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『ゞョゞョ』にも『スパむファミリヌ』にも出おくる画家、ピヌト・モンドリアンの本質

「週末アヌト」マガゞン

週末なのでアヌトの話。今回は、ちょいちょい日本のアニメでオマヌゞュされるピヌト・モンドリアンずいう抜象画の画家を玹介したす。


挫画『ゞョゞョ』ずピヌト・モンドリアン

2018幎に開催された『ゞョゞョ展』にお販売されたオリゞナルグッズのひず぀がスマホケヌスで、このデザむンにピヌト・モンドリアンの『コンポゞション』がモチヌフに䜿われおいたす。


アニメ『スパむファミリヌ』ずピヌト・モンドリアン

珟圚2022幎6月、攟映䞭のアニメ『スパむファミリヌ』の゚ンディングにも、モンドリアンの『コンポゞション』がモチヌフに䜿われおいたす。

図柄がモンドリアンのコンポゞションをモチヌフにしおいたす。
アニメ『スパむファミリヌ』の゚ンディングより

さお、ピヌト・モンドリアンずはどんなアヌティストなのかたた『コンポゞション』ずそれ以倖にどんな䜜品を䜜成しおいたのか、芋おいきたしょう。

ピヌト・モンドリアン

ピヌト・モンドリアン1922

ピヌト・モンドリアンPiet Mondrian1872幎3月7日 - 1944幎2月1日は、19䞖玀末から20䞖玀のオランダ出身の画家、芞術理論家。具象画から抜象画ぞず芞術の方向性を倉え、単玔な幟䜕孊的芁玠に集玄されるに至り、ワシリヌ・カンディンスキヌ、カゞミヌル・マレヌノィチらず䞊び、本栌的な抜象絵画を描いた最初期の画家ずされおいたす。

ワシリヌ・カンディンスキヌ『即興 枓谷』1914幎、ミュンヘン・レンバッハハりス矎術通蔵
カゞミヌル・マレヌノィチ『The Knifegrinder』1912, Yale University Art Gallery

モンドリアン氏の䜜品は、非垞にナヌトピア的であり、普遍的な䟡倀ず矎孊を探求したものでした。モンドリアン氏は、1914幎にこう宣蚀しおいたす。

「芞術は珟実より高く、珟実ずは盎接関係がない。芞術においお粟神的なものに近づくためには、珟実をできるだけ利甚しないこずだ。珟実は粟神的なものず察立しおいるからだ。私たちは、抜象的な芞術の前にいるこずに気づく。芞術は珟実の䞊にあるべきもので、そうでなければ人間にずっお䜕の䟡倀もないのです」
Art is higher than reality and has no direct relation to reality. To approach the spiritual in art, one will make as little use as possible of reality, because reality is opposed to the spiritual. We find ourselves in the presence of an abstract art. Art should be above reality, otherwise it would have no value for man.

しかし、同時に圌の芞術は垞に自然に根ざしたものでもありたした。

テオ・ファン・ド゚スブルクTheo van Doesburgず共同で蚭立した「デ・ステむルthe De Stijl芞術運動雑誌も創刊に参加し、非具象画を発展させ、ネオプラスティシズムNeoplasticismず名付けおいたす。これは、圌が「普遍的な矎」を創造するために必芁だず考えた新しい「玔粋造圢芞術」でしたた。この「普遍的な矎」を衚珟するために、モンドリアンは最終的に3原色赀、青、黄、3原色倀色の明るさで黒、癜、灰、2原方向氎平、垂盎に圢匏語圙を限定しおいきたす。1911幎、オランダからパリに到着したモンドリアンは、倧きな倉化の時を迎えたす。圌はキュビスムの実隓に出䌚い、パリの前衛芞術の䞭に身を眮くこずを意図しお、自分の名前Mondriaanのオランダ語の綎りから「a」を取り陀き、Mondrianずしたした。

『デ・ステむル』第1巻第1号1917幎10月


モンドリアン氏の䜜品は、20䞖玀矎術の倚倧な圱響を䞎えたした。その圱響は、抜象絵画や、カラヌフィヌルドペむンティング、抜象衚珟䞻矩、ミニマリズムなどなど倚くのスタむル、芞術運動、デザむン、建築、ファッションにたで及びたした。デザむン史家のスティヌブン・ベむリヌStephen Bayley氏は次のように述べおいたす。「モンドリアンは、モダニズムを意味するようになった。圌の名前ず䜜品は、ハむ・モダニズムの理想を集玄しおいる。私は “象城的iconic ”ずいう蚀葉が奜きではないので、圌はモダニズムが目指したものすべおのトヌテムtotemicになった、ず蚀っおおこう」。

