武田信玄は、どこで、なぜ死んだか?
1.西上作戦

武田信玄は、浜松城のすぐ近くまで来た。
旧説:青崩峠説
新説:駿河路説
以前は青崩峠から南下したとされてきたが、行ってみると、大軍はもちろん、馬が通れそうにない。
遠江国の古社、古寺を訪ねると、案内板に「武田に焼かれたので、宝物も古文書も焼失した」と書いてあり、残念に思うことがよくある。『おんな城主 直虎』を見ると、龍潭寺だけが焼かれたように思えてしまうが、武田信玄は、「西上作戦」(「上洛作戦」と呼ばないのがみそ)のルート上の寺社に金銭を要求し、払えば安堵状を渡すが、払えないと焼いたので、安堵状のある寺社や焼かれた寺社を地図に書き込むと、武田信玄の進行ルートが浮かび上がるという。織田信長は、延暦寺を焼き、本願寺と対立したので「仏敵」のように言われるが、焼いた寺社の数なら、武田信玄も負けてはいない。
2.三方ヶ原の戦い

徳川軍と武田軍の合戦は「三方ヶ原」と呼ばれる台地で行われた。(太田牛一『信長公記』には、「武田信玄は堀江城に向かった」と書いてあるが、堀江城へ向かう庄内道を通った形跡がないので、「堀川城」や、その東の「刑部砦」の間違いであろう。実際、「堀江城」と「堀川城」を言い間違える人は今でも多い。)
旧説:小豆餅坂上説
新説:祝田坂上説
「三方ヶ原の戦い」は、以前は、小豆餅付近(徳川軍は「小豆餅坂」を駆け上り、坂に沿って鶴翼の陣を、武田軍は大菩薩山の欠下城から出てきて魚鱗の陣型(人数が多くて、通常の「魚鱗の陣型」よりも横幅が広い。スリムじゃない陣型)をしいた)とされてきたが、浜松市出身の大御所・高柳光寿大先生が「祝田坂の上で行われた」と言い始められたので逆らえない (゚∀゚ll)
「三方ヶ原の戦い」は、どう考えても、小豆餅付近で行われたとしか考えられない。1次史料(手紙や日記などの同時代史料)に「小豆餅で行われた」と書かれていればいいのだが、「小豆餅」「小豆餅坂」という地名は、「三方ヶ原の戦いの戦死者に、供養として小豆餅(春の彼岸の「牡丹餅(ぼたもち)」、秋の彼岸の「お萩餅(おはぎ)」)をお供えしていた場所」という意味で、「三方ヶ原の戦い」以後の地名であり、「三方ヶ原の戦い」の時には無かった地名であるので、同時代史料には出てはこない地名である。
※一説に、欠下城の25000の兵は武田軍信玄本隊で、小豆餅坂の5000の兵は別の道から来た武田軍別働隊(山県隊?)だという。両者は追分で合流し、入り乱れながら陣型を整え、鳳来寺道を進んだという。そして、これを見た人が「これが『三方ヶ原の戦い』だ」と間違えて伝えたのが「小豆餅坂上説」だという。
──なぜ、徳川家康は、篭城戦を選択しなかったのか?
諸説あるが、松平氏にしろ、徳川家康しろ、篭城戦はやったことが無いのでは? 野戦が得意なのではなく、野戦しかやったことがないのでは?
