戦争は権力者や富裕層のためにやるものという雰囲気が伝わって胸糞悪い「戦勝国婦人双六」
お正月が近いから、というわけではありませんが、出物があったのでかなり無理して集めました。というわけで、せっかく入手したものを即座にご報告いたします。
こちら、B3版で多色刷りの木版画による「戦勝国婦人雙六」です。制昨年月日や発行者などが擦り込まれていませんので、推測するしかありませんが、軍艦の雰囲気やちょっと英国旗らしいものが見えるので、日露戦争から間もない明治40(1907)年前後のものかとも思いましたが、人物の表現や丁寧な木版画をつくっていた時代を考慮すると、日清戦争後のものとみてもよさそうです。すると、明治30年から明治40年ごろ、今から130ー120年ほど前のものということになります。何しろ、日本は戦争に明け暮れていましたから。

遊び方は、振り出しからさいころをふり、出た目の指示された場所へ駒を移すと言うスタイルです。それぞれの絵を見てみます。まず、振り出し。見送りとなっています。遠景の軍艦が、日清戦争当時よりは、日露戦争当時のもののように見えますので、推測をつけました。見送られるのは、だいぶ高位の軍人のようです。つまり、奥さんも富裕層ということになります。

次は赤十字。国内での赤十字の嚆矢は西南戦争当時の1877(明治10)年の博愛社で、その後万国赤十字に加盟するのが1886(明治19)年で、翌年、博愛社は日本赤十字社として発足します。長野県支部の結成は、1890(明治23)年のことでした。繃帯を巻いている仕事も大事ですが、良い所のお嬢さんの後方勤務という感じです。

その隣の軍人の妻。本来、こうした方々こそ、支援を受け、支えられなければならない方たちだったでしょうが、なんとも他のコマと比較するとやりきれない雰囲気があります。しかし、これが大多数の庶民の正直な雰囲気だったでしょう。

次は、上が「皇族慰問」、下が「はた行列」。皇族の慰問は名誉とされ、戦争の原動力に使われていたことが分かります。はた行列は日の丸の提灯がきれいです。下を行くのは当時の女学生でしょうか。

左は「慰問袋」、右が「さいほを」です。慰問袋はともかく、裁縫はほかに書くことがなかったのか、とか思ってしまいます。まだまだ、戦争は遠い場所で軍人が担うという感覚が、全体にあふれています。

上が「留守宅」、下が「婦人会」です。留守宅では、奥の床の間に陰膳が置かれています。婦人会は、当時、愛国婦人会はありましたが、それ以外にも婦人会はいろいろあったので、特定していないのでしょう。こういうところで「軍国婦人之義務」が説かれているのです。

最後の上がり。なんと「貴婦人祝賀会」です。これは、双六の購買層を意識していたのか、あるいは夢見させるためか。後ろの旗に、ちょっと英国旗の雰囲気のようなものがあるように見受けられましたので、日露戦争後を想定しました。

先にも述べましたが、全体的に戦争とは名ばかりの、富裕層の婦人や家庭を軸にしているもので、購買層がそういうあたりを狙っているのでしょう。でも、実際このころ、戦争は庶民が外国に出るものであり、権力層、富裕層にとっては、自分たちで盛り上がる雰囲気だったのかもしれません。
現在の為政者も、こんな感じなのでしょうか。そうでなければ、軽々に外国を挑発したり核武装を検討したりできませんよね。どこの国の人であろうと、二度と核の惨禍を味わわせない、そのためには核兵器廃止一択と思うのです。
たいまいはたいて切ない思いをする双六を調達するー。でも、これが歴史の一つの証人なのです。
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