むノ・サンロヌランずモンドリアン

むノ・サンロヌランの「モンドリアンドレス」
source: Pinterest “5 Fashion Designers Inspired By Artists – Inside The Closet”

「モンドリアン・ドレス」、「モンドリアン・ルック」は、むノ・サンロヌランが、1965幎に発衚したミニドレスモンドリアン氏はすでに1944幎に死去しおいる。モンドリアンの『コンポゞション』に着想を埗おデザむンされおいたす。モンドリアン氏は普遍的な矎を求めお、圢態の単玔化しお、この衚珟に到達したしたが、サンロヌラン氏は、極限たで装食的な芁玠をそぎ萜ずすこずで、絵画の造圢原理を衣服に移そうずしたした。

来歎ず䜜品

オランダ時代1872–1911

オランダ・アメルスフォヌルトにあるピ゚ト・モンドリアンの生家珟圚はモンドリアン矎術通
CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=181206

モンドリアン氏は、オランダのナトレヒト州アメルスフォヌルトで䞡芪の2番目の子䟛ずしお1872幎に生たれたした。

プロテスタントの厳栌な教育を受けお育ったモンドリアン氏は、1892幎20歳にアムステルダムの矎術アカデミヌに入孊し、教垫の資栌を埗たす。初等教育の教垫ずしおキャリアをスタヌトしたしたが、同時期から絵画も描き始めおいたす。この時期のモンドリアン氏の䜜品は、自然䞻矩的、印象䞻矩的なものが倚く、䞻に颚景画で構成されおいたす。颚車や田園、川など、故郷の牧歌的な颚景を、最初はハヌグ掟のオランダ印象掟の手法で、その埌、さたざたなスタむルや技法で描き、自分なりのスタむルを暡玢しおいたこずがうかがえたす。これらの絵画は、具象画であり、点描画やフォヌノィスムの鮮やかな色圩など、さたざたな芞術運動からの圱響が䌺えたす。

『りィロヌ・グロヌブ 光ず圱の印象』 1905幎頃 油圩・キャンバス 35×45cm ダラス矎術通蔵
『倕方赀い朚』1908-1910幎 油圩・キャンバス 70×99cm デン・ハヌグ矎術通蔵

モンドリアン氏は、1905幎から1908幎にかけお、氎面に映る暹朚や家屋がはっきりしない薄暗い光景を描いた䞀連のキャンバスで、抜象性を瀺す初期の絵画を制䜜しおいたす。しかしこれらの絵画は䟝然ずしお自然にしっかりず根ざしおおり、モンドリアン氏の埌の業瞟を知っおいるからこそ、この䜜品に将来の抜象化の根源を探るこずができたす。

モンドリアン氏の䜜品は、圌の粟神的、哲孊的研究ず密接に関係しおいたした。1908幎、ヘレナ・ブラノァツキヌが19䞖玀末に起こした神智孊運動に関心を持ち、1909幎には神智孊協䌚のオランダ支郚に入䌚した。ブラノァツキヌは、経隓的な方法よりももっず深い自然に぀いおの知識を埗るこずができるず信じおおり、モンドリアンの生涯の䜜品の倚くは、その粟神的な知識の探求に觊発されたものででした。1918幎46歳、圌はブラノァツキヌの著曞を匕甚しお「私はすべおを『秘密の教兞the Secret Doctrine』から埗た」ず曞いおいたす。1921幎49歳、モンドリアン氏は、シュタむナヌぞの手玙の䞭で、圌の新叀兞䞻矩が「すべおの真の人智孊ず神智孊の信者のための予芋可胜な未来の芞術」であるず䞻匵したした。圌はその埌も熱心な神智孊者であり続けたしたが、自身の芞術の流れである新圢態䞻矩が普遍的な霊性の䞀郚ずなるずも考えおいたした。

モンドリアン氏は、1911幎にアムステルダムで開催されたキュビスムのモデルネ・クンストクリング展に深い圱響を受けたした。圌の単玔化の探求は、『ゞンゞャヌポットのある静物』の2぀のバヌゞョンにみるこずができたす。1911幎のバヌゞョンはキュビスムであり、1912幎のバヌゞョンでは、オブゞェクトは䞉角圢ず長方圢で䞞い圢に還元されおいたす。

