タイ人の人生観、タイで生まれていたら今ごろは?
私は自分の人生の転換点を迎えた時、偶然にもタイという国を発見した。
最初はこんなカオスでも楽しい享楽の国があったのか、また仏教文化に根差した
国民の柔和な生活態度にすごく共感させられた。
そしてタイという国をもっと知りたくなり本も読んだりもした。
仏教国といっても小乗仏教である。
一般の人々にはいわゆる悟りを開くことはできなく、ただひたすら僧侶や寺院に寄進したり、
タイ人の言葉でいえば タンブン(徳を積む)することでしか来世へのより良い生まれ変わりはないとされる。
そしてタンブンを積み、現世で凡人に許されることは、この世の気持ち良い極楽を享受することができることだそうだ。
そして一番違和感を感じたのは、その世のすべては徳と不徳のバランスの上に成立していて、
タイ人の頭の中にはタンブンの徳・不徳の比率表が組み込まれてあり、
これこれの良からぬことをしたからこれこれのタンブン(徳)を積み点数を稼いで帳消しにするとか、これこれのタンブンを積んだから徳の貯金は貯まっているので、少しは点数をマイナスに減らしてもよいとか、他人から良い行いを受けたら、それ相応のお返しをするとか、そういうことをタイ人は瞬時に比率計算するらしい。
良心から充溢する自然な気持ちや行いより、プラスとマイナスの比率計算で成り立つ人生観。
なんとも計算で成り立つ現世的なことかと思った。
一般の人々には修行とかで自己救済ということは不可能らしい。
ひたすら僧侶や寺院に寄進し僧侶を通して間接的に徳を積んで来世のより良い生を希求するというのだ。
いわばこの世では来世のための徳を積む場所なのだ。
来世の存在を信じているからこういう発想ができるのだと思う。
ある意味けっこう世知辛くエゴイスティックなことだとも思う。
自分の来世がより良いものになるために徳を積むという来世のためのポイント制度のようなのだ。
来世がなければ徳を積まないのだろうか、と考えてしまう。
自分としては、来世を信じてなく、来世がなくても即時的に善を行う(徳を積む)のは、それ自体に価値があるからするというごく自然的な動機付けが本来の姿ではないかと思う。
そしてこの世に生まれてきたひとりの人間として、タイのように一般個人にはこの世で悟りに導く修行や自己修練の機会がないというのは寂しいものだと思った。
人間の生きる存在意義が限られているようでもっと総合的な人間力の可能性を捨てているように思える。
涅槃に到達できるのは僧侶のみなのだ。
日本には座禅やお寺や仏壇での勤行など各人が自己修練や修行できる機会があるというのに。
しかし他方では、日本では仏教は葬式仏教となり果てている面もあり、タイのように今でも人々の間で仏教的な生き方が脈々と受け継がれているというのは、ある意味驚嘆に値するものだと思う。
そして、タイの僧侶の修行の世界は意外と仏教書の精読や思弁的議論というのはほぼ皆無らしく、
拍子抜けするほどの世俗的な話題に関心を持ちつつ、ただひたすら僧侶としての日々の行を遂行し伝統を継承し戒律を守る形式主義が超絶支配するような世界だと、タイで僧侶になった経験を持つ文化人類学者の青木保氏は喝破した。
いずれにしても、人間にはこれをすれば何かの得になるとか、来世のための徳の点数稼ぎなどそういう損得勘定以上に、あることを行うのは見返りを求めずそれ自体に価値と意味があるから行うのだという価値観があってほしいものだと思う。
しかし、物質主義一辺倒に見える今のタイ・バンコクの経済成長の発展ぶりを見て、
その中で旅行することはやはり楽しいのである。
私はタイ人の仏教観や生き方をここで批判するつもりはまったくなく、
ただこういう人生観もあるのだということを確認してみたかった。
そして伝統的なタイ社会を継続しながらも、現代のタイ社会は科学・経済至上主義による発展を享受している東南アジアの一流国であるということも特筆すべきことだと述べたい。
苦しくつらいことを忌み嫌うタイ人、一方で享楽的なタイ人。
そういうやや単純な図式が成立する国に生まれていたら、
自分はどんな人生を歩んで、どんな人生観を持って生きているだろうかと思うことがある。
