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日中戦争で武漢三鎮陥落するも重慶に攻め込めず手詰まりになったころ、朝鮮・満州・中国を巡る団体旅行が企画されました

 1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件に端を発した日中戦争は、同年の南京陥落、1938(昭和13)年10月の武漢三鎮占領まで日本軍の攻略が続けられます。が、蒋介石のこもった重慶まで攻め込む余力はなく、大きな戦闘は一区切りとなって、治安戦を中心とした持久戦となります。

 近衛文麿首相も11月3日、「日本の戦争目的は東亜永遠の安全を獲得し得る新秩序建設にある」とする第二次近衛声明を発表。「新秩序建設」といった言葉がはやりますが、これは中国に日本の傀儡政権を樹立させるという、都合の良い考えを気取っていったにすぎませんでした。

 蒋介石とともに行動していた汪兆銘が日本の誘いに乗って重慶を脱出し、日本に協力して実力政府を築こうとします。が、呼応する勢力はなく、本人の思惑と違った傀儡になりさがるという状態に陥ります(1940年3月、南京に汪兆銘政権樹立)。
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 さて、そうして戦闘が小康状態になった中で、日本旅行協会、仙台運輸事務所などが「鮮満産業視察と北支皇軍慰問団体募集」と銘打った、1939年5月4日から29日間の旅行を企画し、参加者を募っていました。

旅行の募集チラシ

 費用は380円内外。このころの私立高等女学校の東京ー神戸間の9泊10日旅行で25円、小学校教員の平均月給が都市部80円、地方45円前後というころです。だいたい、金額のイメージができるかと思います。かなり、余裕のある人でなければ参加できないものです。

 行程は以下の通り。仙台を出発して新潟港から朝鮮に渡り、牡丹江、チャムス、千振など、満州をたずねつつ、北京に入ります。

 北京から天津、塘沽、大連、旅順と北支を回り、今度は朝鮮を旅して帰路にという流れです。

 いちおう、行程の地図もあります。

 服装と持ち物の注意。なんとなく、当時の旅行の雰囲気が伝わります。また、大部分の行程は満州と朝鮮で、中国も大連などは日本が日露戦争、対華21か条要求などで租借している場所ですので、日本製品が買える環境が整っていました。

シャツや靴下は内地品が手に入るので、現地で入手をと。

 さて、戦闘は小康状態であり、最前線ではない地域を訪ねるとしても、簡単に中国に入ることはできませんでした。北支旅行身分証明書の入手が必要だったようです。発行してもらうための書式も掲載していました。

日本の官憲により入国拒否されると。占領地の実態です
証明書の発行願いの書式

 北支皇軍慰問といっても、最前線ではなく、それこそ北京あたりの軍関係の事務所訪問くらいだったのではないでしょうか。特記事項にもなっていません。産業視察としては、満州の日本人移民開拓地、撫順炭鉱など、満州が中心だったとみられます。

 まあ、いろんな理窟をつけて、観光旅行を企画したというところでしょう。こうした名目であれば、政治家や経済人も、大手を振って官費や経費を使っていけたでしょうし。逆に、戦争で通常の旅行が困難になった分、こうした企画も打たねば、旅行会社ももたなかったというのもあるのではないでしょうか。
 もう一つ言えば、戦争などなければ、普通に旅ができているのです。満州の駅周辺の居留地にいる日本人たちも、満州事変以前は居留地から出ても平気だったが、事変以後は治安が悪化したと証言しています。戦争なんかより、平穏な経済的交流のほうが、ずっと効率が良いのです。

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