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稚内と昭和の大横綱「大鵬」〜奇跡の命をつないだ「上陸の地」〜

(育英館大学の授業で、学生が書いた記事。担当:畠中)

皆さんは、昭和の大横綱「大鵬(たいほう)」をご存じでしょうか?

【第48代横綱 大鵬 幸喜(たいほう こうき)】
・本名:納谷 幸喜(なや こうき)※母の姓を継承
・生没年:1940年(昭和15年)5月29日生 〜 2013年(平成25年)1月19日逝去
・ゆかりの地:樺太敷香郡敷香町(現・サハリン州ポロナイスク)生まれ、北海道川上郡弟子屈町育ち
・ルーツ:ウクライナ人の父(マルキャン・ボリシコ)と、日本人の母(納谷キヨ)の間に生まれる

現役時代は幕内最高優勝32回という当時の史上最多記録を打ち立て、「昭和の大横綱」と称されました。昭和30〜40年代には、子どもの好きなものを並べた「巨人・大鵬・卵焼き」という流行語が生まれるほど、日本中で絶大な人気を誇りました。

■ 樺太からの引き揚げと、父との別れ

大鵬の故郷である樺太(現在のサハリン)は、1905年の日露戦争講和条約(ポーツマス条約)により南半分が日本へ割譲され、1945年の第二次世界大戦敗戦まで日本の統治下にありました。

終戦にともない、樺太に暮らしていた多くの人々は北海道本土への引き揚げを余儀なくされます。当時5歳だった大鵬も、情勢の混乱の中で父と離れ離れになり、母や兄弟とともに逓信省のケーブル敷設艦「小笠原丸」に乗り込み、引き揚げの途につきました。

■ 宗谷海峡の波と、引き揚げ船襲撃の悲劇

8月20日の深夜、女性や子ども、高齢者を中心に約1,500人の引揚者を乗せた小笠原丸は、目的地である小樽港を目指して出港しました。しかし、その夜の宗谷海峡は波が高く、大鵬の母はひどい船酔いに苦しめられます。

小笠原丸に続いて「第二新興丸」と「泰東丸」の2隻も引揚者を乗せて出港しましたが、8月22日の早朝、3隻の船は次々とソ連潜水艦による攻撃(三船遭難事件)に遭いました。小笠原丸と泰東丸は沈没し、第二新興丸は大破しながらもなんとか留萌港へ辿り着きましたが、1,700名以上もの尊い命が失われるという痛ましい悲劇となったのです。

■ 奇跡の「稚内下船」が未来をつないだ

この3隻のうち、小笠原丸だけは小樽へ向かう途中で稚内港へ寄港していました。あまりの船酔いに耐えかねた母を気遣い、一家は急きょ稚内で船を降りる決断をします。その直後に小笠原丸は襲撃され沈没したため、一家は奇跡的に難を逃れることができたのです。

まさに「運命の一歩」となったこの出来事について、大鵬は後年、次のように語っています。

「ここ稚内で降りたことで今の自分がある。横綱になれたのも稚内が原点」

この奇跡的な下船によって、稚内は幼い大鵬が北海道本土へ踏み出した「上陸の地」となり、生涯忘れえないゆかりの地となりました。

■ 未来へ語り継がれる「上陸の地記念碑」と歴史の声

現在、稚内港北防波堤ドームに隣接する公園には、大きな黒御影石で造られた「大鵬幸喜上陸の地記念碑」が建っています。大鵬生誕80年にあたる令和2年(2020年)に建立されたこの碑にも、あの決意と感謝の言葉が深く刻み込まれています。


昭和の大横綱・大鵬幸喜。「稚内で降りたからこそ今がある」という言葉は、戦乱の中で失われた多くの犠牲と、その中で奇跡的に受け継がれた命の重みを今も静かに物語っています。

稚内市樺太記念館では、大鵬に関する貴重な展示や三船遭難事件の歴史を伝える映像資料をご覧いただけます。ぜひ稚内を訪れ、大鵬ゆかりの地を巡るとともに、樺太と稚内が歩んだ歴史の声に耳を澄ませてみませんか。

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