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邪な人が持っている底なしの沼に、餌を投げ入れてはいけない

変な話からしたいのですが、僕はまぁまぁ、自分の人生を「運の良さ至上主義」で生きてきたところがあるのです。

なぜ、「運の良さ至上主義」に至ったのか、全部を説明すると長くなってしまうので、かいつまんでお伝えしたいのですが、10代の頃に、すごく自分の人生の「これから」について考えたことがあったのです。

特別な才能はない、勉強はできない、スポーツはできない、みんなを湧かせるほどのギャグのセンスもない。どうしようって。この辺りの自己問答については、昔、ほぼ日で糸井重里さんと対談させていただいた時に出たエピソードなので、もしよければ、そちらも読んでもらえましたら嬉しいです。

話を戻して、10代、そして20代の頃の僕は、「何も持っていない自分が、どうやって生きていくか」を考える時間が本当に楽しかったのです。その自己問答の結果、僕の中で一番しっくりきた答えが「何もない自分が、100m走のタイムを縮めるとしたら、校庭に落ちている石を拾い集めることがベスト」というものになりました。

別に、100m走を裸足で走らなくても良いのだけど、校庭に落ちている石を拾い集めたら、落ちている石を踏んづけて痛がらなくてもいいし、なんとなく、みんなにも感謝される気がする。そういうやり方が多分、「自分にしかできない、タイムの縮め方だ」と思ったのです。

話を元に戻したいのですが、僕は今でも、「人生の中で出す答え」というのは、「自分の『運』にとって、良いことなのか」という、「運の良さ至上主義」に立脚している気がしているのです。

「運の良さ至上主義」と言っても、これは、「自分自身の運さえ良ければOKだぜ。勝ち逃げ上等だぜ!」みたいなことではありません。そうやって「みんながいる場所を汚す」と、あとでちゃんと運は報いを受けることになるから。

つまり、僕は「損できる場所ではちゃんと損をしておく」、「常時、どこかで周りや社会のために貢献していく」など、いわゆる、「徳を積む」という感覚についても、忘れずにやっていくことを大切にしているのです。そして、それは、僕自身の「なるべく、運を良くしていたい」という我欲に結びついているのですね。これが、僕なりの「運の良さ至上主義」だったりします。

なぜ、「運の良さ」は大事なのでしょうか?

色々な言い方ができるのですが、「運の良さ」がないと、「縁」や「機会」と出合えなくなってしまうからなのです。

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