと言われている。当時、そういった大きな神社にお参りできない人々のために、神社の方が「大神楽」の一団を組み、山陰山陽地方、瀬戸内海の島々などの家々を一軒ずつ訪ね、獅子舞によってお祓いし、お札を納める。車も電車もない時代、太神楽師により、参詣できない人も、同じ功徳が得られるようになり、鏡味さんによれば、「神社のデリバリーサービスだった」。
江戸太神楽は、江戸幕府のもとで参勤交代が始まり、お伊勢参りも盛んになったことで生まれた。お伊勢さんに行きたいけれど参詣できない、参勤交代で江戸に住んでいるので、大神楽も訪れてくれないという人々のために、江戸にも大神楽の人々が住み始め、「江戸太神楽」が誕生した(「大神楽」の「大」点を加えて「太」と表記する)。「鏡味」の屋号も、江戸太神楽の代表的なものである。
多くの家をまわるうち、お祓いに加えて、曲芸など演目が多様化していく。芸として発展を遂げていったのだ。大衆に広く親しまれたことは、浮世絵に描かれ、歌舞伎の演目にもなったことからもうかがえる。
江戸末期に寄席文化が大きく花開く。太神楽師は明治以降までお祓いをして回っていたが、その後の関東大震災や第二次世界大戦によって、訪れる家がなくなってしまったため、獅子舞でのお祓いからパフォーマンスとしての太神楽に形を変えていく。神事を担ってきた者が寄席芸能の担い手としても知られるようになっていくことになる。

公演当日の舞台の様子
五階茶碗
立て物の形を保ったまま、あごの上から親指へ移す「親指試し」。撥を口にくわえ、立て物のあいだに毱を入れる「15夜は満月」。毱をさらに一つ増やす「縁結び」(相生比翼の毱ともいう)。くわえた撥と立て物のあいだに扇子を差し入れ、そのまま抜き取る難技「抜き扇」。立て物を糸の上に載せて揺らす「沖の大船は船揺り」、そして「七福神宝の船」。技が次々に繰り出されていく。客席のあちこちから「えー」「わあっ」と、息をのむ声と驚きの声が上がった。
技のあいだも、太神楽曲芸師は祝いの言葉を、ナレーターのように明瞭で芯のある美しい声で観客に語りかけ、みずから実況していく。
立て物を頭に載せているあいだも、腕はしなやかに舞う。背が高く手足の長い鏡味さんの立ち姿に、「白鳥の湖」で主人公がアラベスクをしながら腕を大きく動かす、あの優美なポーズを思い出した。鏡味さんの公式プロフィールには、国立劇場の研修時代に日本舞踊の稽古も積んだとある。体幹を安定させたしなやかな動作という点から、日本舞踊や歌舞伎の所作事、クラシックバレエを観るのが好きな人も楽しむことができるかとおもう。
一つ毱

素早くたすきをかけ、お次は曲芸のなかでも難度が高いとされる「一つ毱」。撥と毱を腕の上で転がす「二の腕返し」、サッカーのリフティングのように頭で払う「八方突き分け」、毱と撥が手品のようにくっついて見える「吉岡剣法続飯付け」、頭と顎に立てた撥のあいだで毱を渡す「織姫と彦星の通い舞」。
技の名を朗らかに、なめらかに告げながら、よどみなく進んでいく。あまりに軽やかに見えたその芸が、実のところ、これほどの難度だったと知ったのは、公演後に文献をひもといてからのことだった。
傘の曲

