東京には、まだ。

東京の夜は、人が多い。
仕事帰りの足音。
飲み会帰りの笑い声。
公園を横切る人。
コンビニの袋を提げた人。
信号が青になるたび、
交差点を人の波が流れていく。
どこかで、
誰かが歌っている。
「ねえ、今さ。」
若い男が振り返る。
「誰かぶつからなかった?」
「酔ってるんじゃない?」
「いや、絶対いたって。」
隣の友人が笑う。
「気のせいだろ。」
二人はそのまま歩いていく。
夜風が街を吹き抜ける。
誰も立ち止まらない。
誰も気づかない。
東京の夜は、
今日も静かに流れていく。
白百合
東京の夜は、昼より少しだけ歩きやすい。
人が減るからではない。
誰も前を見ていないからだ。
みんな、明日のことを考えながら歩いている。
男は歩いていた。
風が吹く。
白百合の香りがした。
公園の隅。
足が止まる。
「……ここ。」
暗がりの中で、白い花が静かに揺れている。
男は小さく頭を下げた。
「今年も一本だけ、いただきます。」
白百合を抱え、夜の街を歩く。
信号は赤だった。
男は立ち止まる。
青になる。
男は静かに歩き出す。
夜の街を抜ける。
高い建物の前で足を止める。
身体はふわりと宙へ浮いた。
ベランダへ。
窓をすり抜ける。
机の上には、空の花瓶がひとつ。
花瓶を見つけて、男の口元が少しだけ緩む。
白百合を挿した。
香りが静かに部屋へほどけていく。
……
「夏はね。」
……
「匂いで分かるの。」
翌朝。
女は目を覚ます。
机の上の白百合を見る。
驚かない。
目を閉じる。
少しだけ長く息を吸う。
花瓶の水を替える。
鏡の前で髪を整える。
耳へ掛けた髪に、白いものが少し混じっていた。
棚の写真立てには、
三十年前の若い二人が笑っている。
男は写真を見ない。
部屋を出る後ろ姿を見送る。
静かにドアが閉まる。
部屋には、白百合の香りだけが残る。
風が吹く。
*
吊り革をつかむ。
朝の満員電車。
肩と肩が触れ合う。
車窓を流れる駅名。
ドアが閉まる音。
鼻を刺す匂い。
誰かが咳をする。
「……なんだ?」
……
……
その先だけが思い出せない。
*
男は窓辺を離れる。
夜明けの光を避けるように空へ浮かぶ。
風が吹く。
白百合が、静かに揺れていた。
塔のふもと
風が鳴っていた。
工場の戸を叩くたび、鉄が軋む。
「今日は風が強いな。」
男は頷き、作業着の袖で額の汗をぬぐった。
夜勤が終われば帰る。
もしものことがあれば、公園で落ち合おう。
妻とは、そう約束してあった。
子どもは、もう眠っているだろう。
朝になれば会える。
そう思っていた。
警報が鳴る。
誰も驚かない。
聞き慣れた音だった。
しばらくして、外が赤くなる。
誰かが戸を開ける。
熱風が吹き込む。
「逃げろ!」
男は走った。
夜なのに明るい。
見上げる。
光が降ってくる。
また一つ。
また一つ。
風が炎を運んでくる。
家が燃える。
隣も燃える。
火は道を渡り、屋根を渡り、
人より速く走っていた。
横道へ入る。
熱風が吹く。
顔を伏せる。
引き返す。
後ろから人が押す。
また走る。
「川へ!」
誰かが叫ぶ。
子どもの泣き声。
下駄が転がる。
振り返る。
煙しか見えない。
走る。
息を吸う。
熱い。
喉が焼ける。
もう少し。
あの公園まで。
川沿いの広い道を、人の波が流れていく。
男も、その流れに呑まれた。
橋が見える。
あの角を曲がれば。
そう思った。
人が止まる。
押される。
足が浮く。
誰かの手が肩をつかむ。
男は妻の名を呼ぶ。
その声だけが、自分には聞こえなかった。
そこで記憶が終わる。
*
男は今夜も、その道を歩いている。
川沿いを北へ。
橋の手前を曲がる。
塔のふもとまで。
男は公園を歩く。
昼間なら、子どもが走り回っている。
母親が笑っている。
ベンチでは年寄りが将棋を指し、
犬が嬉しそうに駆けていく。
そんな景色を思い浮かべる。
昔は、その中に妻と子どもを探していた。
十年。
二十年。
……
五十年。
……
……
いつの頃からだろう。
誰かが笑っていてくれれば、
それでいいと思うようになったのは。
男は空を見上げる。
あの夜、
光は空から降ってきた。
今夜、
光は空へ帰っていく。
見上げても、
その先が見えないほど高く。
男は、しばらく目を離せなかった。
小さく頷く。
塔のふもとをあとにする。
