【特集】日本陸軍の戦間期北欧諸国での諜報活動史(Vol.5)
今回は1920年代最後の年である1929年における、日本陸軍の北欧諸国での諜報活動の歴史を追います。
1. ベルリンに於ける在欧武官会議と今後の対ソ情報戦略
小柳海軍大佐のモスクワでの自害から約1ヵ月後の1929年4月9日から10日にかけて、ドイツの首都ベルリンでは日本陸軍の在欧州武官が一堂に会しての「在欧武官会議」が開催されました。
出席者はドイツ駐在武官の大村有隣少将、フランスの中岡弥高少将、イギリスの前田利為大佐、ポーランド(兼ラトビア)の鈴木重康大佐、ソ連の小松原道太郎大佐、オーストリアの山下奉文中佐、トルコの橋本欣五郎少佐の7名で、欧州を歴訪中の陸軍参謀本部前第二部(情報)部長の松井石根中将が主宰でした。
初日のテーマはソ連情勢の分析で、松井が出した日本政府の対ソ連政策案の叩き台について討議した後、ソ連駐在武官の小松原がソ連情勢について説明し終わったとされています。

実は初日に討議されたソ連関連事項に関する議事録はその一部が何らかの手段でソ連情報機関の手に渡っており、第二次世界大戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)でソ連側から証拠として提出されています。
その中から北欧に関する部分だけを抜き出すと、以下の点がありました。
従来の経験に鑑み、ポーランド駐在武官のバルト三国駐在武官兼任に関する所見
【ポーランド駐在武官・鈴木大佐】列強各国はラトビアの首都リガに武官を置き(フランスはラトビア駐在武官枠を廃止)、日本陸軍もリガに武官を「分駐」するのが良い。
【ソ連駐在武官・小松原大佐】ソ連国内にいる諜報任務を帯びた駐在武官のうち、エストニアの武官が最も活躍している。これは米英の支援が背景にある。
【ソ連駐在武官・小松原大佐】ラトビアの政策はポーランドや英国等によって常に操縦されており、間断無く動揺している。日本陸軍の謀略にとって利用すべき価値は高い。
【ソ連駐在武官・小松原大佐】ソ連国内における軍事諜報はポーランド及びエストニアの駐在武官が最も活躍している。
既にソ連国内では同年1月31日にスターリン最大のライバルであったレフ=トロツキーが国外追放されており、スターリンの独裁体制確立に向けた地盤作りが加速していました。しかし、ソ連の国力はまだ列強のそれに及ばず、軍事的・経済的な力を蓄える時間稼ぎの為、ソ連は同年にエストニアやラトビア、ポーランド等との間に「リトヴィノフ議定書」と呼ばれる、戦争を国家政策の手段として放棄する国際平和条約の一種を締結しました。そして、欧州でソ連が周辺諸国との表向きの協調路線に入ったのを後目に、極東では日本、中華民国(中国)、ソ連間の軍事的緊張が続いていました。
2. 奉ソ戦争と日本陸軍への影響
ソ連の建国後、同国と初めて矛を交えたアジアの国は実は中国でした。1920年代末、張学良率いる軍閥「奉天派」が支配していた中国東北部の満州にはロシア帝国や清朝の時代に建設された東清鉄道と呼ばれる鉄道が走っていました。この鉄道はソ連にも管理権があり、中華民国に恭順しつつ満州を実効支配していた奉天派との間で紛争の種となっていました。
1929年5月27日、奉天派の警察はハルビンにあるソ連領事館を家宅捜索。ソ連の対中国工作に係る機密文書や日本の円硬貨の偽造品などの証拠を発見したとされています。

これに激怒したソ連政府(政治局)は、8月2日に極東地域での軍事作戦を担当する「特別極東軍」の創設とヴァシーリー=ブリュッヘル将軍の同軍司令官就任を布告しました。
10月2日にはついに戦端が開かれ、特別極東軍が松花江で奉天軍の艦隊を攻撃。翌11月には国境の満州里を越えて、特別極東軍が奉天派領内への侵攻を開始しました。列強に遅れを取っていたとはいえ、当時のソ連は軍事的には大国の1つで、工業化が遅れていた満州を支配する奉天派はやはり一軍閥に過ぎず、特別極東軍は各地で奉天軍を次々に撃破。これには、鉄道路線の守備に固執した奉天軍が機動力に勝っていた特別極東軍に次々に包囲される影響もありました。11月26日には特別極東軍がハイラルを占領し、もはや勝ち目が無くなった奉天軍はソ連との停戦に合意しました。
この「奉ソ戦争」と呼ばれる戦争の日本陸軍への影響については諸説ありますが、日本が過去に支援していた奉天派があっさりとソ連軍に敗れた件はもはや満州の支配を奉天派に委ねていたのでは、日本にとっても悪影響しかないと映ったようです。また軍事的にはまだ弱小とみていたソ連軍が機動力を活かして奉天軍を次々に撃破していった様子は、ソ連を主敵とする日本陸軍にとっては軍事的脅威と判断されたという説もあります。
この後、1931年には満州駐屯の日本陸軍部隊である関東軍が蜂起し、満州一帯を占領する満州事変が起き、その後、日本の傀儡国家である満州国の建国へと繋がっていきました。
