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1932年、新潟県の地方紙が企画した少年たちの東郷平八郎訪問の記録写真入手ー忠君愛国のコースを反映

 新潟県にあった地方紙の新潟時事新聞社(1941年、新潟新聞と合併。新潟新聞は1942年、新潟日報に統合)が、1932(昭和7)年5月27日の海軍記念日に合わせて「東郷元帥謝恩会」を行いました。これは、新潟県内の尋常小学校26校の男児113人と付き添いなど31人、合わせて144人を新潟県代表少年団とし、「東郷平八郎元帥の功績に対して謝恩の意を披歴する」ため、東京に東郷平八郎侯爵(元帥、海軍大将)を訪ねるというものでした。

 今回、その時の記念写真帳と一行が着けたとみられる腕章を入手しましたので、長野県のお隣ですし、内容を紹介させていただきます。

記念写真帳の宮城二重橋前での記念写真と腕章

 1932年5月26日午後3時、新潟市の新聞社前に集合した一行は白山神社に詣でて結団式を行います。少年団代表新潟市豊照小学校、長野耕治君「本日茲に東郷元帥謝恩会発会式挙行せらるるに当たりまして我々一同は清く正しく強く堅実なる第二国民として勤勉努力し以て皇恩の万分の一にも報いん事を宣誓致します」。

 そして午後9時35分上越線経由新潟駅発の汽車で、500人の関係者に見送られ出発。車中泊で翌日27日午前6時50分、上野駅に到着します。ちなみに、上越線の清水トンネルが前年に開通し、信越線経由ではなくとも東京へ出られるようになっていました。

新潟駅での見送り

 初日の朝食は、新潟県白根町(現・新潟市)出身の加藤清二郎が関東大震災の翌年に神田須田町に開業し、大衆向けの安価な洋食で大成功した須田町食堂(現・株式会社聚楽)の上野支店(上野駅地下)でとっています(設立経緯も大変面白い)。
 一行は20台の車に分乗して、宮城前へ。二重橋前で宮居を遥拝、万歳三唱。楠木正成の銅像などを見て、移動します。

 到着したのは靖国神社。参拝し、遊就館を見学。

 続いて訪れたのは泉岳寺。赤穂浪士、四十七士の墓参りをします。ここまでの流れは、いずれも天皇や主君への忠義を題材にした場所です。当時としては、こうした忠君愛国の心を養うための、一般的なルートだったのでしょう。実際の所、赤穂浪士は主君への忠義ではありますが、時の幕府の裁定に対する反逆だったわけですが、そこは無視して主従美談の面のみ、強調していたのでしょう。

腕章がはっきり確認できます

 昼食を経て午後2時、東郷侯爵の私邸に到着します。「見渡せば質素の邸宅で之が英名世界に轟く元帥邸かと思われるほどで、一同その質素に目を見張る、待望と興奮に、若き小さき胸をどきつかせて我々一同は玄関前に整列。時の至るを待つ、待つ程に東郷元帥の勇姿が玄関に現れた」「かくて元帥は団員の間近に歩を運びおもむろに一言一句力強く」訓示を述べます。これに対し、新潟市大畑校6年生高橋敏雄君、進み出て答礼の辞。

上、答礼の辞

 この時の訓示と代表の宣誓は、写真帳の1ページ目に載っていますので、こちらでご覧ください。

 そして東郷侯爵の万歳三唱をして、記念撮影。この時、東郷侯爵は84歳。亡くなるのは2年後の1934(昭和9)年5月30日でしたので、最晩年の様子を記録したものとなります。

 この後は白木屋を見学してから岩戸屋旅館へ。岩戸屋旅館の創業者、中野徹吉は新潟県柏崎町(現・柏崎市)の出身で、柏崎にあった岩戸屋旅館の東京支店として経営を任されていました。1930(昭和5)年当時、31室220畳の規模で、この旅が「岩戸屋初めての大団体」受け入れとあり、「階上階下ほとんど全部の部屋を占め」ていました。岩戸屋にとっても、この規模の団体受け入れ実績が、その後の新潟県からの修学旅行や団体の多くの受け入れにつながったようです。中野は同年11月に亡くなりました。1935年の区画整理、その後の戦災で廃業となり、現在はオフィス街になっています。

 一行は夕食後、円タクで夜の東京見物をそれぞれ楽しんでいました。円タクは気軽に使えたでしょう。翌日28日は、明治神宮を参拝します。

 そして、新潟県新発田町出身で一代で財を成した大倉喜八郎男爵の収集した美術品などを展示している集古館を訪れています。なお、こちらは現存する最古の私設美術館とのことです。

 その後、丸の内の時事新報社(現在の毎日新聞、産経新聞)を見学、上野公園で動物園を楽しみます。その後は地下鉄で浅草へ。「地下鉄には大喜びだ」との記述が雰囲気を伝えます。浅草寺参拝後、また上野駅に戻って須田町食堂上野支店(レストランじゅらく上野駅前店が健在)で食事の後は自由行動で土産探し。午後10時5分、上野駅を出発する上越線経由の汽車で帰路に。車中泊で翌日午前7時37分、新潟駅に到着し解散します。

 日本海海戦は1905(明治38)年のこと。1932年からみれば、わずか27年前ですから、親世代は日露戦争をリアルに体感していてもおかしくありませんし、祖父母は間違いなくよく知っていたでしょう。小さいころから、日露戦争の勝利の話を聞き、育っていたのは間違いありません。そんな彼らにしてみれば、話や本で知るだけだった東郷元帥に直接会えるというのは、嬉しかったことでしょう。そして戦争の話は、自然に天皇への忠誠という現実の流れにつながったことと思います。
 まあ、子ども達にしてみれば、楽しい旅行であったのは間違いないでしょうが、現在の環境の子どもたちが同じコースを回っての感じ方と、当時の環境で育った子どもたちの感じ方は、また、大きく違いがあったと想像できます。

 この時、小学校6年生だった児童なら、20歳は1940(昭和15)年ころ。日中戦争のただなかで徴兵検査を迎えたでしょう。そして、ここに写っているこどもたちは、日中戦争と大平洋戦争の時代を20代で過ごしているのです。こうした教育を受けて、こうした環境に育った子どもたちが、自然に兵士として最前線に投入されていったわけです。

 そのことを思うと、現在の「戦争だけは避ける」という意識が高い時代を知っている大人たちは、二度と戦場に出向くのが自然という時代にしないよう、必死になっていかねばと改めて思います。

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