【特集】日本陸軍の戦間期北欧諸国での諜報活動史(Vol.10)
1932年に策定された対ソ謀略計画に基づき、日本陸軍はまず北欧諸国の軍部との親善を図ることとなりました。将来的には日本陸軍の対ソ謀略に協力してもらうことが目的で、まずは各国軍への留学生派遣から始まりました。
1. 北欧諸国への日本陸軍からの留学生(隊附)派遣
1933年末から34年初頭にかけて、日本陸軍の若手将校3名がフィンランド、エストニア、ラトビアの各国軍に留学し(日本陸軍ではこれを「隊附」と呼んでいました)、対ソ謀略への協力を求める上でまず親善にあたらせることとなりました。
このうちフィンランドに派遣された土居明夫、エストニアの島貫忠正については史料が多く現存しており、下記の2つの記事で留学時代の話を取り上げました。
ラトビア軍に留学した谷川一男についてはほとんど史料が残っておらず、ラトビアでの史料調査でもついぞ留学生活については解明することが出来ませんでした。
2. エストニア軍参謀本部第二部C課によるソ連潜入工作
島貫忠正がエストニア空軍に留学していた1933年末から34年頃、エストニア軍参謀本部の情報機関である「第二部」、そしてその中でも対ソ秘密工作を担当していたC課(表向きはソ連の兵用地誌研究部署)は33年末に同課所属の委託調査員であるアウグスト=キヴィサク(August Kivisäk)にエストニア・ソ連国境からの諜報員潜入ルート開拓を命じました。キヴィサクはこの任務を果たし、ソ連国境警備隊の警備が手薄なルートを発見し、陸路でソ連へ諜報員を送る道筋をつけました。
その後、C課はキヴィサクをエストニア近辺のソ連の街プスコフにおけるエストニア軍情報部の潜入諜報部隊の長に任命し、遠く離れたソ連第二の都市レニングラードにも協力者を確保し、ソ連軍の動向を探りました。
しかし、キヴィサクと配下の諜報員たちは1935年11月末、ソ連秘密警察によるプスコフ市内のセーフハウス襲撃によって命を落とし、エストニア軍情報部のソ連国内における諜報網は壊滅しました。
人間を用いた諜報活動のことをHUMINT(人的諜報活動)と呼びますが、この後、エストニア軍情報部はソ連国内の警戒態勢が上がったことも理由にHUMINTを縮小し、ソ連の軍事通信や外交通信を傍受し解読する無線諜報に注力していくことになります。一方で、ソ連の軍事通信は同国内ではほとんどが電話線を用いる有線で行われており、国外からの傍受は極めて困難でした。唯一、例外的だったのはソ連海軍で、クロンシュタットを母港とするバルチック艦隊は一度、海に出てしまえば無線通信を用いるしかなく、エストニア軍情報部はフィンランド軍などと協力して、バルチック艦隊の通信をほとんど解読することに成功していました。
1937年にはエストニア軍情報部内に無線諜報を担当する「D課」が新設され、ナチスドイツとの協力関係の下にテレフンケンなど当時最新鋭の無線傍受機器が多数導入され、ソ連の軍事通信(まだ有線が主だが、戦車部隊などとの連携の為に無線通信も整備され始めていた)の傍受・解読を重視することになりました。
