映画評35 傑作『旅と日々』を見逃すな!
1 これが映画だ!
『ケイコ目を澄ませて』(2022)、『夜明けのすべて』(2024)などが高い評価を得ている三宅唱(みやけ・しょう)監督。
つげ義春の2作の漫画、「海辺の叙景」「ほんやら洞のべんさん」を大胆にアレンジした三宅の新作、『旅と日々』は、「これが映画だ!」 と唸りたくなる傑作である。
ーースランプ中の女性脚本家、李(シム・ウンギョン)が主人公だが、映画は前半と後半に分かれている。
(以下、便宜的に前半を「パート1」、後半を「パート2」と呼ぶ。)
パート1とパート2はそれぞれ、「海辺の叙景」「ほんやら洞のべんさん」に想を得ているが、したがって、つげの2作の漫画は、『旅と日々』の原作というより、着想源というべきかもしれない。
冒頭、質素なアパートの部屋で、李は、机の上に開いたノートに韓国語でプロットを書き始めるーー「シーン1 夏、海辺・・・」と。
まもなく、波の音がフェードインして海沿いの道が映り、パート1が始まる。
つまりパート1は、李の書き始める脚本が映像化された、映画内映画である。
(それはメタ映画うんぬん、という理屈っぽいものではないので、観客は李の脳内映像にスッと入り込める。)
ーー真夏の伊豆諸島・神津島を舞台とするパート1の序盤では、23歳の憂い顔の女、渚(河合優実)が、強い風の吹くなか、坂道を上ったり、海沿いの鬱蒼とした森の中を歩いたり、急峻(きゅうしゅん)な崖に見入ったりするシーンが続く。
その一連のロケーション撮影が素晴らしい。
デジタル・カメラは、渚の周囲の自然ーー繁茂する葉群れ、鋭く削り取られたような崖、海になだれ落ちている山肌などーーをきわだたせるように、彼女をやや離れた距離でとらえる。
(このシーンでは、ざわざわと風に揺れ騒ぐ葉群れの音が耳に快いが、風の音はーー波の音とともにーーパート1の主旋律のように繰り返される。
なお、本作の画面サイズはスタンダード(縦横比1 : 1.37) だが、この正方形に近いフレームに収まった、一つひとつのショットが痺(しび)れるような強度を放つ。)
渚が小さなトンネルを抜けると、そこは強い日差しがまばゆい海辺だった。
(トンネルの暗闇の中に出口の円(まる)い光が現れる瞬間も凄い。)
そして、渚は海辺で、所在なげにしている、17歳の夏男(高田万作)と知り合うが、ふたりの会話がパート1の中心となる。
2 とりとめのない会話とアクションの不意打ち
とりとめもなく、淡々と進むふたりのやりとりには、しかしハッとするような内容が含まれる。
夏男は、岬の向こうで漁船の網に、子どもを抱いた女の土左衛門(死体)がかかったことがあったが、女の鼻の穴や口にはびっしり藻が詰まり、子どもは半分骨になっていたけれど、そこは蛸の巣で、無数の蛸に襲われると人はすぐに骨になってしまう、などとボソボソと話す。
夏男の話に、渚が低い声でポツポツとリアクションするところも、何ともいい。
そして、渚が歩く岩場のたまりには、鳥に半分体を食われた魚が浮いていたりして、夏男が渚に聞かせる死体の話と相まって、本作はいくぶんホラー映画めいてくる。
とはいえ、『旅と日々』はそれ以上ホラーというジャンルには接近せずに、いわゆる「ノンジャンル」風に進むが、それにしても、抑揚のない声で交わされる夏男と渚の会話には、何とも言えない妙味がある。
たとえば、夏男が問わず語りに、僕は何をやってもうまくいかない、自分より運の悪い人には会ったことがない、と言うところの絶妙なユーモア。