「末広がりの傘に、枡を載せて、ますますのご繁盛を」。高らかな声とともに、傘回しが始まる。傘の縁ぎりぎりで回し、かと思えば高速で回転させ、自在に操ってみせる。
「傘回し」と聞けば、動きは想像がつくという方もいるだろう。けれども、実際に目の前で、口上のように明朗な声で幸せを願ってもらうのは特別なのだ。高揚感でどんどん気分が良くなりつつも、神社でお祓いの祝詞に頭をもたげるときのじんわりとしたありがたみがこみ上げてくる。
演目は、寄席が始まってから決まる
公演が終わり、そのあとの茶話会では、鏡味さんの隣の席で話を聞くことができた。演目はどのように決めるのか。たずねると、返ってきたのは意外な答えだった。
「演目をいつ決めるかというと、寄席が始まってからなんです。当日、前座が高座に上がったときの反応で、どんなお客様が来ているか見当をつけます。今日は常連さんより初めてのお客さんの方が多そうだと前座が教えてくれました。それで、初めての方が驚いて盛り上がる『五階茶碗』を入れました」
曲芸にかぎらず、寄席の演目はすべてリハーサルなし。前座が客席の様子を見てから決まっていくという。
「曲芸のような色物には、時間調整の役割もあります。ですので、進行しながら5分伸ばしたり時間を縮めたりすることも、常に想定しています」
太神楽曲芸の技の習得の難しさを表す言葉に、「撥五年、毱五年」というのがある。太神楽曲芸が伝統芸能であることからも、先人の積み重ねてきた技の高度さがうかがえる。だが、芸能というのは、道具を使った技の完成度のみならず、臨機応変さも求められるものであると、鏡味さんから教えてもらった。
九か国、六十公演——「縁かつぎ」を世界の言葉に
「海外の観客には、曲芸をジャグリングと同じだと思っている観客もいらっしゃいます。なので、着物姿で登場して折り目正しくお辞儀をした時点で、驚かれる方も多いです」。鏡味さんはそう語る。
鏡味さんは伝統芸能の世界には珍しく、英語とフランス語が堪能だ。公演で訪れた国は九か国、海外公演は六十回を数え、年に一度は海外公演の依頼があるという。海外公演の経験豊富な鏡味さんに、海外公演ならではの難しさについてたずねた。
欧米では、身近な物事に願をかける文化がアジアの国々ほど根づいておらず、「祝いの芸」という概念そのものから伝える必要がある。
日本の縁起のよさをそのまま伝えられないときは、西洋でも通じる言葉に置き換える工夫をする。たとえば毱を二つ並べる芸は、日本では「縁結び」と伝えるところを、海外では横に並べて「インフィニティ(無限大の∞)」だと説明し、盛り上がったそうだ。また、大学で留学生向けサマースクールにて伝統芸能の授業を受け持った際にも、「日本にある、身近な小さな幸せを見つける縁かつぎを探してみてほしい」と伝えたところ、反響が大きかったという。
十五人ほどの世界で、次の担い手を育てる
鏡味さんが所属する太神楽曲芸協会の会員は、約15人。大所帯ではないからこそ、師匠世代の四人から、鏡味さんのように国立劇場の太神楽研修(1995年開始)を経た十人ほどの中堅世代へと、技と人は着実に受け継がれてきた。
鏡味さんは、子育てをしながら舞台に立つ一人でもある。仕事と育児の両立に苦労した経験から後進の育成にも力を注ぎ、そのかいあって2026年春には新たに二人の女性太神楽曲芸師が誕生した。少数精鋭の世界に、次の担い手が育っている。
「祝いの芸」をつないで
鏡味さんの原点は、寄席の曲芸に救われた経験にある。「曲芸が人の幸せを願い、それを分かち合うものであること。そこに私自身が救われました」。
広報代理店で身を削るように働いていた頃、父親が寄席に連れて行ってくれた。そこで出会った太神楽曲芸に、たまりにたまった疲れが解きほぐされ、元気がこみ上げるまでに回復し、国立劇場の太神楽研修生を志願した。
寄席デビューは、東日本大震災のあった2011年4月、浅草演芸ホール。にぎやかなことを控えようという自粛の空気のなか、寄席全体が静まり返っていた。そこから公演を重ねるまでには並々ならぬ苦労があった。幸せな世の中は当たり前ではないこと、そしてそれが人にとってどれだけ大切かを、身をもって感じたという。鏡味さんの芸には、その経験と思いが込められている。

太神楽曲芸を観ていると、ハラハラと驚きの連続だ。寄席では落語家を引き立てるため、お祝いの席よりは控えめな芸を披露するものであるとうかがっているが、そうは言っても茶碗が割れないか、息をのんで見つめてしまう。
一つの技が終わるたび、拍手がはじける。張り詰めていたものがほどけ、「お見事!」という気持ちがバチバチと手を叩く音になる。コンサートのあとに残る余韻の拍手とは、また別の勢いがある。
世界のいたるところで戦争が起き、報道のたびに犠牲になった子を思い心が痛む。本日の公演は無事に観ることができてよかったが、夏の風物詩たるイベントが開催されるのは当たり前でない世の中になった。熱中症に苦しむ人が出て夏の開催を見送る。6月から台風が次々発生し、台風でなくても豪雨や地震が相次いだ。夏の風物詩が中止になることも増えてきたようにおもう。
豪雨、地震と、無事を祈る先は次々に増え、一度に祈り切れなくなる、抱えきれなくなっていく。
おのおのが静かに祈る参拝の歴史を引き継ぎながら、華やかに祝い、幸せを願うところまでを一つにつないできた、太神楽曲芸。自分の幸せを願ってもらうというのは、なんと心強いことだろう。世の幸せを分かち合うというのは、なんと心が穏やかになることであろう。
「太神楽で一番大切なことは、見ている方の幸せを祈る気持ちです」。
震災の直後に高座へ上がり、鏡味さんは、舞台に立ち続けてきた。人生に悲しいことがあったとしても、社会で憂うべきことが起こったとしても、「祝いの芸」はこれからも多くの人の心を支えてくれるのだろう、支え続けてほしい。
鏡味 味千代(かがみ・みちよ)
落語芸術協会、太神楽曲芸協会所属。
2000年3月、国際基督教大学(ICU)卒業。2007年3月まで広報代理店に勤務する。
2007年4月、国立劇場第5期太神楽研修生となる。研修時代には太神楽の技能に加え、獅子舞に必要な鳴り物(笛、太鼓)、三味線、日本舞踊などの稽古も積み、2010年3月に修了。笛の名手として知られ現在において寄席で出囃子の笛を吹く。
同年4月、ボンボンブラザースの鏡味勇二郎に入門。その後1年間、噺家の前座に混ざって落語芸術協会で前座修行を行う。365日休みなく勤め、お茶くみ、座布団返し、師匠方への着付けなど、行儀見習い一般を経験した。
2011年4月、浅草演芸ホールで寄席デビュー。東日本大震災の直後で寄席は静かだったものの、たくさんの客が足を運んでくれた。
語学力を生かし、英語やフランス語での上演や、年に一度のペースでの海外公演など、太神楽の可能性を探り続けている。都内の寄席を中心に、祝い事やパーティーでの余興、学校公演など、活動は多岐にわたる。
鏡味さんの公式サイトはこちら。公式動画はこちら。本記事で紹介した技や、より大がかりな水を使った技を観ることができますので、ぜひご覧ください。
参考文献
鏡味仙三郎『太神楽―寄席とともに歩む日本の芸能の原点』原書房、2019年。
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