松平氏は敵が襲ってくると出陣して井田野で戦った。三方ヶ原は、徳川家康にとっては「浜松の井田野」なのだろう。
※三方ヶ原:万葉時代は「引馬野」と言った。「野」は「原」の古い呼称で、共に「台地」の意味である。(古い教科書には「三方ヶ原台地」とあるが、「原」と「台地」は同義であるとして、「三方ヶ原」と訂正された。)古くは「箕形原」と書き、形が箕に似ていたので、こう名付けられたという。地元では「みかたっぱら」と言うが、これは「田舎」という意味を含む蔑称であるから使わない方がよい。
※【参考記事】実は謎だらけの「三方ヶ原の戦い」
https://note.com/senmi/n/nb6558b10af98
3.野田城攻め

武田信玄は、浜松城を攻めず、三河国入りして稲木に本陣を置き、野田城を攻めた。(結果的にこれが生涯最後の城攻めとなった。)
徳川家康は、吉祥山の近くの山に陣取った。(そのため、この山は「旗頭山」と呼ばれるようになった。)
──三方ヶ原への出陣は、織田信長に対するポーズ、アピールである。
とする説がある。「野田城攻め」でも、「近くまで来たことは来た。やれることはやった」というポーズ、アピールはしたが、手も足も出せなかった。
4.「西上作戦」の真実
旧説:足利義昭の要請で、織田信長を倒して上洛
新説:大坂本願寺顕如と朝倉義景の催促で、長篠城まで行って帰国
武田信玄の「西上」は、「上洛」であると考えられてきましたが、1次史料(2月16日付東芳軒(足利義昭の側近)宛武田信玄書状)では、本人が
「今度大坂並びに朝倉義景の催促にまかせ、遠州に至り出馬候」
と言っており、「足利義昭の要請」ではなく、「大坂(大坂本願寺顕如)」と朝倉義景の催促であることが分かりました。
織田信長について1次史料(2月27日付武田信玄宛顕如返信)では、顕如が
「御自身之儀者、於其表有御張陣、弥被廻御計策、敵国之儀可被打果段、此刻候哉。江州西路事、此方、当門家中慈敬寺以調略属本意候」(織田信長を倒すのは今がチャンスだからやっちゃいなよ。なお、近江路は堅田慈敬寺に確保させましたので上洛も可能です)と言っている。つまり、武田信玄には、織田信長を討つ意志がなかったので、顕如が催促しているのである。
──なぜ武田信玄は、浜松城を攻めて、徳川家康を討たなかったのか?
『三河物語』では、「よもや、よもや」ではなく、
「さても、さても、勝ちても強き敵にて有り」(勝つには勝ったが手強い)
と徳川家康の強さを認めて、浜松城攻めを避けたという。1次史料で考えれば「徳川家康を倒すと織田信長が出てくる。それは避けたい」ということになろう。要するに、武田信玄は、長期間本拠地から離れて戦うことが出来ず、長篠城を確保して帰国する予定であったのに、周囲は「織田信長を倒すために出陣したのであろう」と邪推し、期待したのである。
トンデモ論では「徳川家康は武田信玄の実子であり、自分が死んだら武田家を継がせようと思っていかたら殺さなかった」とする。「桶狭間の戦い」直後、松平元康が岡崎市の菩提寺・大樹寺の先祖の墓前で切腹し、武田信玄の子と入れ替わったとするのはトンデモ論である。なぜなら、当時、大樹寺には松平歴代の墓はなかったからである。これは、「豊臣秀吉が、岡崎市の(当時は無かった)矢作橋で蜂須賀小六に会った」と言うような話である。
──家臣にならないか?
とは言ったのではないかと思う。『鬼滅の刃』の上弦の参・猗窩座が、炎柱・煉獄杏寿郎の強さを認め、「鬼にならないか?」と勧めた時の心境である。徳川家康は「家臣になるくらいなら刀を折る(武士をやめる)」と拒否した。
後に武田信玄の後を継いだ武田勝頼も浜松城主・徳川家康と、嫡男の岡崎城主・徳川信康にも「家臣にならないか?」と言ってみたところ、徳川家康は拒否したが、徳川信康はその気になったので、徳川家康は、徳川信康に切腹させたようだ。俗説では、徳川信康の正室・徳姫が、父・織田信長に徳川家康正室・築山殿と徳川家康嫡男・徳川信康の非(武田との密通など)を訴える「12ヶ条の訴状」を送ったことが、徳川信康の切腹に繋がったとする。そういえば、織田信長と足利義昭の訣別を決定づけたのは、織田信長が足利義昭の非を訴えた「17ヶ条の異見書」にある。「親子だなぁ」と思う。
織田信長と徳川家康の共通点もある。
織田信長は、桶狭間で今川義元の大軍を目にして、
「小軍なりとも大敵を怖るゝなかれ。『運は天にあり』。此の語は知らざるや」(『信長公記』)
と言っており、徳川家康は、三方ヶ原の武田信玄の大軍を浜松城から見て、
「人は多勢、無勢にはよるべからず。天道次第」(『三河物語』)
と言っている。
5.武田信玄は、どこで、なぜ死んだか?
