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教皇庁に犁曞指定されたゞャンヌ・ダルク䌝䞋巻・第䞀章 囜王軍、゜ワ゜ンからコンピ゚ヌニュぞ詩ず予蚀

【アナトヌル・フランス『ゞャンヌ・ダルクの生涯』完蚳プロゞェクト】1908幎発行の名著を、膚倧な独自泚釈ずずもに珟代日本語で蘇らせる個人翻蚳プロゞェクトです。継続的な掻動維持ず出版支揎のため、䞀郚を有料公開ずしおいたす。

▌総合目次・リンク集なぜ、21䞖玀に『ゞャンヌ䌝』を完蚳するのか

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【この章のポむント】
- æˆŽå† åŒåŸŒã®å€–亀的行軍ず軍事的停滞
- æˆŠç«ã«è’廃するフランスの悲惚な実情
- ã‚žãƒ£ãƒ³ãƒŒã‚’めぐる新予蚀ず詩人たちの熱狂

1.1 戎冠匏埌の行軍、ノァロワ家の父祖の地ぞ

⚠䞋巻・第䞀章の章題「゜ワ゜ンずコンピ゚ヌニュ」はノァロワ家がフランス王䜍を継承する前、ノァロワ公爵だったころの領地です。ランスでの戎冠匏の埌、シャルル䞃䞖は祖先の公爵家時代の領地を蚪れお、各郜垂ず臣埓関係を結がうずしおいたようです。この蟺の時代背景を知っおいるず、第䞀章の流れが理解しやすいかず。

 月22日、シャルル王は軍を率いお゚ヌヌ川の溪谷を䞋り、ノァむむず呌ばれる堎所で゜ワ゜ンの町の鍵を受け取った。[1]

 この町はノァロワ公爵領の䞀郚を構成しおおり、今はオルレアン公爵家ずバル公爵家が共同で統治しおいた。[2]
 䞀人目の公爵オルレアン公シャルル・ドルレアンはむングランド軍の捕虜ずなっおいる。もう䞀人バル公ルネ・ダンゞュヌは矩兄であるシャルル王を通じおフランス偎ず繋がり、矩父であるロレヌヌ公を通じおブルゎヌニュ偎ずも繋がっおいた。

⚠ノァロワ公Duc de Valoisフランス王囜カペヌ朝の傍系だったが、カペヌ家の男系男子が断絶したためノァロワ家が王䜍を継承。シャルル䞃䞖の本名はシャルル・ド・ノァロワで、ノァロワ朝代目のフランス王にあたる。

 そのような事情があったため、゜ワ゜ン垂民の忠誠心が揺れ動くのも無理はない。

 歊装した兵士たちに螏みにじられ、占領ず奪還を䜕床も繰り返す䞭で、赀い垜子むングランド方ず癜い垜子フランス方の勢力はどちらも亀互に川ぞ投げ蟌たれる危険に晒されおいた。

 ブルゎヌニュ軍は家々に火を攟ち、教䌚を略奪し、有力な垂民を虐げた。
 続いおアルマニャック軍が抌し寄せ、あらゆるものを略奪し、男も女も子䟛も倚数虐殺し、修道女も良家の人劻も枅らかな乙女も凌蟱された。サラセン人異教埒、むスラム教埒でもこれほど酷いこずはしなかっただろう。[3]

 ブルゎヌニュ兵を袋詰めにしお゚ヌヌ川に投げ蟌み、町の女性たちがその袋を瞫っおいる姿が目撃されおいた。[4]



 シャルル王は、23日土曜日の朝方にその郜垂゜ワ゜ンに入城した。[5]
 赀い垜子の人たちは身を隠した。

 鐘が鳎り響き、民衆は「ノ゚ル䞇歳」ず叫び、垂民たちは王にバヌベルひげのある魚匹、矊頭、そしおボン・シュレ少し酞味のあるワむンガロン[6]を献䞊し、その量が少ないこずで蚱しを請うた。戊争で砎産しおしたったのだず蚀い蚳した。[7]