あるいは渚が、この海辺の町に来たのは、浮気をして鬱々(うつうつ)としていたから、とつぶやく場面。
そこでは、渚の無表情に、あるかなきかの情感がほの見え、スクリーンには虚無感すれすれの鈍い憂愁が漂う。
ともかくカメラは、夏男と渚を、あたかも内面や心理を抜き取られた男女であるかのようにーーただそこにいるだけといった風にーー、即物的に撮る/描くのである。
にもかかわらず、いやむしろそれゆえに、夏男と渚は、顔の大芝居をする凡百の映画群の誰よりも血の通った映画的キャラクターたりえているのだ。
その翌日、雨の降りしきる海辺で、渚は服を脱ぎ、セパレーツの水着姿になり、たじろぐ夏男を尻目に海に入り、泳ぐ。
(その日は台風の接近により、海は大しけだ。)
夏男は躊躇(ためら)いつつも、アロハシャツを脱ぐと、打ち寄せる大波をくぐり、巧みに抜き手を切る。
激しく渦巻き、逆巻き、泡立つ灰色の海を泳ぎ、海中に潜るふたりの姿によって、画面はそれまでの「静」から「動」へと転調するのだが、この不意打ちのような【アクション】の出来(しゅったい)も、じつに鮮やかだ。
やがて浜に上がった渚は、波間に背中を見え隠れさせて沖へと遠ざかっていく夏男を、無表情のまま見つめるーー。
(脚本家・李の脳内映像であるパート1の物語は、その海辺のシーンで、いわば未完のまま終わる。)
3 李がべん造と出会う
「パート2」の冒頭は、大学の教室のシーンだ。
教室では「パート1」の映画内映画が上映され、李、魚沼教授(佐野史郎)らを交えた、映画をめぐる質疑応答が始まる。
脚本執筆に行き詰まっている李は、学生から映画の感想を問われると、「私にはあまり才能がない」と答える。
冬になり、李は、ひょんなことから雪深い山形・庄内地方を訪れる。
たどり着いた古びた宿屋、「ほんやら洞のべんさん」のものぐさな主人、べん造(堤真一)を相手に、どこか噛み合わないやりとりを交わすなかで、李は自らの人生を見つめ直していくーー。
このパート2には、パート1を上回るくらいの、じつに味わい深いディテールが満ち満ちている。それらをぜひとも、劇場において目と耳で堪能されたい。
●補説 1
これまで私は、河合優実という女優のユニークな存在感は認めつつも、「メンヘラ」ぶりや物憂さや無愛想をーーいかにもそれらしくーー誇張する彼女の演技にやや違和感があった。
だが本作の河合は、彼女の得意とする屈折した「訳あり」キャラを、抑制された演技で見事に演じ切っている。河合優実の「素」と三宅唱の演技設計とが、喜ばしいケミストリー/化学反応を起こした結果ではないか。
ちなみに、セパレーツの水着姿の河合優実のなまめかしさにも、海辺で写真を撮っているイタリア人女性・リサの水着姿の陽気な艶っぽさにも、一驚する。
●補説2
映画評論家の上野昂志は、堤真一の喋りや振る舞いが、つげ義春の原作のべん造そっくりで素晴らしく、また彼と李のやりとりも、原作とほとんどそのままだ、と指摘し、さらに、渚と夏男が荒海で泳ぐ場面は、切なさを掻き立てる原作(「海辺の叙景」)のシーンを想起させる、と述べている。(『「言葉以前」と出会うーー『旅と日々』評』、2025年11月7日・朝日新聞夕刊。)
久しぶりに、つげの2作を読み返したくなった。
●補説3
パート1とパート2のいわば「継ぎ目」となる魚沼教授/佐野史郎をめぐる椿事(ちんじ)も、ひねりが利いていて、要注目。映画がこれほどまでに「時間」を伸縮させうることに、あらためて驚嘆する。
なお時間という点で言えば、『旅と日々』の上映時間は89分だが、この尺のうちに、かくも豊饒な世界を凝縮させた三宅の手腕にも感服。
