【特集】日本陸軍の戦間期北欧諸国での諜報活動史(Vol.4)
世界的な好景気が続いた1920年代も終わりに差し掛かるにつれ、世界恐慌の発生などを経て世界情勢にも徐々に暗雲が漂うようになってきます。
1.小松原道太郎のソ連赴任
1927年2月22日、大尉時代にエストニアへの駐在を経験した小松原道太郎中佐がソ連駐在武官としてモスクワへ赴任しました。赴任から約7ヵ月後、東京の陸軍参謀本部からある機密文書が小松原のもとへ届けられました。
「参密第908号」と呼ばれる命令書で、陸軍参謀次長から小松原へ、対ソ戦に備えての諜報・特殊工作用人物・団体の調査を指示する内容でした。参謀本部内でいつ頃始まったのかは定かではありませんが、日露戦争時の明石工作(スウェーデンを拠点にフィンランド人やラトビア人などロシア領内の少数民族に蜂起等を促し、独立運動を支援することで戦局を日本に有利に導こうとした工作)に範をとり、もし対ソ戦が勃発した際にはソ連領内の少数民族を支援し、ソ連を内部から攪乱するという工作がこの後も準備されていくことになります。
ところで、この小松原はソ連のスパイだったという説があり、主な提唱者はインディアナ大学の黒宮広昭先生(筆者も研究上で何度かやり取りをさせていただいたことがあります)で、小松原がソ連駐在武官の後に満州のハルビンで日本陸軍の特務機関長を務めていた際には大量の機密文書がソ連側へ漏洩した疑惑があるそうです。
小松原がソ連の情報機関にリクルートされた時期については諸説ありますが、恐らくソ連駐在武官時代では無かったかと思われます。当時のソ連は建国の父レーニンが1924年に死去した後、権力を奪取したスターリンもまだ盤石の体制では無く、日本陸軍ポーランド駐在武官の樋口季一郎のソ連国内旅行を特例的に認めるなど、スターリンが完全な独裁者と化し秘密警察による支配が確立した1930年代に比べると、まだ緩い時代でした。
それでも、ソ連の情報機関(当時はOGPU)のソ連在住外国人に対する工作は凄まじく、特に女性を使ったハニートラップの伝統はこの時期には既にある程度の成果を上げるに至っていました。
2. 小柳喜三郎海軍大佐の死
1928年7月、日本海軍ソ連駐在武官の小柳喜三郎大佐は在モスクワのラトビア大使館に対し、ラトビア国内のリガやヴェンツピルスといった港湾の秘密裏での視察を目的に入国許可の要請をしました。小柳は翌8月にラトビアに入国したとみられており、8月末にはポーランドのコヴノ(現在のリトアニア領カウナス)経由でモスクワへ列車で戻ったことが新聞で報じられていました。

同年9月には日本・ラトビア通商航海条約が相互有効化したことから、小柳のラトビア訪問は両国国民の往来や貿易について定めた同条約関連の視察だった可能性もありますが、そうであれば秘密裏に訪問する必要性は殆ど無く、小柳の訪問目的は謎のままですが、いずれにせよ、この行動は小柳を監視下に置いていたソ連情報機関の不興を買った可能性がありました。
小柳は翌29年3月、在ソ連日本大使館内の自分のオフィスにて、短剣で自害しているのが発見されました。表面的な原因としては自身のロシア語教師として雇っていた女性に対し暴力を働き、これが日ソ間の国際問題に発展したことを悔いての自害でした。しかし、ポーランド情報部はこの女性がソ連情報機関のアセット(資産)であることを日本側に通報しており、小柳の自宅でのパーティーに招かれた際に小柳を侮辱するような発言を繰り返し、これに怒った小柳と論争になった事実を女性側が「小柳に椅子を投げつけられた」などと誇張したことから国際問題に発展したのでした。
女性問題は在ソ連日本大使館の陸海軍武官団にその後も付き纏い、ある女性とディナー後にチェックインしたホテルで、常に身に着けていた武官室の金庫の鍵を女性に盗まれるなどの事態が相次ぎました。小柳の事例を踏まえ、自身のキャリアに影響が出ることを恐れた武官団は上官である駐在武官に対して事態の発生を隠し、上官もまた隠蔽に協力したと伝わっています。