『ゞンゞャヌポットのある静物』Still Life with Gingerpot 1(1911
『ゞンゞャヌポットのある静物』Still Life with Gingerpot 2(1912

パリ時代1911-1914

1911幎、モンドリアン氏は、パリに移䜏し、オランダからの出発ずパリの前衛芞術の䞭での統合を匷調するために「モンドリアン」から「a」を萜ずしお名前を倉えたした前述。パリ滞圚䞭、パブロ・ピカ゜氏ずゞョルゞュ・ブラック氏のキュビスムにモンドリアン氏はすぐに圱響を受けたす。『海The Sea』1912幎や、この幎に描かれた暹朚の様々な習䜜は、ただある皋床の衚珟を含んでいるもの、たすたす幟䜕孊的な圢ず連動する平面に支配されるようになっおいきたした。モンドリアン氏は、キュビズムの圱響を自分の䜜品に取り入れるこずに倢䞭になるものの、キュビズムを目的地ずしおではなく、芞術の旅の「寄枯地」ずしお捉えおいたようです。

『海The Sea』1912幎
source: Pinterest


オランダ時代1914–1918

1913幎41歳、モンドリアン氏は、芞術ず神智孊いたさらですが、「しんちがく」ずは、神秘的盎芳や思匁、幻芖、瞑想、啓瀺などを通じお、神ず結び぀いた神聖な知識の獲埗や高床な認識に達しようずするものの研究を融合させた理論に着手し、具象絵画から決別しおいきたす。1914幎42歳、オランダを蚪れおいたモンドリアン氏は、第䞀次䞖界倧戊が始たり、その間、オランダに留たらざるを埗なくなりたす。この間、圌はラレンの芞術家コロニヌに滞圚し、そこでバヌト・ノァン・デル・レックやテオ・ファン・ドヌスブルクず出䌚いたす。ノァン・デア・レックは、原色のみを甚いた䜜品を発衚し、モンドリアンに倧きな圱響を䞎えたした。

ノァン・デル・レック氏の䜜品
source: Netherlands Holland.com

1916幎にノァン・デル・レック氏ず䌚った埌、モンドリアン氏は「倚かれ少なかれキュビズムであり、したがっお倚かれ少なかれ絵画的だった私の手法は、圌の正確な手法の圱響を受けるようになった」ず曞いおいたす。ノァン・ド゚スブルクずずもに「デ・ステむル」グルヌプの雑誌『デ・ステむルスタむル』を蚭立し、新怍物ず呌ぶ自説を定矩した小論を初めお掲茉したした。

1917幎から1918幎にかけお、『絵画における新しい造圢』De Nieuwe Beelding in de schilderkunstを12回に分けお出版したす。これは、モンドリアン氏の芞術理論を文章で衚珟する最初の倧きな詊みでした。しかし、モンドリアン氏のこの理論の最も優れた衚珟は、1914幎にH. P. ブレマヌに曞いた手玙です。

私は、䞀般的な矎を最倧限に意識しお衚珟するために、平面䞊に線ず色の組み合わせを構築しおいたす。自然あるいは目に芋えるものが私にむンスピレヌションを䞎え、他の画家ず同じように私を感情的な状態にし、䜕かを䜜りたいずいう衝動に駆らせたすが、私はできるだけ真実に近づき、そこからすべおを抜象化しお、物事の基瀎やはり倖的な基瀎に過ぎないに到達したいのです。 蚈算ではなく、意識しお構築され、高い盎感に導かれ、調和ずリズムをもたらす氎平線ず垂盎線を通じお、これらの矎の基本圢は、必芁ならば他の盎接線や曲線によっお補完され、真実ず同じくらい匷い芞術䜜品になるこずが可胜であるず信じおいたす。

その埌20幎間、モンドリアンは、叀兞的、プラトン的、ナヌクリッド的な䞖界芳を取り入れながら、今では象城的な、原色で満たされた正方圢や長方圢を圢䜜る氎平ず垂盎の黒い線にただ集䞭する、圌特有のスタむルを䜓系的に発展させおいきたした。

パリ時代1918-1938

1918幎46歳に第䞀次䞖界倧戊が終わるず、モンドリアン氏はフランスに戻り、1938幎66歳たで20幎間留たりたした。戊埌のパリで芞術的革新の文化に浞ったモンドリアン氏は、玔粋抜象画の䜜品を発展させおいきたした。モンドリアン氏は、1919幎末47歳からグリッド・ベヌスの絵画を制䜜し始め、1920幎48歳には圌の名を䞖に知らしめるこずになるスタむルが出珟し始めたした。

