「正しい鉛筆の持ち方」を強制すべき?

〈子どもに正しい鉛筆の持ち方を指導すべきだ、という意見を目にして〉

野茂英雄に「正しい投げ方」を教えようとした監督がいましたね。あと、ウサイン・ボルトに「正しい走り方」を指導してる間は速く走れなかったとか。「理想」「正しい」を押しつけて潰れてきた子ども・若者の話って結構多いんですよね。
野茂氏は、自分の体型・体力を考えると「正しい」フォームはトルネード投法であることを知っていたのでしょう。だから監督が「正しさ」を押しつけてきた時にアメリカに逃げざるを得なかった。ボルトは背中が湾曲しており、左右で歩幅が違いましたが、だからこそスピードに乗れる走法を新たな指導者と築き上げ、世界一になりました。武豊選手はオグリキャップが足の左右で得意に違いがあることに気づき、その個性を生かした走法を編み出して、年齢で活躍できなくなり始めていたオグリキャップの潜在力を生かし、優秀しました。

大事なのは「観察」だと思います。「正しい」に囚われると厄介なのは、目の前の子どもが「間違っている」としか見えなくなることです。その子の心の状態、身体的な特徴、動作のクセなどを観察することができなくなり、「間違っている」としか思えなくなることです。野茂もボルトも、「正しさ」を押しつけられている間は伸びませんでした。

「正しさ」には、比較的多くの子どもには妥当性があるとは思います。しかし「蓋然性」があるだけで、どの子にも必ずしも正しいわけではありません。どうしても人には個性がある。その個性を無視して押しつければ、その子の心と身体を破壊することにつながりかねません。
昔の大工は木材をよく観察し、クセをうまく利用して柱にしたり梁にしたりしました。今どきのプラモデルのように組み立てる方法だと、木材は真っ直ぐでしか許せず、曲がった材は「間違ってる」として許せなくなるでしょう。しかし、クセのある材は、昔の大工にかかれば、味のある梁として見せ場を作ったりします。

大事なのは「正しい」「正しさ」ではなく、観察だと思います。そもそも「正しさ」は、観察することで生み出された「蓋然性」でしかありません。観察したからこそ蓋然性のある答えを見いだしたはずです。しかし「正しさ」を普遍的なものと思い込んだ途端に観察力が失われます。どの子にも適切な指導をする際に大事なのは「正しさ」ではなく「観察」。それが私の現時点での仮説です。

私が子どもの箸の持ち方で行った指導法は「手の小さい間は無理だよ」と声をかけるものでした。実際、子どもの小さな手では箸の「正しい」持ち方はやや難しいです。だから無理して「正しい」持ち方をする必要はない、と伝えていました。
でも面白いもので、そう言われると一刻も早く正しい箸の持ち方を習得しようとします。「まだ無理だよ」という言葉は、もしその無理を達成したらすごいってことだよね、ということに子どもが気づき、それを達成したいという意欲をかきたてるからだと思います。

指導者の役割は、押しつけるよりは「憧れ」を子どもの中に灯すことだと思います。そうすれば子どもは自発的に能動的にそこに近づこうとします。押しつけなくても子どもが自ら選択するように導く言葉かけのデザイン。そうした工夫が、指導者には求められる気がします。

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