「時が時ならば娘役1!」きっぱりママ。
nyは今日、母の日だ。

母が亡くなってもうどれくらいの月日が経つのか、おそらく渡米の4、5年前だったから2004年とか?と記憶してる。
嵐の日だった。

母が亡くなってからライブ会場の真ん中で楽しんでいる姿が時々瞼に浮かぶけれど、僕が絵を描いたりピアノを弾いて作詞作曲をして歌う姿をずっと母は寄り添って見ていてくれていたように思う。

新しい曲を作って家のピアノで歌ってると、ガラガラと引き戸が開いて、近所のブティックKOKUBOで買ったワンピースを着てピアノで歌う僕に少し絡んでそのまま別のドアから去って行く。僕は歌いながらそれをじっと見る。するとあっという間に日傘姿になって別のカーディガン姿で去ったドアから再登場、ターンし、少しだけ弾き語りの僕の肩に手を置いたかと思うや否や、最初の引き戸から去っていった。

何が起こったのか? 僕と母とはそう言う関係だった。
nyの友人のお母さんが90歳を超えて、ケアに忙しくしている姿を見ると、実親のことを気にかけてドキドキする日々が懐かしく胸がキュンとする。

母には「神戸こより」と言う「別キャラペンネーム」があって東京にいる僕に手紙を送ってくれていた。80年代90年代。葉書には裏表ぎっしり達筆な文字が綴られ、若干読みづらく解読に時間がかかった。

ある日、「最近母からの手紙や葉書が来ないなあ」と思って、あの、いつも必死に解読するのをやってないことにちょっとした物足りなさを感じつつ暮らしていると、エレベーターホールで見知らぬキャップを被った女性に遭遇した。

僕はエレベーターが開いて勢いよくロビーに出たので一瞬そのキャップ女性(ボーイッシュだった)にぶつかりそうになり「え?」と声を上げた。よく見ると僕の部屋番号のメールボックスへお箸を突っ込み、キャップは何かを挟もうとしているのだった。片手には「神戸こより」の葉書が何枚か握られている。

「あ」
僕の声が大声になり、「ちょっと、何やってんの?」と問い詰めた。するとキャップは葉書を元のボックスに戻し、何食わぬ顔で去っていったのだ。

母はライブ会場でも人気者で、大阪フェスティバルホールのアンコールでお客さんに照明が当たった瞬間、招待席のど真ん中でスカートをつまんで満員のお客さんに、「ご機嫌よう」と”ご挨拶”をしたことがあった。

1階も3階も2階の一番前列の母に注目して、振り返り覗き込み、端から端までがずずずいと、母へ注目、拍手が大きくなる。

僕は舞台にてポツン、
「ちょ、ちょ、ちょっと。主役はこっちこっち。」
客席が「あ」と気付き、柔らかい笑顔と笑いで包まれた。

あのスカートをつまんで片足を引っ掛けて挨拶をするポーズは母がよく言ってた、
「あたしは時が時やったら宝塚に入って娘役トップやったかもしれへん」
の晴れ姿だったのではあるまいか?

実家がまだ存在してた頃、自宅を訪れたファンの方をリビングルームで歓待し、盛り上がってそのまま、
「おほほほほほ、千里の部屋2階ですけど、ご覧になります?」
と案内までしてしまった母は、ある日電話で、
「今な、玄関に10個、手作りのケーキが置かれてたの。美味しそうやねんわ。それをパパと万里とでお茶入れて、ご馳走になろうとしてるところ。」
夏の日だった。

僕は慌てて、
「あかんあかん食べたらあかん。」
と止めたのだが僕に厳しい口調で、
「あんたはいつからそんな”傲慢な芸能人”になったん?」
と叱り始め、僕は「はい、はい」とその叱咤を甘受するしかなく、電話口でうなだれて立ち尽くすこと30分。ようやく一段落した瞬間を見計らい、「じゃあ」と逃げるように電話を切った。

母と父と僕の3人で大阪の団地の公園で撮影した白黒写真がある。
実家をしまう時に何枚か僕の手元に残した写真のうちの1枚で、
まだ妹も生まれる前のものだ。
あの頃の白黒写真には妙な「3次元感覚」があり、公園の砂や鉄棒や青葉の匂いまでがぷーんと湧き上がってきそうだから、不思議だ。

今年芍薬を6本母のためにnyのアパートに飾った。気に入ってくれればいいのだけれどきっと、母は「神戸こより」でこう言うだろう。

「さよなら公演やったら本数が足りへんな」
文・写真 大江千里 (c) Senri Oe, PND Records 2026