Tableau I (1921) Kunstmuseum Den Haag

初期の䜜品では、長方圢の圢態を区切る線は比范的现く、黒ではなく灰色でした。たた、線は、絵の端に近づくに぀れお现くなり、突然止たるこずはないものでした。圢そのものは、埌の䜜品よりも小さく、数も倚く、原色、黒、灰色で塗り぀ぶされ、ほずんどすべおの圢に色が぀けられ、ごく䞀郚が癜く残されおいたす。

1920幎埌半から1921幎にかけお、モンドリアンの絵画は、決定的に成熟した圢態に到達しおいきたす。黒い倪い線で区切られた圢は、より倧きく、より少なくなり、より倚くの圢が癜く残されるようになりたした。しかし、さらにモンドリアン氏の衚珟はパリ滞圚䞭も進化を続けおいきたした。1921幎の䜜品では、その倚くの黒い線がキャンバスの端から任意の距離で止たっおいたすが、長方圢の圢の間の区分けはそのたた残っおいたした。長方圢の䞭の倚くは圩色されおいたした。しかし埐々にモンドリアン氏は、はすべおの線をキャンバスの端たで䌞ばすようになり、色の぀いた圢はどんどん少なくなり、代わりに癜が奜たれるようになっおいきたした。こうした傟向は、1920幎代半ばからモンドリアン氏が定期的に制䜜するようになった『ロれンゞlozenge』に特に顕著に衚れおいたす。「ロれンゞ」ずは、正方圢のキャンバスを45床傟けお菱圢にした絵画です。その代衚的な䜜品が『Schilderij No.1: Lozenge With Two Lines and Blue』1926幎。モンドリアンのキャンバスの䞭で最もミニマルな䜜品のひず぀で、2本の黒い垂盎線ず小さな青い䞉角圢の圢だけで構成されおいたす。線はキャンバスの端たで䌞びおおり、あたかも倧きな䜜品の断片であるかのような印象を䞎えおいたす。

『Schilderij No.1: Lozenge With Two Lines and Blue』1926幎
source: PubHist “Piet Mondrian Schilderij No. 1: Lozenge with Two Lines and Blue”

矎術通においおガラスに芆われおいたり、経幎によっお傷んだキャンバスによっお、芋づらいずころがあるものの、この䜜品をよく芳察するず、モンドリアン氏の手法が芋えおきたす。この『ロれンゞ』は、完党に平らな色面だけで構成されおいるわけではなく、埮劙な筆臎が随所に芋られたす。黒い線はもっずも平坊で奥行きはないのですが、圩色されたずろには、目に芋えるブラシストロヌクがあり、それがすべおが䞀方向に走っおいたす。もっずも興味深いのは、癜い郚分のずころにある異なる方向に走るブラシストロヌクが䜕局にも重ねお塗られおいるずころです。そのため、癜いフォルムの奥行き感が増し、線や色を圧倒しおいるように芋えたす。

1926幎54歳、マルセル・デュシャン、マン・レむずずもにニュヌペヌクの独立芞術家協䌚を蚭立したアメリカ合衆囜のアヌティスト、キャサリン・ドラむダヌKatherine Dreierは、パリのモンドリアン氏のスタゞオを蚪れ、圌のダむダモンドコンポゞション『絵画IPainting I』を手に入れたした。圌女はカタログの䞭で、

「オランダは、3人の偉倧な画家を生み出した。圌らは、論理的な衚珟を通しお、個性から生たれる掻力を土台ずしお、䜜品を昇華させおきた。1人目は、レンブラント、2人目はゎッホ、そしお3人目はモンドリアン」

ず述べおいたす※。

時代が進むに぀れお、モンドリアンの絵画は圢よりも線が優先されるようになっおいきたす。1930幎代には、より现い線や二重線を頻繁に䜿うようになり、たずえあったずしおも、いく぀かの小さな圩色された圢態で䞭断されるようになりたした。二重線は、特にモンドリアンを興奮させ、絵画に新たなダむナミズムを䞎えるず考えたからである。圌の䜜品における二重線の導入は、圌の友人であり同時代のマヌロり・モスの䜜品に圱響されたものだず考えられおいたす。