──長篠城を確保して帰国する。
という西上作戦は成功したが、帰国途中に命を落としてしまった。
終焉地と死因については諸説ある。
《武田信玄の終焉地》
①【田口】福田寺の武田信玄公塚(『野田実録』)
②【津具】信玄塚
③【根羽】信玄塚と宝篋印塔(「ねばねの上村と申す所」『甲陽軍鑑』)
④【平谷・浪合】(『三河物語』)
⑤【浪合】(「信濃國波合にてはかくなりぬ」『徳川実記』)
⑥【駒場】火葬塚、長岳寺の灰塚供養塔(「御宿監物書状(写)」)
《武田信玄の死因》
①【病死】持病の労咳(肺結核)(「御宿監物書状(写)」)、肺炎
②【病死】胃癌、あるいは、食道癌(『甲陽軍鑑』)
③【病死】ストレス性胃潰瘍
④【病死】日本住血吸虫病=肝硬変
⑤【毒殺】織田信長に寝返った側近による毒殺
⑥【銃殺】野田城攻めの際に撃たれる。(『徳川実記』)
⑦【仏罰】鳳来寺の秘仏・峯之薬師像を出させて抱きついたから。
通説は「御宿監物書状(写)」に書かれていることである。
・命日:「天正元年四月十二日、東岱の煙を立て、北邙の露と消ゆ」
・享年:「年を積む五十三」
・死因:「肺肝」
・終焉地:「終に信州駒場に於いて」
※「小山田信茂宛御宿堅物書状」
一 元龜壬申三年十月三日、武田信玄引率分國諸卒、提一團扇至于遠隔、被發強旗之處、徳川前三河守家康無所廻避、向甲兵雖交刄、大倉一粟、大海之一滴、非合對揚、凌大敵無力、倒戈敗北、楯籠濱松之城地。喩猶紅爐消雪、易却石壓卵、不施寸鐵檎遠一州。直向三州動千戈、令撃碎在々所々。暫時成一矩焦土。覃兩季張陣、無際限依勞兵、爲偃息、先至于信國、可被納馬評定畢。元來、玄公懸望于天下呑胸於四海、卷舌於九河、振家名於海内可被貽名於後代、襟懐徹骨髄。由若肺肝病患忽萌復心不安切也。由是盡倉公・花佗術、雖用君臣佐使之藥、業病更不愈追日沈病枕。玄公政務之間、向所無弗靡、攻所無弗傾。武勇譽振天下、文道名聞于世上。數萬貔貅奉團繞、忠臣義士雖令渇仰、可防無常之殺鬼無兵壘、可留有待之壊身無關鍵。終於于信州駒場、黄泉下既屬續之砌、勝賴公近枕頭曰、「信玄一期之佳運、限今日沒命。我以三戸之小國攻伏隣國他郡、廻策於帷幄之中、亡敵於鈇鉞之下。爲一事莫不散欝望。雖然不擧、旌於帝都儀、妄執之隨一也。信玄亡命之由露顯者、當方怨讎窺時節可蜂起必矣。三四霜之間、勤秘批判、先堅封内備、鎭防國家、撫育義卒、一度花洛可責上事、縱離生死兩頭、雖成金剛實體、可爲歡喜」之由、慥有遺誡。積年五十三天正元年四月十二日、立東岱煙、消北邙露、幕下大小上下士卒、中流覆舟、一瓠漂浪、暗夜燈消燎如向五更雨。群議盈腹衆雖塞胸。勝賴公者、恩愛別離悲、家僕之面々者、累年舊好之歎、愁傷雖非淺。敵國漏聞難儀間、内者、雖含愁涙、外者不顯悲歎色、密奉送甲陽、蟄居塗籠中。抑勝賴公隱壊終顯、備於國主、所愛者有罪必罰、所悪者有功必賞、賞罰厳重。先慈悲、理非分明而糺奸直、萬事不顧私、廉潔因有下知、萬民半皈伏事、草上如加風、國家彌安泰、威光倍新也。仁智勇之三徳、恐者、不耻先君。
