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【特集】日本陸軍の戦間期北欧諸国での諜報活動史(Vol.3)


1921年、ロシア内戦は最終盤を迎えていました。ソヴィエト・ロシアに対抗してきた白軍最後の最大勢力であるウラーンゲリのロシア軍は1920年11月の赤軍によるクリミア半島攻略によって敗れ、極東方面ではこの時までロシア(シベリア)への出兵を継続していたのは日本だけでした。

その日本も、1921年11月のワシントン会議の席上、日本側首席全権である加藤友三郎海軍大臣が日本のシベリアからの撤兵を確約。翌22年6月23日、内閣総理大臣として組閣した加藤は閣議の中で、10月末までにロシアからの撤兵を決定し、日本政府声明として発表されました。

1. 日本陸軍のエストニアでの対ソ情報収集活動の終焉

1921年7月、小松原道太郎大尉はロシア駐在武官補佐官の任を解かれ、日本への帰国の途に就きました。上司である小畑敏四郎少佐も翌22年2月までにエストニアの住居から完全に退去してベルリンへ戻り、小松原の後任である安藤麟三(あんどう・りんぞう)大尉が同月にタリンに到着しました。しかし、安藤も同年6月にはベルリンへの転任が決まり、エストニアにおける日本陸軍の対ソ情報収集活動は幕を閉じました。そうこうしている内に日本のシベリア出兵は終了し、ロシア内戦はソヴィエトの勝利で終結し、22年12月30日にはロシア、ウクライナ、ザカフカース、ベラルーシから成る「ソヴィエト社会主義共和国連邦」(ソ連)が誕生しました。

一応、ベルリンへ転任した安藤と連絡を保つよう、エストニア外務省は申し入れを受けたものの、その後の記録が見当たらないことから繋がりはほぼ失われたと思われます。

日本陸軍が1919年から22年までの3年間のエストニアでの対ソ情報収集活動で得た成果はエストニア経由でソヴィエトから出入りする貨物の情報や真偽不明な各種情報が多く、華々しいものはありませんが、10数年後に日本陸軍がエストニア軍情報部と共同で行う対ソ工作の基礎を作ったという点では一定の評価を与えるべきだと思います。

他に、アメリカ共産党系の在米日本人から、ソヴィエト・ロシアに亡命中の日本人社会主義者への手紙を経由地のエストニアで盗読することに成功し、手紙の中身は小畑の手によって東京に報告された事例があり、当時、社会主義を世界に広める目的でソヴィエトが設立した国際組織「コミンテルン」が活動を活発化させていたこともあり、その実態の一部を明らかに出来たという点で成果と言えると思います。

2. 陸軍若手将校らの語学留学先としてのリガ

エストニアにおける対ソ情報収集活動は終了しましたが、バルト三国地域全体と日本陸軍の関係が完全に失われたわけではありませんでした。

1923年6月9日、エストニアの南の隣国ラトビア、その首都リガに日本外務省の「リガ外交官出張所」が開設されました。代表は上田仙太郎一等書記官で、この人物はロシア帝国時代にペテルブルク大学法科を卒業したエリートで日露戦争時には在スウェーデン武官の明石元二郎の秘書として対ロシア謀略に係わっていました。

1925年に在リガ外交官出張所が移転した、リガ市内のAndreja Pumpura iela 6番地。

24年3月10日、ベルリンから1人の若者が上田を訪ねて来ました。彼の名前は清水規矩(しみず・のりつね)。清水は陸軍大学校を卒業したばかりの大尉で、欧州での語学留学中でした。清水大尉は上田に対し、ベルリンに戻った日本陸軍ロシア駐在武官(小畑も既に離任しており、当時は橋本虎之助中佐)が対ソ情報収集の観点からリガに移りたがっている旨を伝えました。これを聞いた上田は「リガには日本外務省の正式な在外公館(大使館や公使館)もまだ出来ていないのに、その公館所属となるべき駐在武官だけを送り込むのは言語道断」として拒絶しました。

確かに駐在武官の派遣は現地政府の許可を得た上での正式な在外公館の設置と大使・公使の派遣、そして現地政府への天皇陛下の認証を受けた信任状の提出といった一連の外交的手順を行った上で本来進めるべき案件であり、筋としては通っていましたが、既にエストニアへ在外公館の設置無しで、小松原や小畑を駐在させていた実績を知っていたであろう清水としては面食らったと思われます。いずれにせよ、この後、清水大尉はロシア語の語学留学を行うため、ベルリンからリガに移り、1926年4月までの約2年間を現地で過ごしました。

清水規矩の生まれ故郷の福井県武生市(現在の越前市)中心部。

リガへの武官派遣を望んだのは陸軍だけではありませんでした。日本海軍もまた、1924年6月にポーランド駐在海軍武官の池中健一(いけなか・けんいち)中佐をリガに派遣しました。海軍省もまた武官のリガ常駐を望んでおり、「池中中佐を(大使や公使抜きでの)ラトビア現地における『独立した外交代表』として扱えないか」と陸軍以上の要求をしていました。外務省はやはりこの要請を拒絶しましたが、池中中佐は翌25年1月に日ソ基本条約が締結され、日本とソ連の国交が樹立されソ連への入国が可能になった同年6月までリガに駐在しました。

陸軍・海軍武官のリガ派遣が失敗に終わった一方、陸軍の語学留学先としてのリガは大いに活用されており、清水大尉の後任として1926年3月には河辺虎四郎(かわべ・とらしろう)大尉がリガへやって来ました。河辺もまた2年程リガに住み、ロシア語を学びました。

河辺と同時期に柳田元三(やなぎだ・げんぞう)大尉もバルト三国地域へ派遣されており、在ソ連日本大使館は現地のエストニア公使館に対して、柳田大尉のエストニア・ラトビア・ポーランドへの合計2年間の留学を通知しました。第二次世界大戦後、ソ連の捕虜となった柳田の同地における供述調書は極東国際軍事裁判(東京裁判)で証拠として提出されており、その中でエストニアにおける留学生活については「文献を読み漁っていた」と書かれているのみで、これは河辺の回想とも合致し、実際、語学や一般的な軍事知識の習得に集中していたと思われます。

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