戦地に物品を贈る「慰問袋」の極初期のものを入手ー長野県の女子青年が贈っていました
慰問袋といえば、大きく「慰問袋」と書かれた袋や箱で、前線の兵士に送り届けられたものとして知られています。
今回、その中でも最初期のもので、しかも長野県の女子青年が贈ったものの袋を入手しました。片面に「日露戦役当時 慰問袋 愛川秀松」とあり、もう片方に「長野県上水内郡 浅川農業補習学校 石坂とめ」とありました。


女子生徒の名前や学校名の墨が薄くなっているのに対し、受け取った側の名前は黒いままでした。このことから、当初贈られたこの袋は、片面に贈り主の名前と所属が書いてあるだけで、反対側は無地だったとみられます。愛川秀松さんが大事に持ち歩いて帰郷まで保管し、その後、記録のために墨書したとみられます。「日露戦役当時」とありますので、戦後に書かれたと考えられます。
慰問袋の始まりは、日露戦争当時になります。日露戦争が1904(明治37)年2月に勃発し、3月に陸軍恤兵部が金品寄付の窓口として設けられます。これを受け、愛国婦人会などの婦人団体、新聞社、市町村などが音頭を取って、戦地の兵隊に物を贈る運動が、特に5月の鳳凰城陥落あたりから急速に広がったということです。袋に入れる形は、この中で自然に民間の工夫で生まれたとされています。
また、慰問袋という言葉は、公式に確認できるのはこの年の11月18日の官報になります。このため、慰問袋と書いていない慰問袋は、おそらくこの最初の盛り上がりの時期から「慰問袋」という呼称が定着していない、1937年の春ごろから夏ごろに作られた、まさに慰問袋最初期の形態を残すものと言えそうです。
ちなみに、袋とともに、中に入れてあったとみられる大正時代の頼母子講の金銭拠出名簿を多数、一緒に入手しました。記念の袋を、こうして大事な記録を入れておく実用に使っていた可能性があります。いずれにしても、後の墨書が色あせていないことから、大事にしまわれていたのは間違いなく、受け取った側の心情が推し量れます。

なお、愛川姓ですが、調べてみますと現在は福島県に多く、あとは関東圏が中心となっています。福島県は日露戦争当時、仙台の第2師団隷下にあり、同師団は鳳凰城攻撃にあたった第一軍に所属していました。この初期の慰問袋が陸軍恤兵部経由で戦地に届いたのが、この部隊であることは、十分考えられます。
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一方、浅川農業補習学校について調べてみました。農業補習学校は、1893(明治26)年11月公布の実業補習学校規定により設置が進められます。小学校卒業者で進学しない子供たちに、小学校の復習、実際の生活や職業で役立つ知識を与える、上級学校につながらない、足元の教育を充実させる狙いの学校でした。
長野県では、1899(明治32)年に上高井郡井上村(現・須坂市)に私立福島実業補習学校が設けられたのが最初で、翌年までに公立の7校が設けられます。このうちの1校が上水内郡浅川村(現・長野市)の浅川農業補習学校で、長野県内の最初期の実業補修学校でした。日露戦争当時の生徒数までは分かりませんでしたが、実業補習学校と青年訓練所が青年学校に統合された1935(昭和10)年、新たにできた青年学校の浅川村の生徒数は男子78、女子44人でした。青年訓練所は男子しか入っていませんので、女子は農業補習学校在籍者だったとみられます。そう大きくない規模ではありましたが、一生懸命つくったのでしょう。
学校単位での慰問袋作りは、満州事変にも多く行われています。下リンク先で、長野商業学校(現・長野商業高校)の満州事変当時の慰問袋作りの写真が出てきます。
戦争の規模が大きくなり、また長期化する中で、慰問袋作りも次第に縮小していき、島しょ部には慰問袋どころか、満足に物資も運べない状況になりました。一方、兵士を思う気持ちは純粋だったとは思いますが、こうした銃後の活動が前線の兵士を支え、間接的に戦争遂行の力になっていたことは確認しておきたいことです。
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