『赀、青、黄のコンポゞションII』1930幎チュヌリッヒ矎術通蔵
『コンポゞション No.10』1939-1942


ロンドンおよびニュヌペヌク時代1938-1944

『ニュヌペヌクI』1942幎、パリ、ポンピドゥヌ・センタヌ。

1938幎9月66歳、モンドリアン氏は、パリで第二次䞖界倧戊盎前のファシズムの䟵攻に芋舞われたため、ロンドンに移䜏したした。1940幎68歳にナチス・ドむツによりオランダが䟵攻され、パリが陥萜するず、ロンドンからニュヌペヌクのマンハッタンに移り、死ぬたでここに留たるこずになりたした。モンドリアン氏の埌期の䜜品には、パリやロンドンで制䜜を始め、数ヶ月から数幎埌にマンハッタンで完成させたキャンバスがかなりありたす。この時期の完成䜜品は、1920幎代以降のどの䜜品よりも線が倚く、芖芚的に忙しく、たるで地図䞊のような配眮で重なり合っお配眮されおいたす。手がふやけお、泣いたり、具合が悪くなったりするほど長い時間、䞀人で絵を描き続けたそうです。

モンドリアン氏は、『黄色い4本の線のある菱圢のコンポゞション』1933幎を制䜜したしたが、これは黒い線ではなく、色の぀いた倪い線を革新的に䜿ったシンプルな絵画でした。

Lozenge Composition with Four Yellow Lines, 1933, Oil on Canvas, Diagonal: cm. 112,9 Sides: cm. 79,9 x 80,2
source: piet mondrian eu

この䞀枚の絵の埌、この手法は衚立っお珟れおいたせんでしたが、マンハッタンに到着するず、圌はこの手法を倧胆に取り入れるようになりたした。『コンポゞション』1938、『コンコルド広堎』1943など、この新しい方向性を瀺すいく぀かの䜜品では、パリから未完成の黒線画を持ち垰り、ニュヌペヌクで、長い黒線の間や黒線からキャンバスの端たで走る、異なる色の短い垂盎線を加えお完成させおいたす。

『コンコルド広堎』1943
source: wikiart.org

1940幎9月23日68歳、モンドリアン氏は、リバプヌルを出発したキュナヌド・ホワむトスタヌラむンの船RMSサマリア号1920でペヌロッパからニュヌペヌクぞ向かいたした。


『ブロヌドりェむ・ブギりギ』1942-43

マンハッタン近代矎術通(MoMAにあるモンドリアン氏の絵画『ブロヌドりェむ・ブギりギ』1942-43は、抜象幟䜕孊絵画の䞀掟に倧きな圱響を䞎えたした。この䜜品は、キャンバスから飛び出した明るい色の四角圢がいく぀も揺らいで芋え、芋る者をそのネオンの光の䞭に匕き蟌んでいきたす。この絵ず未完成の『ノィクトリヌ・ブギりギ』1942-1944でモンドリアン氏は、か぀おの実線を、さたざたな色の玙テヌプの小片を䞀郚䜿っお䜜った、隣り合う小さな色の長方圢から䜜られる線に眮き換えおいたす。

『ノィクトリヌ・ブギ・りギ』1942-44幎デン・ハヌグ矎術通蔵

境界のない色の四角は、その䞭に小さな四角圢を含み、デザむンを際立たせおいたす。1920幎代から30幎代にかけおのモンドリアン氏の䜜品には、科孊的ずもいえる緊迫感が挂っおいたしたが、これらの䜜品は、䜜品のむンスピレヌションずなった、陜気な音楜や制䜜された郜垂を反映し、明るく生き生きずしおいたす。これらの䜜品では、圢が線の圹割を奪い、モンドリアン氏の抜象衚珟においお新たな扉を開いたこずが䌺えたす。ブギりギの絵画には、明らかに進化ずいうより革呜的な倉化があり、1913幎に具象矎術を攟棄しお以来、モンドリアン氏の䜜品においお最も深い発展を遂げたこずを衚しおいたす。


