『甘くない湖水』

イタリアの作家ジュリア・カミニート
『甘くない湖水』

今回は、貧困と階級格差の中で育った少女ガイアが、母親の期待や家族の重圧を背負いながら、息苦しい現実を生き延びようとする物語。

貧困や格差、家族の呪縛という極めて泥臭く重いテーマを扱いながらも、その手触りは驚くほど冷たく、乾いている。
原田宗典や穂村弘を思わせるサブカル的自意識が、悲しみや孤独を剥き出しのまま差し出すのではなく、美しい言葉で包み直してしまうような、独特の距離感で。

区民公園でバラを抜いたからでも、期限までに図書館に本を返さなかったからでも、何度も口を大きく開けて食べたからでも、非常用の優先車線を追い越しに使ったからでも、フルーツ味のグミをめぐって子どもとけんかしたからでも、嘘をついたり悪意を抱いたりしたからでもなかったはずだ。けれども現実には、人はこんなふうにして邪悪な人間になるのだ。

痛みを感じたことのない人は性格が悪い より


語りは主人公ガイアの「私」という一人称で進む。けれど、そこには当事者としての生々しい感情の噴出がほとんどない。まるで自分自身をカメラ越しに見つめているかのような、奇妙な冷静さが終始保たれている。
本来なら泥臭く、悲惨で、むき出しの痛みを伴うはずの出来事が、磨き上げられた言葉によってどこか透明なものへと変換されていく。悲劇であるはずなのに、そこには奇妙な軽やかさと美しさがあり、そのアンバランスさに、かえって薄ら寒いものを感じるほどだった。

両親がテーブルの両側で見つめ合い、観念の力で禍、と呪いを送り合っていた。濡れたままの私はふらふらしていた。陽を頭にじかに受けて目が回り、数歩前に出たとたん滑って地面にくずおれた。
それから数日して、ニューヨークのツインタワーも崩壊した。

世界は冷たすぎるプールだ より


なぜ作者は、悲劇を悲劇らしく描かなかったのか。この冷たさや空虚さそのものが、現代社会への怒りの表現なのか。

過剰に美化された消費社会のノイズに囲まれた世界では、絶望ですら洗練され、悲鳴ですら美しく編集されてしまい、主人公ガイアもまた、自分の人生を「私」のものとして引き受けるにはあまりにも過酷な現実の中で、自らを他人事のように眺めることでしか、自分を保つことができなかったのかもしれない。

母親からの重圧や家族というシステムもまた、その構造と深く結びついている。
持たざる階級の親が、子どもをより上の階級へ押し上げようとする執念は、国境を越えて存在する普遍的なものだ。しかし、その渦中にありながらも、ガイアの内側には最後まで埋まることのない空白が残り続ける。

涙も、怒りも、悲鳴さえも機能しなくなった時。
美しく装飾された冷たい湖水の底に、自意識を麻痺させながら、静かに沈ませる。

恐ろしいほど洗練された文体によって描く零度の絶望。
そんな一冊が、あってもいいよね。

みんな、どこを見ているの。

ルミネっぽく、書いてみた。

いいなと思ったら応援しよう!