夜の東京を、ゆっくり歩き始めた。
歌
病室は静かだった。
静かすぎた。
白い天井を見つめながら、女は浅く息をする。
透明なマスクの奥で、小さく息が曇る。
窓の外では風が木を揺らしていた。
春だった。
画面の向こうで、娘が笑う。
「ギター、弾いてる?」
「うん。」
「指、痛くない?」
「うーん...もう平気。」
女も笑う。
「今度、聴かせて。」
「約束。」
娘はそう言って手を振った。
それが最後だった。
*
女は、
つまらない死に方をしてしまったと思っている。
流行り病。
会いたい人にも会えず、
手も握れず、
約束だけ残して終わってしまった。
文化祭もなくなった。
あの子が舞台へ立つ姿を、一度も見られなかった。
まだ、
母親でいたかった。
「もう少し、生きたかったな。」
そう思う夜は、今でもある。
夜の街を歩く。
人波をすり抜ける。
赤信号で立ち止まる人たちの間を抜ける。
女以外は、もう誰もマスクをしていなかった。
地下へ続く階段を降りる。
扉の向こうから低い音が漏れてくる。
今日、
娘は初めてライブハウスの舞台へ立つ。
女は客席のいちばん後ろへ立った。
照明が落ちる。
何組かの演奏が終わる。
若いっていいねぇ。
勢いだけで格好いい。
そんなことを思いながら拍手をする。
もちろん、音は鳴らない。
やがてまた、照明が落ちる。
ドラムが静かにスティックを鳴らす。
ベースが低く響く。
キーボードが音を重ねる。
その前へ、
娘がギターを抱えて歩いてきた。
女は少しだけ背筋を伸ばした。
「大きくなったねぇ。」
娘はマイクの前へ立つ。
肩まで伸びた髪を耳へ掛ける。
その仕草が、自分によく似ていた。
最初のコードが鳴る。
女は胸へ手を当てる。
「あれ。」
もう一度。
コードが鳴る。
胸の奥が、ふるりと震えた。
女は小さく笑う。
「ちゃんと響くじゃない。」
娘の左手が動く。
人差し指が寝る。
澄んだ音だった。
昔はそこで止まっていた。
「痛い。」
「無理。」
「できない。」
何度も聞いた。
何度も笑った。
いつの間にか、
その音は当たり前のように鳴っていた。
歌が始まる。
知らない曲だった。
でも、
知らない気がしなかった。
二曲目。
音が厚くなる。
ドラムが前へ出る。
ベースが身体の奥まで響く。
ギターが重なる。
手拍子が重なる。
歓声が重なる。
娘が笑う。
仲間が笑う。
客席が応える。
また歓声が重なる。
女も笑う。
三曲目。
歓声がさらに大きくなる。
床が低く震える。
胸の奥が震える。
「……あれ。」
女は胸へ手を当てる。
もう一度。
床が震える。
胸が震える。
身体が震える。
震えている。
私が。
心まで震える。
娘が跳ねる。
ドラムが走る。
ベースが響く。
ギターが重なる。
客席が跳ねる。
歓声がまた大きくなる。
身体が勝手に動く。
女は口ずさむ。
歌詞は知らない。
それでも、
娘と一緒に歌っていた。
息を吸う。
また息を吸う。
気づけば、
口元へ手が伸びる。
マスクに触れる。
娘を見る。
客席が応える。
娘が笑う。
また歓声が重なる。
サビ。
歓声が一つになる。
息を吸う。
浅い。
もう一度。
吸う。
まだ足りない。
女はマスクを掴む。
引き剥がす。
放る。
大きく息を吸う。
冷たい空気が、
一気に身体へ流れ込む。
もう一度。
もっと。
もっと。
吸う。
「────!!」
「────!!」
気がつけば、
娘の名前を呼んでいた。
一瞬、
ライブハウスから音が消えた気がした。
娘がふと顔を上げる。
客席のいちばん後ろを見る。
一瞬だけ、
目が合った気がした。
女は笑う。
ゆっくり息を吸う。
静かに吐く。
心配していたのは、
私だけだった。
曲が終わる。
拍手が響く。
娘は深く頭を下げる。
女は、
何度も拍手を送る。
音は鳴らない。
それでも、
女は拍手をやめなかった。
ライブハウスを出る。
夜風を吸い込む。
女は空を見上げる。
「次は、何を聴かせてくれるの。」
そうつぶやいて、
今日も東京の夜を歩き始めた。
終幕
夜風が、公園の草木を揺らしていた。
ベンチでは、誰かが空を見上げている。
花壇のそばを、子どもが駆けていく。
遠くから、歌声が聞こえる。
東京の夜は、
今日も静かに流れていく。
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