⚠バヌベルbarbelsニゎむ科の淡氎魚。バル公ルネ・ダンゞュヌの王章に描かれおいる魚でもあり、文脈的に、この献䞊物は領䞻ぞの敬意を衚す象城的な意味合いが匷い。

⚠ボン・シュレbon suret少し酞味のあるワむン。ここでは、戊争で困窮した垂民が「これっぜっちしか甚意できず、しかも酞っぱい安ワむンですが  」ず申し蚳なさそうに差し出すむメヌゞ。

 圌らはトロワ垂民ず同じように特暩を行䜿し、兵士を逊うだけの食糧がないずいう理由で、門を開けるこずを拒吊した。軍はアンブルニヌの平野に野営した。[8]



 圓時、囜王軍の指導者たちはコンピ゚ヌニュに進軍する぀もりだったようだ。

 実際、フィリップ公ブルゎヌニュ公からこの町を奪取するこずは重芁だった。コンピ゚ヌニュはむル・ド・フランス地方の芁衝で、公が軍を集結させる前に占領すべき堎所だったからだ。

 しかし、この戊圹を通じお、フランス王は歊力よりも倖亀ず説埗によっお町を取り戻す決意を固めおいた。

 月22日から25日にかけお、王は䞉床にわたりコンピ゚ヌニュの䜏民に降䌏を勧告した。
 垂民は「やむを埗ず応じる姿勢を芋せたい」ず画策し、時間を皌いでから、ようやく亀枉に応じた。[9]

 ゜ワ゜ンを離れた囜王軍は、29日にシャトヌティ゚リに到着した。
 終日、城門が開くのを埅ち続けた。倕刻、王は城内に入った。[10]



 クヌロミ゚、クレシヌアンブリヌ、プロノァンがシャルル王に降䌏した。[11]

 月日の月曜日、囜王はシャトヌティ゚リ橋でマルヌ川を枡り、その日のうちにモンミラむナに宿営した。翌日にはプロノァンスに到達し、セヌヌ川の枡河地点ずフランス䞭倮郚の幹線道路のすぐ近くに迫った。[12]

 軍は飢えに苊しみ、荒廃した田園や略奪された郜垂では食糧を䜕も芋぀けられなかった。物資䞍足のため、ポワトゥヌぞの撀退準備が進められおいた。

 しかし、この蚈画はむングランド軍によっお阻止された。

 守備兵のいない無防備な町々が陥萜しおいく䞭、むングランド摂政ベッドフォヌド公は軍を集結させおいた。その軍は珟圚、コルベむナずムランぞ進軍しおいた。

 敵軍の接近に先駆けお、フランス軍はプロノァンから玄マむル離れたラ・モットナンゞを占領し、そこの平坊で均䞀な土地に陣を構えた。そこは、圓時の戊闘様匏にふさわしい、戊いを繰り広げるのに適した堎所だった。

 フランス軍は䞞䞀日、戊闘態勢を維持した。
 しかし、むングランド軍が攻撃しおくる気配はなかった。[13]

1.2 ランス垂民の䞍安ずゞャンヌの手玙

 䞀方、ランスの人々は「シャルル王がシャトヌティ゚リを出発し、セヌヌ川を枡ろうずしおいる」ずの知らせを受け取った。

 芋捚おられたず思い蟌んだ圌らは、むングランド軍ずブルゎヌニュ軍が、アルマニャック掟の王の戎冠匏をしたこず理由に、重い代償を払わされる報埩されるのではないかず恐れた。実際、圌らは倧きな危機に盎面しおいた。

 月日、圌らはシャルル王に、服埓した郜垂を芋捚おないよう懇願する䜿者を掟遣するこずを決めた。䜿者はただちに出発した。

 翌日、圌らは良き盟友であるシャロンずラオンの垂民に、「シャルル王がオルレアンずブヌルゞュぞ向かっおいるずいう知らせを聞いお、䜿者を送った」旚を䌝えた。[14]



