🌱沈黙の確率論
近所のスーパーで抽選会をやるというので、妻の買い物に付き添った。私はよく妻の買い物に付き添う。妻はこれを「労働力の確保」と呼び、私はこれを「監視下での外出」と呼んでいる。呼び方が違うだけで、やっていることは同じである。妻が商品を選び、私がカゴを持ち、最後に私が荷物を運ぶ。この一連の作業のどこに「労働力」以外の要素があるのか、私は二十年考え続けているが、いまだに答えが出ない(出たら出たで、それはそれで問題が生じる気がする)。
キャンペーン期間中のレシートを持っていくと、何円かで一回の抽選券と交換できるという。一等はこのスーパーで使える商品券、二等は牛肉セット、三等は季節のフルーツセット。そこから下にいくと、カップ麺やお茶やお菓子が当たるらしい。賞品の構成を見ただけで、運営側の本音が透けて見える。上位の賞品は客を呼ぶための撒き餌であり、実際に当たるのは下の方だと、賞品の品目数が雄弁に語っている。にもかかわらず妻は牛肉セットの写真を凝視していた。希望とは情報を無視する能力のことである。
七枚の抽選券をもらった。係の人が抽選箱を前に置いた。箱には小さな穴が開いていて、そこから手を入れて中の券を引く仕組みである。穴の大きさが絶妙だった。手は入るが、中を見ることはできない。人間の不正への意欲を物理的に封じる、性悪説に基づいた設計である。私はこの穴を開けた人物に、ある種の敬意すら覚えた。彼は人間というものを正しく理解している。性善説でこの箱を作ったら、穴はもっと大きかったはずだ。そして大きな穴の箱では、抽選会は成立しない(成立しないどころか、争いが起きる)。
箱に手を入れて引いた。一枚目、五十円引き券。二枚目、五十円引き券。三枚目、また五十円引き券。この時点で、私は確率というものについて考え始めていた。同じ結果が三回続くということは、むしろ箱の中身がほとんど五十円引き券で構成されている可能性を示している。つまり私は不運なのではなく、正確に現実を引き当てているだけなのである。四枚目、五枚目、六枚目。すべて五十円引き券。
七枚目を引く前、私は妻と顔を見合わせた。妻の目には「あなたが引くからよ」という非科学的な確信が浮かんでいた。抽選の結果に夫の人徳が関与すると考えるのは、近代以前の世界観である。だいたい、人徳とは何なのか。仮にそれが存在するとして、なぜそれが箱の中の紙片の選択に影響を及ぼすのか。説明を求めても、妻からは「とにかくそうなの」という回答しか返ってこないことは、長年の経験から分かっていた(経験とは、無駄だと知りながら同じことを期待しなくなる過程のことである)。
だが私は反論しなかった。長年の結婚生活で学んだのは、正しさを主張することと幸福であることは、しばしば両立しないという事実である。これも一種の確率論かもしれない。正しさを主張した場合に幸福である確率と、黙っていた場合に幸福である確率を比較すれば、後者が圧倒的に高い。私は確率に従って沈黙した。これを世間では「賢明」と呼ぶが、本人にとっては単なる敗北である。
七枚目を引いた。五十円引き券だった。全部で七枚、すべて一番下の五十円引き券である。妻は「ほらね」と言った。何が「ほら」なのか。仮説が証明されたとでもいうのか。だが私は何も言わなかった。確率論に従った私の沈黙は、ここでも維持された。
五十円引き券は、次回の買い物に使えるという。絶妙な金額である。喜ぶには少なすぎ、捨てるには惜しすぎる。もしこれが五円引きなら、私は迷わず捨てたはずだ。もし五百円引きなら、私は素直に喜んだはずだ。五十円という金額は、その中間の、人間を最も困らせる領域に正確に設定されている。運営側は牛肉セットよりも、この五十円引き券の金額設定にこそ知恵を注いだのではないか。客を喜ばせない、しかし手放させもしない。これは引き止めの技術である。
帰り道、妻は「次は当たるかもね」と言った。次がある前提で語られていることに、私は軽い恐怖を覚えた。だが私はうなずいた。確率的に、うなずくのが正しい。七枚の五十円引き券は、私のポケットの中で軽い音を立てていた。それは敗北の音にしては、あまりにも乾いて、どこか間の抜けた音だった(負けたのに笑えてくるという状態を、人はおそらく結婚と呼ぶのである)。

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