🛁勉強代行
テスト勉強を代行してくれる店がある、という噂を朝比奈ゆかりが聞いたのは、中間試験のちょうど一週間前だった。
数学の平均点が学年最下位を三期連続で更新している彼女にとって、それは藁にもすがる話だった。放課後、噂の雑居ビルの三階へ向かう。ドアには小さく〈テスト勉強代行〉とだけ書かれていた。
受付には、細身で眼鏡をかけた男が座っていた。胸の名札には「斉木」とある。
「代行って……私の代わりに勉強してくれるってことですか?」
「その通りです。当社が責任を持って勉強を代行します。料金は一科目一万円」
一万円。ゆかりは思わず息を呑んだ。財布の中には、正月にもらったお年玉が、まだそっくり残っている。使い道を決めかねて、大事に取っておいたものだ。それを、こんなことに——。
躊躇するゆかりの表情を読んだのか、斉木は穏やかに付け加えた。
「ご安心ください。初回は無料です」
「無料……!」
その一言で、ゆかりの気持ちは一気に軽くなった。タダでやってもらえるなら、断る理由がない。それでも、ひとつだけ引っかかることがあった。
「でも……代わりに勉強してもらっても、テストを受けるのは私ですよね? 勉強してないのに、点が取れるわけ……」
「ご心配なく。もちろん、テストを受けるのはあなたご自身です」斉木は表情を変えずに答えた。「それでも実績は保証します。昨年の利用者は、全員、成績が向上しました。一人の例外もなく」
そこまで言い切られると、逆に信じてみたくなる。ゆかりは半信半疑のまま、うなずいた。
「では、こちらにご記入を」
差し出された用紙に、ゆかりは自分の名前と、通っている桜丘高校の校名、二年三組という所属を書き込んだ。
「一週間後に、また来てください」
帰り道、ゆかりは首をかしげた。自分が勉強しないのに、成績が上がるはずがない。けれど、無料だというなら、試してみて損はない。
その日から、奇妙なことが起きた。
夜、机に向かおうとすると、猛烈な眠気に襲われるのだ。参考書を開いた瞬間、意識が遠のく。気づけば朝で、なぜか頬にシャープペンの跡がついている。ノートには、自分では解いた覚えのない二次関数の問題が、びっしりと埋まっていた。
「私、寝ながら勉強してる……?」
筆跡は明らかに自分のものだった。だが記憶がまったくない。友人の茅野に相談すると、笑い飛ばされた。
「夢遊病じゃないの。まあ、勉強が進んでるならいいじゃん」
テスト前夜も同じだった。眠気、記憶の空白、そして朝には埋まっているノート。ゆかりは不気味さを感じながらも、少しだけ期待していた。もしかしたら、本当に点が取れるのかもしれない。
テスト当日。数学の問題用紙を配られたゆかりは、愕然とした。
解ける。すらすらと解けるのだ。手が勝手に動くわけではない。ちゃんと自分の頭で考えて、公式が自然と浮かんでくる。あの空白の夜に埋めたノートの内容が、確かに身についていた。
結果は八十二点。学年順位は真ん中まで跳ね上がった。
ゆかりは喜び勇んで、あの雑居ビルへ向かった。斉木にお礼を言うためだ。無料でこんなに助けてもらったのだから、菓子折りのひとつでも持っていくべきかもしれない。
「本当にありがとうございました! でも、どういう仕組みなんですか? 私、寝てる間に勉強してたみたいで」
斉木は眼鏡を押し上げ、静かに微笑んだ。
「朝比奈さん。一つ、確認させてください。あなたは……いつから、ご自分が『代行を頼んだ側』だと思っていましたか?」
「え?」
「当社の業務は、勉強の代行です。しかし、代わりに勉強する人間が、どこからともなく湧いてくるわけではありません。誰かの体を、時間を、お借りするのです」
ゆかりの背筋が冷たくなった。
「あなたが申し込んだあの日、私はもう一件、別の依頼を受けていました。三年前に卒業した、ある女性からのものです。彼女は社会人になった今も、高校時代に数学を落第しかけた悔しさが忘れられないと言いましてね。『もう一度、あの頃に戻って、ちゃんと勉強し直したい』と」
「まさか……」
「ええ。あなたが眠っている間、あなたの体を借りて数学を勉強していたのは——その女性です。彼女はあなたを通して、二次関数をやり直した。そして満足して、昨夜、契約を終えました」
ゆかりは、頭の中でようやく話がつながっていくのを感じた。
「じゃあ……代わりに勉強してもらったのは私じゃなくて、その人が、私を使って……。ってことは、私は代行を頼んだんじゃなくて——体を貸した側?」
「その通り。あなたは、彼女に体を貸した側。つまり——代行を『請け負った側』なんですよ」
斉木は引き出しから用紙を取り出した。ゆかりが記入した、あの紙だった。よく見ると、上のほうに小さく〈雇用契約書〉と印字されている。
そこまで言われて、ゆかりの頭に、ひとつの考えが浮かんだ。おそるおそる尋ねる。
「あの……ということは、対価を支払うのは私じゃなくて……お金をもらえるのは、私のほう、ってことですか?」
「はい。その通りです」斉木はにっこりとうなずいた。「請け負ってくださった対価は、契約通り、一科目につき一万円」
一万円。ゆかりの顔が、ぱっと明るくなった。
払うどころか、もらえるのだ。あのお年玉を切り崩さずに済むどころか、まるまる一万円が手に入る。彼女は思わず手を差し出した。
斉木は、その手をやんわりと押しとどめ、変わらぬ笑顔のまま言った。
「ああ、それから——初回は、無料でしたよね」
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