 月日、囜王がただプロノァン[15]かあるいはその近郊にいたころ、ゞャンヌはパリぞ向かう道䞭の野営地からランス垂民に宛おお手玙を送り、その䞭で「忠実で愛すべき友を芋捚おるこずはない」ず玄束しおいる。

 ゞャンヌは、ロワヌル川方面ぞの撀退蚈画に぀いおたったく疑っおいなかったようだ。

 したがっお、ランス垂圓局がゞャンヌに手玙を送っおいないこず、たたゞャンヌが王の評議䌚軍議に加わっおいないこずは明らかである。

 ただし、ゞャンヌは、囜王がブルゎヌニュ公ず15日間の䌑戊協定を結んだこずを把握しおおり、そのこずをランス垂民に䌝えおいる。

 しかし、この䌑戊は、圌女にずっお䞍愉快なもので、それを守るかどうか疑念を抱いおいる。
 仮に、ゞャンヌがそれ䌑戊協定を守るずしおも、それは王の名誉のためだけに過ぎず、それ䌑戊協定に策略がないず確信する必芁がある。したがっお、ゞャンヌは囜王軍を統率し、䌑戊期間が明ける15日埌にはい぀でも進軍できるよう準備しおおく぀もりだず述べおいる。

 たた、手玙の結びで、ゞャンヌは町民に察しお「譊戒を怠らず、必芁があれば知らせおほしい」ず勧めおいる。

 以䞋が、ゞャンヌがランス垂民に送った手玙の内容である。

「良き友であり、愛するランス垂の
 善良で忠実なフランス人のみなさん。

 ゞャンヌ・ラ・ピュセルは、圌女の近況をみなさんに䌝え、
 王家の血筋のために圌女が守る正矩の倧矩を疑わないよう、
 みなさんに祈り、求めたす。

 そしお私が生きおいる限り、決しおみなさんを
 芋捚おるこずはないず誓い、保蚌したす。

 王がブルゎヌニュ公ず
 15日間の䌑戊協定を結んだこずは事実です。
 これにより、ブルゎヌニュ公は15日埌に
 パリ垂を平和的に明け枡すこずになっおいたす。

 ずはいえ、私がすぐにパリに入らないずしおも
 驚かないでください。
 なぜなら、この䌑戊は私の意に反するもので、
 私がそれを守るかどうかわかりたせん。

 仮に、䌑戊を守るずしおも、
 それは王の名誉を守るためだけであり、
 もっずいえば、圌らが王家の血筋を
 眠にかけるこずを蚱さないためです。

 協定が守られなかった堎合、
 15日埌にはい぀でも出陣できるよう、
 私は王の軍勢をたずめお維持する぀もりです。

 ですから、私の愛する完璧な友よ、
 私が生きおいる限り、䞍安に思わないでください。
 みなさんには、譊戒を怠らずによく芋匵り、
 王の良き郜垂をしっかり守るよう求めたす。

 もし害をなそうずする裏切り者がいれば
 私に知らせおください。
 私はできるだけ速やかに、
 みなさんの䞭から裏切り者を排陀したす。

 みなさんの近況を私に知らせおください。
 神にみなさんを委ねたす。
 神がみなさんを守っおくださいたすように。

 月日金曜日、プロノァン近郊[16]の田園
 たたはパリぞ向かう野営地で蚘す。

 宛先ランス垂の忠実なフランス人ぞ」[17]


1.3 ランス垂民の䞍安ずゞャンヌの手玙

 手玙の曞蚘を務めた修道士パスケレルが、口述された内容を忠実に曞き留め、ゞャンヌ・ラ・ピュセルの蚀葉そのもの、ロレヌヌ方蚀たで再珟したこずは間違いない。

 ゞャンヌは圓時、すでに英雄的な聖人ずしお最高朮に達しおいた。

 この手玙の䞭で、ゞャンヌは自分自身に超自然的な力を䞎えおおり、囜王ずその顧問ず隊長たちがこれに埓わなければならないず宣蚀しおいる。
 条玄の承認たたは砎棄する暩利をみずからにのみ垰属させ、軍隊の指揮暩も完党に掌握しおいる。そしお、倩の王の名においお呜じおいるため、ゞャンヌの呜什は絶察である。

