【特集】日本陸軍の戦間期北欧諸国での諜報活動史(Vol.9)
1933年5月31日、日本と中国の間で塘沽(タンクー)停戦協定が締結され、1931年9月に始まった満州事変は終結しました。日中間に一応の和平は為されましたが、4年後の1937年には日中戦争という形で全面戦争が勃発します。
塘沽停戦協定は実現したものの、既に同年2月24日には国際連盟において、日本軍の満洲撤退勧告案が42対1で可決され、これを受け入れられない日本は松岡代表が堂々の退場を行い、この後国際連盟を脱退。1ヵ月後の3月24日にはドイツで全権委任法が可決され、ナチ党の一党独裁やヒトラーの個人崇拝が進んで行きます。世界恐慌から始まったファシズムの拡大は止まるところを知りませんでした。
1. フィンランドへの初の武官派遣案
1933年4月8日、外務省は陸軍参謀本部からの依頼でフィンランドへの武官派遣を決定した旨の報告書をまとめました。
それに依れば、「1933年3月末、陸軍参謀本部第二部(情報)ロシア班員の藤塚止戈夫(ふじつか・としお)少佐が外務省の西欧米局第一課長に対し、陸軍がフィンランドに武官を駐在(常駐か兼任かは未定)させる意向を伝えた」とあります。
この案は受け入れられ、1934年4月16日には初の日本陸軍フィンランド駐在武官として寺田済一(てらだ・せいいち)少佐が任命されました。
2. 日本陸軍ラトビア駐在武官の交代
1933年8月1日、日本陸軍の第二代ラトビア駐在武官として大内孜(おおうち・つとむ)少佐が任命されました。初代武官の川俣少佐は離任することとなり、ラトビア軍だけでなく、北の隣国エストニア軍やフィンランド軍参謀本部にも離任の挨拶状をしたためていました。川俣はラトビア在勤中に度々、フィンランドを訪問しており、ソ連との国境であるカレリア地方などを視察し、同国の反ソ感情の強さや日本が対ソ戦に踏み切った場合、フィンランドが協力的姿勢を採るであろうことを陸軍参謀本部に報告していました。

大内のラトビア到着前、フィンランド軍参謀本部はポーランド駐在武官の柳田元三(やなぎだ・げんぞう)中佐にもソ連国境近くのラッペンランタを視察するよう案内を出しており、日本陸軍に対して様々な手段で武官派遣を促していました。
1933年8月29日、第二代ラトビア駐在武官として大内少佐が赴任。大内は騎兵出身の快活な性格で、特に北の隣国エストニア軍で「パッツのクーデター」以降、頭角を現していた同じく騎兵出身のグスタフ=ヨンソン(Gustav Jonson)将軍とは気が合ったようです。

3. 日本陸軍の対ソ謀略始動
また、この頃から1932年に日本陸軍が策定した対ソ謀略の為にバルト三国等との親善を深め、謀略に活用する案が始動しました。きっかけは日本陸軍の対ソ謀略計画本部が置かれていたフランスがソ連との協調路線に入り、1933年10月末にドイツでのナチ党独裁に危機感を感じた当時の仏外相パウル・ボンクールとソ連外相リトヴィノフがパリで会談し、仏によるソ連の国際連盟加盟支持を条件に仏ソ同盟に向けた協力関係確立で合意したことでした。
ナチスドイツは1935年3月に「再軍備宣言」を行って徴兵制を復活させ、これに更なる危機感を覚えた仏ソは同年5月に「仏ソ相互援助条約」という形で国際連盟の枠組みの中で、相互防衛に努める旨の条約を締結しました。
仏ソの提携に驚いた日本陸軍はパリに置かれていた対ソ謀略計画本部を急遽、ナチスドイツの首都ベルリンに移転しました。この後、第二次世界大戦に至るまで日本陸軍はベルリン、そしてポーランドの首都ワルシャワを中心に対ソ謀略を展開していくことになります。

