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日露戦争中、奉天会戦の勝利を祝って長野県上田市の呉服店は連名で特売チラシを作りましたー戦争祝賀の催しにあやかって

 戦争の勝利の報道を、どのように受け止めていたかを示す、120年ほど前の資料を入手しました。こちら、長野県上田町(現・上田市)にあった3軒の呉服店が連名で出した「戦捷大祝売」のチラシです。

 見出し、上部には日章旗と旭日旗が交差したデザイン、下には兵士と軍艦の絵が入り、軍隊を象徴させています。

 文章は漢字と変体仮名の活字を使って印刷してあります。「今回の戦いは古今未曾有の大捷」とありますので、戦争中のある戦闘での勝利に合わせた祝賀会が開かれることになったので、店も祝意を示して「諸品大勉強」するとします。

 そして、本日より20日まで3日間景品呈上と太っ腹です。富士と鶴という縁起物も入れて、最高に盛り上げている感じです。

 さて、このチラシがいつごろのものか。考察してみます。まず、印刷された紙ですが、薄い洋紙にコーティングした機械すきの洋紙「ざら紙」で、大きさはA4判よりやや大きめです。モノクロだけで急ぎ、大量に印刷するのにむいていました。きっちりした明朝体の活字を使っています。

 こうした印刷技術が地方の町でもあったのは、明治30年代、日露戦争ころとみられます。兵士の服装、特に軍艦のイラストは、日清戦争当時より日露戦争当時とみてよいでしょう。ちなみに、宮島呉服店は1892(明治25)年の創業です。

 そして「当郡にても祝賀会相催され」とあることがヒントになります。上田市誌などを調べたところ、日露戦争当時、上田町では旅順陥落、奉天会戦、日本海海戦の3回、大規模な祝賀会を開いていたことが分かりました。 

旅順陥落を伝える松本市の業者による「只今号外」(日付不明だが明治38年1月1日と推定)
奉天会戦の勝利を伝える信濃毎日新聞の号外(信毎データベースより・明治38年3月10日)
日本海海戦の詳報を伝える東京朝日新聞号外(明治38年5月29日)

 旅順陥落は1905(明治38)年1月1日、奉天会戦の終結は3月10日、日本海海戦は5月27日から28日です。そして、おおむね同時くらいに号外が出されて広く伝えられていたと分かります。

 ここで、景品呈上の日付をみてみます。「本日より20日迄3日間」とありますので、「本日」は18日です。とすると、このチラシをまいた時機と一番接近しているのは、奉天会戦のようです。そこで、信濃毎日新聞データベースで調べたところ、1905年3月19日の紙面で裏付けがとれました。
 この紙面には、3月18日の東京の奉天占領祝賀会がまず載っていました。

明治38年3月19日付信濃毎日新聞(信毎データベースより)

 次いで、長野県小県郡上田町の様子です。「小県戦捷祝賀会」が3月18日、上田中学校運動場(現・上田高校)で「戦捷大祝賀会」を開いています。「海野町原町通りは揃いの赤幟を押樹て」「店頭の装飾割引及景品附大安売」を為していました。まさに、チラシの通りの賑わいでした。

上田町の祝賀会(同)

 小県郡だけではなく、各地でも18,19日をピークに祝賀会を開いていたようです。

各地の祝賀会(同)

 これで、日付、状況とも明瞭になりました。こんな感じで、不明な資料もできる限り内容をくみ取っていきます。
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 ただ、こうした戦争中のお祝い騒ぎは賑やかでも、実態は戦争の負担が地域に押し寄せていました。上田市誌近現代編7(2000年発行)によりますと、国債の発行が1904年には2回、1905年も2月と4月に国債の募集がありました。
 この当時の状況を「上田の町は不景気のどん底に沈み、商店では日用品のほかはほとんど売れず、農家では肥料の購入もできない者が少なくありませんでした」としています。
 一方で、軍資金の寄付は積極的だったといいます。このほか、馬、大麦、荷車も徴発され、馬は68頭、小県郡の馬の40%が買い上げられ、荷車も160台が買われて103台が戦地に送られていました。意欲はあっても、こうして応じていれば、それは余裕がなくなり、不景気にもなるでしょう。

 先ほどの呉服店も、ライバル同士が連名でチラシを出したのは、各店の負担を減らす知恵だったのかもしれません。そして春に向けて、何とか着物を新調してもらおう、お祝いで昂揚している人に買ってもらおうと、苦しい中で考えたと言えるのではないでしょうか。華やかさの影にあった実態も示しているようなチラシでした。

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