然而光陰如矢押移、漸過四暦事、夢幻之間也、境内静謐之上者、彼密事有顯形、御孝養尤可目出度之由定評議同趣、天正四年四月十五日、春日彈正忠、跡部大炊助、同美作守開塗籠奉見之、五體堅固座壷中、右之三臣滴蓋涙痕於袖中、則取出奉移厚棺、同十六日辰刻可有御葬禮儀定畢、御供衆、御影者、仁科五郎盛信、御位牌者、葛山十郎信貞、公御劔、小山田左衝門大夫、御腰物、秋山惣九郎、原隼人佐、前龕者、逍遥軒・鴻臚卿、後龕者、左典厩・左金吾、其外一門之面々奉團遶貴龕、大守御肩被掛紼、寔哭泣之分野奉見之者感御孝養程、聞之者無不流感涙、門葉之面々始、鴻臚卿、左典厩、其外家僕之旁々萬人烏帽子色衣、就中春日彈正忠別而往年之囚不淺付而、頻悃望申、剃髪染衣之姿御供、其外剃髪衆數百人、苾蒭方者、紫衣之東堂七人、黒衣之長老廿人、惣而僧侶千餘人、十宗八宗叢林之體不知其數、以綾羅綿繍飾幡天蓋、以金、銀、珠玉鏤棺槨、行道布白絹左右立双金燭、幡、天蓋聳雲、鈸鼓之聲者、響天、巍々儀式、堂々爲體、恰長壽王如來、五々菩薩極樂浄刹來迎不可如之、寔殊勝見物之道俗男女無不涕涙、悲休哀聲盈道路、哭聲喧國中。
先七佛事之次第、掛眞・建福寺東谷和尚、起龕・圓光院説三和尚、鎖龕・東光寺藍田和尚、奠荼・開善寺速傳和尚、奠湯・長禪寺高山和尚、下火・惠林寺快川國師、念誦圭首座、執骨・臨時寺鐵山和尚、安骨長・興津院大圓和尚、入室・開善寺速傳和尚、陞座・惠林寺快川國師、如斯、宿老・有智・奠宿蓋一代骨法、顯拈花微笑、門竿倒都極意、諸經教化之聲驚聽衆眠、是非阿難・羅睺羅争論其智之淺深乎、今度之集會者、人天龍象・江湖鯨鯢、説法不二大乗、微妙金言可靈仙一會之大法事、就于今般之經營蓋美蓋善體、委細述之者、以虚空爲口、以萬象爲舌、豐可諭分三矣、爲後勘記之、慚汗々々、御宿。
一 卒飛羽檄伸深思、抑去廿一西戎與合膚被交刄之處、天運未至歟、御味方練士若干令傷亡雖矢利、貴邊幕下士卒無恙、守御禦大將之由、無其隱候、必死則生之御三合力感入、寔歡抃之至不少、今度之大凶愚拙式迄、銘心腑欝念■(匚+口)散候、貴意御欝懐乍恐奉察、雖然萬人死殘一人、百陣破成一陣軍慣候歟、只見可戰不戰謂臆將、知可進不進謂弱將、察可退不退謂暗將、是謂將之三過、這般之敗亡者、更非勇將之耻處、又曰、不交勝敗非良將、以此御合戰未萌之御行、軍口味可爲明鏡、被鍛直敗卒重而直披決雌雄者、必得勝於瞬目之内可被振威於萬里外事、豐有疑滞、猶以萬死之内得一生、御歸陣目出忻幸存、以脚力申入候、言多則品寡、抂而止管城公、恐惶謹言。
小山田左衛門大夫殿御宿所 御宿大監物
御宿監物友綱が小山田信茂に送った書状である。前半は、美辞麗句で書かれた物語のようであり、後半は葬儀の詳細レポートである。(武田信玄の死は、遺言により3年間隠され、葬儀は3年後の天正4年(1567年)4月16日に行われた。)

遺体は腐って死臭がするので、駒場の伝承では、「武田信玄公火葬塚」(上の写真)で遺体を焼いて灰を取り出したことになっているが、「御宿監物書状(写)」には、「外者不顯悲歎色、密奉送甲陽、蟄居塗籠中」(悲しみを表情に出さず、密かに甲府に送り、塗寵(漆塗りの箱)の中に入れて、葬儀までの3年間、保管した)とある。透き間には漆を塗り込んで、外気に触れないようにしたという。そして、葬儀の時、「開塗籠奉見之、五體堅固座壷中」(塗寵を開けてみたら原型を留めていた)という。
※『急死した武田信玄の「宝篋印塔」と「信玄塚」』
https://iiakazonae.com/910/
※『信玄北帰行 ~三方ヶ原から駒場へ 150kmの旅~』
https://secret.ameba.jp/sengokumirai/amemberentry-12315008460.html
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