⚠念のため補足ゞャンヌはそう思っおいるが、実際は違う。王も評議䌚も、軍の幹郚たちも、ゞャンヌが思っおいるほど暩限を䞎えおいないし、「声」の助蚀に圱響されおいない。

 神の䜿呜を蚗されたず自認するすべおの人に必然的に起こる珟象が、ゞャンヌにも生じおいる。

 すなわち、圌らは既存の暩力を超越する「䞊䜍の粟神的か぀䞖俗的暩力」をみずからに䞎え、それゆえ必然的に既存の暩力に敵察する存圚ずなった。

 これは危険な幻想であり、衝撃を䞎えるものだ。
 そしお、その衝撃で最も苊しむのは倧抵、啓瀺を受けた本人である



 聖人や倩䜿たちず暮らし、語り合い、勝利の教䌚倩囜の茝きの䞭で過ごす日々の䞭で、この若い蟲民の嚘ゞャンヌは、すべおの力、すべおの思慮、すべおの知恵、すべおの助蚀が自分の䞭に宿っおいるず信じるようになった。

 これはゞャンヌが知性に欠けおいたこずを意味するのではない。
 むしろゞャンヌは、「ブルゎヌニュ公が䜿節団を掟遣しお囜王を翻匄しおいる」こず、「シャルル䞃䞖は、華麗さに停装した狡猟さを心埗た君䞻ブルゎヌニュ公に欺かれおいる」こずを正しく芋抜いおいた。

 フィリップ公ブルゎヌニュ公は平和の敵だったわけではない。それどころか平和を望んでいたが、むングランドず公然ず争う事態を避けたいず考えおいた。

 ゞャンヌは、ブルゎヌニュずフランスの事情をほずんど知らなかったが、その刀断力は決しお鈍くなかった。

 フランス王ずむングランド王の立堎に぀いおは、争いの原因が「王囜の領有暩」にある以䞊、「䞡者の合意は䞍可胜」だず、ゞャンヌの考えは極めお単玔だが正確に理解しおいた。

 同様に、フランス王ずその最倧の家臣であるブルゎヌニュ公ずの関係に぀いおも、正確な芋解を瀺しおいる。「䞡者の和平は可胜」であり、望たしいだけでなく、盞互理解を築くこずが必芁䞍可欠であるこずを。

 ゞャンヌはすでに、「ブルゎヌニュずの和平」および「むングランドずの和平」に぀いお極めお率盎にこう述べおいる。
 前者に぀いおは、曞簡ず䜿節を通じお「囜王ず和解するように」ず芁求した。
 その䞀方で、埌者ず和平を結ぶ唯䞀の方法は、圌らが「祖囜むングランドぞ垰還する」こずであるず。[18]

1.4 䌑戊協定15日埌にパリを明け枡す玄束

 ゞャンヌをひどく䞍快にさせたこの䌑戊協定がい぀締結されたのか、正確な時期はわからない。月30日か31日に゜ワ゜ンかシャトヌティ゚リで、あるいは月日から日の間にプロノァンで結ばれたのか。[19]

 どうやら䌑戊は15日間続く予定で、その期間が終了したら、公爵はフランス王にパリを明け枡すず玄束しおいたようだ。

 乙女ゞャンヌ・ラ・ピュセルが䞍信感を抱いたのも圓然である。

 摂政が圌の前から退くむングランド軍が迫っおいるず聞いおいたが圓面の危機が去ったためず、シャルル王は本拠地ポワトゥヌぞの撀退蚈画を急いだ。

 王はラ・モットナンゞから、ちょうど降䌏したばかりのブレシュルセヌヌぞ宿営総監Quartermastersを掟遣した。

⚠宿営総監Quartermaster蚳語に迷っおいる。陞軍甚語ずしおは食料や物資などの兵站茞送を担圓する茜重兵の将官のこず。海軍・氎軍甚語ずしおは垆船の操舵手および船長に次ぐ副官のこず。
川沿いの行軍であるこずを螏たえるず、兵站ず宿営を差配する「宿営蚭営担圓」兌「先遣隊長」ずいったずころか。

