転職して発覚した重要な労働の本質
私は本当に労働が嫌いである。どれくらい労働が嫌いかというと、以下に示すアカウントが普段発信していることの9.8割以上に全面的に同意できるくらい嫌いである。
これらのアカウントを数年にわたり読み続けているが、まったく違和感を覚えないどころか、このマインドがいつまでたっても社会に浸透しないことに驚きを感じる。労働者になって10年以上が経過した。新人労働者のころから「いつかはこの無味乾燥な隷従生活から解放されたい」と思っていて、一日たりとも「仕事が楽しかった」日はない。というより、集団で人間と関わっている時間を楽しいと思ったことが一度もない。一体感を醸成し達成感を獲得したり、滅私奉公のような心情に至ったことも一度もない。生活に根差した創意工夫や、個人としての他者に何かを与える行動には喜びを見出せるものの、いわゆる事務仕事を通して自分が社会の役に立っていると実感したことがない。
そもそも、社会の役に立っているから人の役に立っているわけではない。穴を掘って埋めるだけの雇用を守るだけの墓穴ビジネスの一派になっている自分を恥じ、10年間残業ゼロ、有給全消化、転職による定期的な長期休暇の獲得を満たしながら、両親を納得させるための正社員労働と、配偶者に労役を課さないための貯蓄と運用を続けてきた。失った時間を合計すると金銭換算できないほどの財産を失ったこととなるだろう。私が10年間、何も労働しなくても誰かが困ることは「間違いなく」なかったし、点が線になることもなかっただろう。強いて言えば、労働で出会った人間とのかかわりの中で、出会った人の個人的な豊かさに僅かながら寄与したかもしれないが、それは長い人類の歴史における私の人生並みに一瞬の出来事である。
環境を改善しようと転職をすることで見えてきたことがある。それは、労働の苦痛に大きな差異はないということ。少なくとも今の自分の職種において、どこで働こうがそこまで労働自体の負荷は変わらない。つまり上司次第ということになる。上司というのは労働者である自分を支配する存在であると定義している。部下の支えになる上司など存在しないし、上司は自分がさぼるために尤もらしい理由を付けて部下を束縛したり強制したりする。権力勾配に無自覚な上司など存在しないとも思っている。少なくとも私の前には。私にとっての無害な上司は、空気のような上司、対面コミュニケーションによる権力不均衡ゲームを避けて非同期コミュニケーションを取り入れることができる上司だ。そんな上司は滅多にいない。人間は感情の生き物なので、上記のようなアカウントを心の底から「賛同できる」と感じ、それを私生活でも隠せない自分は嫌われ、差別や個人攻撃の対象になる。
つまり、どんな環境にいようと、私は会社労働している限り苦痛であり、上司などの権力者と関わっている時点で苦痛が生じることは不可避である。これを回避するには上司との折衝が一切ない非正規雇用に転換するしかないのである。非正規雇用のデメリットは賞与が出ないことなどとよく言われるが、それよりも、非正規雇用はいつか無職になるリスクがあるということが大きく、これさえクリアできれば一切の懸念は解消される。今、京都での暮らしを含め、今後の生計の立て方を抜本的に見直すために調査を開始している。
話がそれたが、正社員就労を続ける場合のヒントも獲得できた。どうせどこの環境でも多少の苦痛があるのであれば、労働時間が短く給料が高い職場が良いということだ。やりがいとか居心地とかはあまり関係ないし、どこも居心地が悪く苦痛であり、私はどこに行っても嫌われたり差別や不公平の生贄になりやすいので、どうせそういうスケープゴートになるのなら、報酬は多い方がいいし、6時間や7時間で帰宅できる方がいい。さっさと妻の元に帰ってゆっくりご飯を食べる生活が良いに決まっているのだ。それがわかっただけでも得た経験は大きい。次に向かって動くだけである。
