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「守る」ということは、誰かを遠ざけることなのか


娘が産まれて2ヶ月後

夫は赴任先のガーナへ発った

それから9ヶ月後

私も11ヶ月の娘を連れて渡った



ガーナ到着2日後

夫と娘と3人でスーパーまで歩いた時の出来事だ

ガーナの道は舗装されていない

ベビーカーなんて使い物にならない

足場の悪い道

30度を超える暑さ

時差ぼけ

娘を抱っこしながら歩く私は、疲労困憊だった



そして、大きな交差点で信号を待っていたとき、5-6人の子どもたちに囲まれた

ストリートチルドレンだった

食べ物やお金を求めながら

子どもたちは娘に興味を示し

頭や頬に手を伸ばしてきた


私は、とっさに一歩後ずさった

「触らないで」

そんな感情が芽生えた


私はこれまでの旅や孤児院でのボランティアを通し、彼らを支援したいと思っていた側の人間だった

彼らも、誰かにとって大切な存在であり、私たちと同じ人間だと頭では理解しているつもりだった

少なくともその時までは





母性が、無意識の境界線を可視化した

守るべき存在ができたとき、人は境界線を引く

守るという行為が、同時に誰かを遠ざけることでもあると、あのとき初めて知った

守るべき存在ができたとき、人は無意識のうちに「内側」と「外側」を分ける

そして、その内側を優先しようとする

その感覚は、とても自然で、ある意味では必要なものだと思う

けれど同時に、それは、もっと大きな単位でも起きているかもしれない

たとえば、国という単位で見たとき

近年、世界各地で見られる自国第一主義や排他的な動きも、もしかすると、まったく異質なものではなく、この「守る」という本能の延長線上にあるのではないか

もちろん、その単純な比較が正しいとは限らない

けれど私は、あの日、自分の中に生まれた感覚を通し、人が境界線を引く理由を、少しだけ理解した気がした

自分では平等に見ているつもりでも、無意識のうちに、見た目や状況から相手を判断し、距離を取る

しかもそこに悪意はなく、むしろ「守らなければならない」という正当な理由すら伴う

だからこそ、そのバイアスは厄介だ


あの時、私が守ったものと、遠ざけたもの

その境界線は、本当に正しかったか

今でも、その答えはわからない

だけど、少なくとも自分の中にあった無意識の偏見に気づいた

娘がいつか、あの日の光景を理解する日が来たとき

私はこう伝えたい

「世界には、あなたとは違う環境で生きている人がいる。でも、違うから遠ざけるのではなく、まず知ろうとしてほしい」と

それが、私が未来のためにできる、最初の一歩だと思う




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