 モントロヌの䞊流、プロノァンから南ぞ10マむルに䜍眮するこの町は、川に橋がかかっおおり、囜王軍は月日たたは日朝にこの橋を通過する予定だった。
 しかし、倜にむングランド軍が珟れお、補絊将官を倒しお橋を占拠した。
 退路を断たれた囜王軍は、進軍蚈画を諊めお匕き返さざるを埗なかった。[20]



 戊わないたた飢えに蝕たれ぀぀あったこの軍隊の䞭には、ゞャンヌが芪しみを蟌めお「王家の血筋」ず呌んだ者たちが率いる熱狂的な䞀掟が存圚した。[21]

 アラン゜ン公、ブルボン公、ノァンドヌム䌯、そしお「りんご荷の戊い」から戻ったばかりのバル公ルネ・ダンゞュヌだ。[22]

⚠りんご荷の戊い䞊巻・第四章の「4.1 老ロレヌヌ公ず嚘婿ルネ・ダンゞュヌ」を参照。

 ペランド倫人ペランド・ダラゎンのこの若い息子は、絵を描いたり道埳的な韻文詩を執筆する前は、戊士だった。バル公でありロレヌヌ公の埌継者でもあったため、これたではむングランド・ブルゎヌニュ軍に加わるこずを䜙儀なくされおいた。

 シャルル王の矩匟である圌は、王の勝利を圓然喜ばないわけがなかった。
 なぜなら、その勝利がなければ、ルネは姉である王劃の偎に立぀こずができなかったからであり、そのこずを非垞に残念に思っおいたからである。[23]

 ゞャンヌは圌を知っおいた。少し前、ロレヌヌ公に面䌚した時にルネ公もフランスぞ同行させるよう頌んでいた。[24]
 ルネはみずからの意志でゞャンヌに埓い、パリぞ向かった者の䞀人だったず蚀われおいる。

 その他に、ラノァル倫人の二人の息子、セルアンベリヌでゞャンヌがワむンを差し出しお「すぐにパリで飲たせおあげる」ず玄束した兄のギヌ・ド・ラノァルず、埌にロ゚アック元垥ずなる匟アンドレがいた。[25]

 これが「ラ・ピュセルの軍団」だった。ほずんど子䟛ず倉わらない若者たちの集団が、自分たちよりもさらに若く、より玔真で善良な少女の旗バナヌず䞊んで自分たちの旗を掲げたのである。

⚠補足著者アナトヌル・フランスは「ほずんど子䟛ず倉わらない若者たちの集団」ず述べおいるが、ブルボン公圓時はただクレルモン䌯はシャルル䞃䞖よりも歳幎䞊。
぀たり、囜王も圌らずそれほど倉わらない幎霢だが、過酷な生い立ちゆえか実幎霢よりも成熟か぀慎重な性栌で、ゞャンヌに察しお優しさを芋せ぀぀も熱狂する様子はなく、い぀も冷静に察応しおいる印象。

 ポワトゥヌぞ戻る退路が断たれたず知るず、これらの若き王子たちは倧いに満足し、喜んだず蚀われおいる。[26] これは勇敢さず熱意の衚れだ。

 しかし、王宀の評議䌚が和平を望んで亀枉しおいるにもかかわらず階士団は戊うこずを望み、そしお階士団が「敵による戊争の長期化」ず「囜王軍がゎドンむングランドに察する蔑称に远い詰められおいる」こずを喜んでいる状況は、奇劙な立堎であり、誀った芋方だった。

 残念ながら、この奜戊的な掟閥には有胜な支持者がいなかった。奜機は倱われ、摂政ベッドフォヌド公は軍勢を集め、差し迫った危機に察凊する時間を䞎えおしたった。[27]

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