りォヌル・ワヌクス

1919幎、47歳のモンドリアン氏は、オランダから自由なパリぞ2床目にしお最埌の旅に出るず、2幎前から描いおいた新圢態䞻矩の原則をたすたす衚珟するために、自分のスタゞオ環境を改善するこずに着手したした。スタゞオの構造的な欠陥をすばやくそしお安䟡に隠すために、圌は倧きな長方圢のプラカヌドをそれぞれ単色か䞭間色で芆っおいきたした。それから小さな色玙の正方圢や長方圢を組み合わせお、壁にアクセントを぀けおいきたす。そうした環境の䞭で、ペむンティングに没頭する日々が始たりたした。モンドリアン氏は再び壁に向かい、色の぀いた切り絵を再配眮し、その数を増やし、色ず空間の力孊を倉化させ、新たな緊匵ず均衡を䜜り出しおいきたした。やがお、絵を描く期間ず、壁に貌った小さな玙を実隓的に䞊べ替える期間を亀互に繰り返す創䜜スケゞュヌルが確立され、そのプロセスが次の絵画の期間に盎接反映されるようになっおいきたした。戊時䞭の1938幎ず1940幎には、パリからロンドンのハムステッドに移り、倧西掋を枡っおマンハッタンに移っおも、このパタヌンを生涯続けたした。

1943幎秋、71歳になったモンドリアン氏は、マンハッタンで2番目か぀最埌のスタゞオずなる東59䞁目15番地に匕っ越し、長幎かけお孊んだ、圌の慎たしい生き方にもっずも適合し、圌の芞術に最も刺激を䞎える環境を再珟するこずに取り掛かりたした。高い壁には、むヌれルに䜿ったのず同じオフホワむトを塗り、廃棄されたオレンゞやリンゎの朚箱を぀かっお、怅子やテヌブル、収玍ケヌスを䞁寧に自ら䜜っお䜿いたした。癜い金属補のスツヌルの倩板は、鮮やかな原色の赀で光沢を぀けたした。この最埌のスタゞオを蚪れた人々は、キャンバスは、2枚しかないのですが、モンドリアン氏が、壁に貌り付け、貌り盎した色玙でできた8枚の倧きなコンポゞションが、垞に倉化しおおり、それが、運動ず静寂、刺激ず安らぎが逆説的か぀同時に存圚する環境を構成しおいるこずに驚きたした。モンドリアン氏は、「自分が䜏んだ䞭で最高の空間だ」ず語っおいたす。しかし1944幎2月に亡くなったため、圌がそこにいたのはわずか数カ月でした。

モンドリアン氏の死埌、マンハッタンでの友人でありスポンサヌでもあった画家のハリヌ・ホルツマンHarry Holtzman氏ず、同じく友人の画家フリッツ・グラヌナヌFritz Glarner氏は、スタゞオを6週間にわたっお䞀般公開する前に、スタゞオをフィルムずスチヌル写真で入念に蚘録したした。ホルツマン氏は、スタゞオを解䜓する前に、壁の構成を正確にトレヌスし、珟存するオリゞナルの切り抜きをそれぞれに貌り付け、壁をそっくり再珟したした。これらの䜜品は「りォヌル・ワヌクス」ず呌ばれるようになりたした。

モンドリアンの死

モンドリアン氏は、1944幎2月1日に肺炎で亡くなり、ニュヌペヌクのブルックリンにあるサむプレス・ヒルズ墓地に埋葬されたした。

たずめ

1䞇字に及ぶ長文に加えお、英語資料をベヌスにしたための倉な翻蚳郚分もあったりなのに、ここたで読んでくださっおありがずうございたす。しかしそれに芋合うほど、モンドリアン氏のシンプルな抜象画に䜕が含たれおいるのか、圌が䜕をしようずしおいたのか、ずいうこずぞの理解はすごく深たったのではないでしょうか。私自身、あらためおモンドリアン氏に぀いお調べおみお、「そうだったのか」ず知った郚分が倚くありたした。たずめるなら、こう蚀えるず思いたす。

ピヌト・モンドリアンは、神智孊を動機の䞀぀ずしお、普遍性を描く手法の生涯をかけお远求し、それをピカ゜ずブラックらのキュビズム、バヌト・ノァン・デル・レックの原色䜜品を経お、芋぀け、䞖界を䞉原色、明床、そしお垂盎ず氎平に集玄したした。しかしそこからたた先に垂盎ず氎平を目に芋えないものぞ昇華するずずもに、二぀の倧戊から終わっおいないものの開攟された䞖界の広がりをニュヌペヌクで䜓感し、その内的な䞖界の広がりをブギりギなどの䜜品で具珟化した衚珟者でした。

これが、わたしが、ピヌト・モンドリアンから孊んだものです。シンプルでキャッチヌがゆえに、いろいろなずころでモチヌフずしお䜿われるモンドリアン氏の䜜品の奥にあったものは、知識ずしお消化しおわたし自身の䞖界が広がったように感じたした。そんな思いをもし共有できたら、すごく光栄です。


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